命懸けて(三)
喧騒は朝廷に抗議する民のもの。宮中の門前に群がる民のものだ。
(あの中に理那様が?)
心海は、理那が琴を弾いていると言った。理那の『広陵散』だと。
『広陵散』の故事を知らぬ宇成ではない。
(まさか!理那様!琴中に剣を?陛下を?)
戦国時代、聶政という刺客がいた。聶政は琴の名手で、その演奏を韓王に聴かせ、隙を見て琴中に隠し持っていた剣で王を刺し、父の仇討ちをしたと言われている。聶政は雇われ刺客で、刺殺した相手は宰相だという別伝もあるが──
いずれにせよ、『広陵散』は刺殺に至る聶政の様を描いた曲には違いない。
(先生?まさか、まさかですよね?)
心海が理那の『広陵散』だと言ったので、宇成は理那が民と共に朝廷や王に暴動するものと思い、慌てて走っているのだ。
しかし、獄舎と宮中の正門はかなり距離があるし、宇成はもともと走るのが苦手な上に、最近は肥えていた。息ばかりあがる。
そして、宇成が正門に至るよりも先に、王がそこに着いていた。
初め、民が不満を訴え、宮中の前に集まっていると聞いた時、王は当然の如くそれを無視した。しかし、その民を率いているのは弥勒寺の尼僧──あの生き菩薩だと聞いて、態度が変わった。
尼僧は、
「陛下!陛下!お話がございます!どうかお聞き下さいませ!」
と、喚き狂っているという。
「あの尼公が私に話があるというなら、聞こう。いや、聞くべきではないか」
廷臣達は危ぶみ、反対したが、王は民衆の前に出て行くと言ってきかなかった。
今、王以下貴族達を目の前にしたら、興奮している民は暴徒と化すであろう。王の身が危険である。だが、それでも構わないと、王は人々の制止を振り切って正門までやって来たのだ。
ところが、王は開門させる前に、門の内側で立ち止まった。王の背後には多数の臣下が従っている。高官から下役までいたが、皆、王と同様、門外の騒ぎに耳を奪われていた。
民衆と民衆は激しく争っていた。
はじめに都の民が、失政に怒って集結していたのだ。そこへ、後から尼僧率いる扶余からの難民の群がやって来たのである。
都の民衆は、昨日まで難民に同情的であった。が、一転して今日は、彼等を見るや否や、怒りを露わに罵り始めたのである。
「裏切り者の扶余人め!」
「契丹の犬め!」
怒号が飛び交う。石も投げ合う。
「陛下、これはいけません。民はもはや何に対して怒っているのか、自分でもわからなくなっているのです。そんな暴徒の中に、陛下を投げ込むことはできません」
門内で震える臣下達。王はふっと嘲笑した。
「やよ貴族どもよ、言葉を間違えているだろう。私ではない、そなた等が民の興奮の渦に投げ込まれるのが嫌なのだろう?恐れるな。普段そなた等が軽んじている民草ではないか。そなた等、力ある者が、草ごときに殴り殺される道理がないだろう?くくっ。──開門せよ!」
王は門をこじ開け、暴徒の前に出た。宇成はまだ到着できない。
門が開くと、耳に飛び込んできたのは、激しい怒号に混じる琴韻だった。
石が飛び交う背後を全く意に介さず、かの尼僧が琴を弾いている。
尼僧が率いる後ろの民衆は、すぐに王の出御に気づいたが、尼僧はなお琴を弾き続けていた。次第に民衆の騒ぎが静まって行く。
琴はそれによって、よりはっきりと音色を響かせるようになった。
王が貴族達を従え、門の外に進んでくる。民衆は水を打ったように静まり返り、慌てて次々に地面にひれ伏していった。
民達は都人も難民も、暴動する様子がない。ただ暴力的に尼僧が琴を弾くだけである。
なお気は緩められず、緊張に震えながら、貴族達は王の背後をついて行く。やがて、王は尼僧のすぐ前に来て止まった。
尼僧の手元を王の影が覆う。ふと、尼僧の指が止まった。
尼僧はその手を地面について、王に平伏し、やがてゆっくり身を起こした。
「我に用とか?何事か?このように民を引き連れての直訴、ただでは済まされぬぞ、覚悟しておるのだろうな?」
厳かな王の声。尼僧は当然という顔で王を真っ直ぐ見上げ、
「お出まし、まさかと信じられません。これも偏に陛下の海よりも深いご慈悲故のこと。ただひたすら御礼申し上げます」
尼僧の瞳に空が映っている。
尼僧は琴の下から書簡を取り出した。
「陛下への、私からの訴えは、これに──」
書簡を捧げるようにした。だが、王へ直接渡そうとはせず、一度捧げたそれを、琴の脇に置く。王はそれを目で追った。
「訴えとは、扶余のことか?」
王は視線を書簡から尼僧の背後の難民達に移した。視界の下の方で、尼僧が頷いたような気がした。
「陛下は間違いを犯されました」
不意に響いた尼僧の声。
王も貴族達も空耳かと尼僧をまじまじと見やった。
空耳などであろうはずもない。尼僧は声を張り上げる。
「高心海様を死罪に処するとは!陛下は間違われました」
今度はどよめきが起こった。だが、まだ驚いて、反論できる者はいない。
「高心海様は正しいのです。間違ってはいないのです。なのに──」
そこで、ようやく一人の官吏が怒鳴った。
「自分の欲望のために、姉を陛下のご寵姫と偽り、女真に送り込んだ。陛下を冒涜した。反逆罪だ!」
「いいえ!心海様は罪人ではありません!」
「無茶苦茶なことを!」
官吏の怒鳴り声にも尼僧は怯まない。
「陛下!あの方は無実です!どうか今すぐ放免して下さい!」
王の瞳が一瞬揺らいだ。だが、堪えて、ぐっと黙っている。
「陛下!ご覧下さい!この民たちを!定安を滅ぼすおつもりですか?心海様を罰することが間違いだと、どうしておわかりにならないのです?」
「陛下!」
「陛下!」
尼僧の背後で、勇気ある者が何人か声を挙げる。
一人が挙げれば、十人が、百人がと、次々に声高になり、しまいには暴動になると、貴族達は気付いて。武官数名が剣をすらりと抜いた。
「黙れ!難民が許しなく陛下に直訴など。斬るぞ!」
武官は発言者の喉元に刃先を突き付ける。発言者は恐れて尻餅ついた。
難民達は憎しみを込めた眼差しを貴族たちに向けつつも、声は出さなくなった。ただ睨んでいる。
尼僧はそれさえ気にもせず、王に訴え続けた。
「陛下!廷臣達に騙されてはなりませぬ。ありもしない罪を作り出して心海様を殺し、定安を敵の手にくれてやろうとしているのです。彼等のしていることこそ反逆です!」
「何を?!」
難民に向けていた刃を、尼僧目掛けて振り下ろす素振りをした武官に、尼僧は言い放った。
「心海様を殺したいのは、定安を滅ぼしたいのと同じ。心海様が死ねば国は滅びる。国を滅ぼしたいと思う気持ちがあろうがなかろうが、結果は国は滅びるのですから、同じことです」
「先ほどから呪わしいことを!おのれ!」
武官が刃を本当に尼僧に振り落とした。刃がその身に当たるよりも一瞬先に、尼僧は琴中から短剣を取り出し、武官の刃を弾き返す。
王は仰け反り、貴族達は震えつつ、叫んだ。
「殺せ殺せ!陛下に剣を向けたぞ!」
尼僧は跳び上がり、武官との間合いをつくる。
「貴様っ!陛下を弑し奉る気かっ?」
武官が再び尼僧を斬りつけた瞬間、尼僧は刃先を己に向けた。武官の刃が尼僧の肌を斬り裂くのと、彼女が短剣を自身の胸に刺すのは同時だった。
「理那様っ!」
ようやく宇成が着いたが、彼が見たのは、ちょうど膝を地面に突く尼僧の姿だった。
驚く満座の中、尼僧はなお自分で胸を刺しながら、目を剥く王に訴える。
「陛下!命をかけてお願い致します!高心海様に罪はありません……陛下は、間違いを……」
肩を斬られ、さらに胸を突き、尼僧は王を見る。
「陛下への、このような無礼は、許されないこと。ですから。私は死にます……が……どう、か──」
「理那様!」
宇成が尼僧に飛びついて、その身を支えた。蒼白になって必死にその名を呼び続けている。
「李理那……か。そなたは、何者か?」
王が尼僧を見下ろしていた。
尼僧は琴の脇の書簡を指差し、ふと穏やかな表情をしたように見えた。
「高、心海……の……妻……」
王の耳にだけ届いた。




