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命懸けて(一)

 やがて心海は都に連行されてきて、投獄された。


 王は心海の迂闊さを思い、また、現状を変える術を知らず、歯痒かった。


(心海!そなたはやり過ぎる。そして、軽率だ。何故、足下をすくわれるようなことを!臣下どもはそなたとは違う。大局を見るのではなく、揚げ足取りばかりが彼等の本分なのだ。それを知らぬそなたではあるまいに!)


 王は心海の投げ込まれている獄舎に近寄ることもできず、爪を噛む。


 朝廷での専らの関心事は、扶余における戦局ではなく、心海を弾劾することである。


「人間の性よ……」


 玉座から百官を見下ろし、呟く王。それを聞きとめた者は皆無である。


「国難に直面していても、人間最大の関心は高貴の汚職。戦より、そちらを優先する」


 汚職者を徹底して嫌うのは、人間の本質が清廉だからではあるまい。嫉妬だ。


 人間の本能は他人への妬みで成り立っている。他人より優位に立てば、それを無上の喜びとし、他人が富めば妬み、僻むもの。


(どうせ本音は心海が女真の首長の外戚になったのが妬ましいだけだ)


 王は、鼎が沸くように心海を弾劾し、罵る言葉を叫び続ける廷臣達を残して、後宮へと続く庭園に行った。一人になりたかった。


 しかし、運悪く向こうから妃が女達を引き連れて散歩してくるのが見えた。


 妃は頗る機嫌が悪い。女真によって、心海の姉が王の妾であることが否定されても、なお疑惑を持ち続け、王と口をきこうともしなかった。


 王は琳媛のために国葬を行おうかと思ったが、


「あの女の実の妹だから、そんなことを仰有るのですね?あれは、罪人・高心海の実の妹です!罪人の妹なぞ、私も王室も弔うわけがないではありませんか!それを、愛人の妹だからとふざけたことを!そのようなこと、王室ばかりか臣下達も許しはしません。そのようなことを今後また口になさるようなら、臣下への示しがつきませぬゆえ、私が真っ先に陛下へご譲位を迫り、太子を擁立して、臣下達をなだめることでありましょう!」


 まるで、鬼女のように口と眦を裂いて狂うので、王も匙を投げてしまった。


 国難にありながら、全てが投げやりな、どうでもよいという気分。脱力感に襲われていた。


 妃が視界に入るや否や、王は踵を返して去り行く。


(私は、いったい何のために王になったのだ!)


 烈万華をわざわざ追い、何のために……


 先王の時代に、契丹とこんなに大きな戦をしたことはなかった。先王時代、汚職は横行していたが、もっと平和だったではないか。


(私は、あのままではいつか契丹に襲われ破滅すると思い、軍を強化させ、周辺国と連携して、契丹に侵させないようにしようと。そのためにわざわざ先王を追って王になったのだ!)


 国を良い方に変えるために権力を得たのに。


 これでは逆だ。国は滅亡へと向かっている。


 そして、王になって思い知った。


 王には何の力もないのだと。世の中を変えることも、全臣下に言うことをきかせることもできない。


(権力?権力とは何だ?どこだ?どこにある?)


 からからと不意に王は笑い出した。


「陛下!陛下!」


 側近が慌ててこちらに走ってくる。


「陛下!一大事です!」


 どうせ扶余府が落ちたのだろうと王は思った。


「扶余城主は死んだか?それとも、降伏したか?」


 王が笑いながら言うと、息を切らして走ってきた側近は、いえ、と答えて。


「扶余城が敵の攻撃を受けております」


「なあんだ、落ちたのではなかったか」


 扶余の府城が敵の攻撃を受けているのである。側近はそのあまりに衝撃的な現実に、顔を蒼白にしているのに。王の有り得ない発言に耳を疑った。


「陛下、契丹が扶余府城を攻撃してきたのでございますよ?」


 扶余の内部深くまで敵が侵攻してきたのである。まして、扶余の本拠である。落ちれば、扶余の敗北が決定してしまうのである。


「陛下?」


「高心海を捕らえたのだ、こうなって然るべきだろう……私は、我が国は、心海一人の能力に頼り過ぎだったな。今更気付くとは。もう遅い。わははははは」


 青ざめる側近に、ひたすら笑い、王は、


「対策は臣下達が考えてくれるのだろうから、私は行く」


 どうせ、何も手は打てまいが、王の意見もまた聞き入れはするまい。


「どちらへ行かれますので?」


「はっはっはっ」


 王は宮中の外へと繰り出した。


 都は戦を知らず、風光明媚な景勝地。その美しさを引き立てる煌びやかな建物、町並み。何一つ変わらない。


 ただ、難民がいるほかは。


(すまない、すまない……)


 王は民達を眺めて涙した。


 難民達の間を見て回る。


 貧しい者も多く、住居不足で、野宿する者で溢れてはいるが、国の対策の甲斐あってか、ひもじさに堪えきれないといった様子の者は見当たらない。


 かの弥勒寺の尼僧の対策に習って、男は軍に入れることにしているし、健康な年寄りや女には、郊外の荒れ地を与え、開墾させたり、放牧させている。


 しかし、どんなに手を尽くしても、相変わらず難民だらけなのは、逃げてくる者が増え続けているからだろう。


 難民に何をしてやるべきかではなく、彼等が難民にならないようにして欲しいと言ったかの尼僧の顔が、不意に浮かんだ。


 そういえば、今日は見かけない。


「あの生き菩薩はどうしたのだ?」


 難民達の群に訊いてみると、最近見かけないという。


「はて?」


「皆、不思議がっております。どうなさったのでしょう?」


 難民達も心配していた。


 王は弥勒寺を訪ねてみようと思った。


 弥勒寺の前にある寺町。相変わらず賑わっており、人々も活発だ。その無垢な笑顔。


 王はまた涙がにじむ。


(ああ、いつかこの者達も、扶余の者らのように流浪するのであろうか)


 弥勒寺に着くと、王は奥院の方へ案内された。


 王は供を数名伴っているに過ぎず、非公式な訪問である。だが、ここは以前、烈万華が政変の時に逃げた寺。王室とも関わりが深い。


 寺の者も高位、高貴の人が多く、王の顔を見知っている者も少なくない。突然の王の来訪に驚きはしても、落ち着いて案内した。


 件の尼僧は女瀧脇の堂にいるという。


「あの尼僧は何者であるのか?」


 女瀧へ向かう途中、王は案内の者に尋ねた。


「李右相の息女です」


「李?……ああ、随分前に隠居した風流人の、あの大臣か」


 王の若かりし頃、臣下であった頃に、笛の名手と聞こえた大臣がいた。早くに隠居したのも、道楽に耽るためだと聞いていた。


 その娘であったのかと、王はなおまだ心海の妻であった女性だとは思い至らない。


 次第に瀧のやわらかな音が聞こえてくる。それに混じって琴の音がしているようであった。


「ここまででよい」


 王は案内の者と従者達とをその場に止め、あとは一人だけで女瀧へ向かった。


 琴の音が強くなっていく。


(これは?『胡笳明君』?)


 王は耳を澄ました。


 確かに、『胡笳明君』である。しかし、少々変わったものであった。


 いや。これは!


「そうだ!琳媛!」


 以前、琳媛が王に琴を弾いて聴かせてくれたことがある。その時の『胡笳明君』と同じだ。


(そうだ。確か、こんなふうに変わった『胡笳明君』だった。何故そのような編曲になったのかと問えば、違う、これが古来の形だと琳媛が言って──)


 近年演奏されている物の方が、本来の曲から離れてしまっているのだと。琳媛が弾いたものは隋朝の頃の姿を留めたものなのだと。


 今、瀧音に混じって聴こえてくるのは、あの時琳媛が弾いていたものと同じ、珍しい古い形の『胡笳明君』である。


 王の足が速まった。山道をかけあがるようにして、女瀧へと急ぐ。


 やがて、瀧の近くの堂の内に、こちらに背を向けて座る人影が見えてきた。


 足音に気付いたのであろうか。王が堂の前に至ると、琴の音が止んだ。


 尼僧である。


 尼僧が石像を鎮座させた壇の前に座り、琴を弾いていたのだ。


 尼僧は徐に立ち上がると、琴を石像のすぐ下に置いた。そして、石像に拝礼し始めたのである。


 王は驚いた。


 石像の下に、琳媛の位牌があったからである。


「そなたは!」


 王は拝礼中の尼僧に、つい声をかけてしまった。


 尼僧はくるりと振り返ると、憚りなく王を睨んだ。目は赤かった。


 王は思わずたじろいだ。その石畳の上に、ふらり、座り込む。


 尼僧はそのままの顔で、堂の階段を降りてきた。


 しかし、王の前に来て彼女は跪き、そしてはらはらと涙をこぼしながら、王に拝礼したのである。そして、懇願した。


「陛下、この国はあまりに非情でございます。どうか、琳媛様を弔ってあげて下さいませ!」


「……そなた……そうか。すまぬ。ありがとう。宗室である琳媛を、王室でさえ弔わなかったのに、そなただけ……」


「あんまりでございます。琳媛様はそうです、ご宗室でございますのに!ご位牌さえないなんて。国のために女真に行かれたのに、こんな仕打ちは、あんまりです。おかわいそうに」


「罪人の妹ゆえ、国葬することができぬのだ……」


「酷いです!非道です!琳媛様はご宗室なのに!」


 理性なく、尼僧は王を責め立てる。


 たとえ心海が罪人だとしても、心海は心海、琳媛は琳媛だろう。


「そもそも。心海様を投獄するなんて、おかしいです」


 尼僧は平気で言うのだが、王も何故かこの時、尼僧の無礼を許していた。特に無礼とも感じなかった。


「私の女と偽り、姉を女真に遣わした。これは大罪だと騒がれても仕方ない」


「いいえ!そのようなこと、陛下さえご寵姫であると公言なされば、それが真実になりますのに。陛下次第でございます」


「……」


「国難こそ大事。それに比べたら、心海様のことなど小事。小事に拘って大事を誤っては、致命傷を負います」


 心海の罪なんか目をつぶり、心海に引き続き大事を任せるべきだと言ってのける尼僧の心理は、普通でないのかもしれない。


「しかし、心海の嘘は国の威信にも関わると、貴族も役人も怒っている。民とて、心海を決して許すまじと、毎日獄舎の前に大挙して押し寄せてきている」


「民は政に関わっていません。事情もわからない民の意見は、宛てにはなりません」


 世論を阿呆と決めつける尼僧。王はあまりの変貌ぶりに驚いた。


「そなたがそれを言うのか?民の味方のそなたが」


「ええ、それなら難民たちにご下問下さい。扶余を救うために奮闘する心海様を、獄舎から出して欲しいと、皆言っています」


「私は定安の王だ」


 言ってはっとした。扶余も定安であると気づいたからである。


 尼僧はもう一度言った。


「心海様が考えつかれた策は、必ず成就するのに、それを誤りの罪のと決めつけて、心海様の策を途中で駄目にしてしまわれ、最後まで続けないばかりか、心海様を投獄してしまわれるとは」


 尼僧は起き上がると、くるりと王に背を向け、堂内に戻った。そして、再び琴を弾きはじめたのである。琳媛が弾いていたのと同じものを──。


(尼公は何者だ?何故、琳媛と同じように琴を弾ける?何故、琳媛にそこまで思い入れる?いや、何故心海を?)


 王は首を傾げる。ただ、心海と何らかの関わりがあることだけは確かだろう。王はそう確信した。


 王はしばらく琴を懐かしい思いで聴いていたが、やがてそっとその場を離れ、下の本堂に降りて行った。

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