扶余からの報告(三)
その後も契丹との攻防は続き、定安は勝つこともあった。だが、やはり契丹は強く、定安はどんどん拠点を失っていく。
河川も次第に薄氷を作り始め、いよいよ恐れていた季節がやって来た。
「春の雪解けまで何としても食い止めろ!」
定安の将軍たちは奮闘していたが、その都への敵の侵入を許すまいという、ごく当たり前と思われる会話に、扶余兵たちは不信感を募らせていった。
「定安の奴ら、扶余を定安の一部にしておきながら、扶余を国土だとは端から思ってないんだ!扶余が契丹に踏みにじられようが、契丹に奪われようが構わないんだよ。松花江の水にしか興味がない。松花江が凍れば、定安本国に侵入される。春になって雪解け水が溢れれば、松花江を敵は渡れないから、定安本国は安全だ。それまで踏みとどまれって、松花江を守れって。奴らは松花江の遥か前方にある扶余なんか滅んでも構わないんだ。契丹を扶余から追い出すことなんか全く考えてないもんな!」
扶余も定安の国土に含まれている。しかし、その意識の欠落を、扶余兵達は敏感に感じ取っていた。
扶余兵にとっては、定安兵と一丸になって、領内から契丹を追い出すことが、この戦に於ける一番の意義だ。だが、定安兵の最大の関心事は、敵の松花江越えの阻止である。
確かに、松花江さえ越えさせねば良しとしていた。扶余の地が敵に奪われても仕方ない、と。
扶余は定安に見捨てられた、切り捨てられた──その扶余兵の思いには、根拠がないわけではないのだ。
この扶余兵達の不信感。これは決して定安にとっても良いこととは思えない。
張大将軍が以前、心海に語った危惧。それが現実のものになるかもしれないその兆候が、扶余兵達の心の片隅に現れ始めていた。
心海は鋭い男だ。その兆しを、扶余兵達の会話の中から感じ取っている。
彼等をなだめ、あらぬ方向へ進まぬよう舵取りするのは、彼等の中に混じって戦を進める心海の役目である。
「扶余兵達の疑いを払拭させるためにも、扶余を守るために精一杯戦わねばならぬ。また、扶余兵に同志であることを強く訴えねばならぬ。彼等の不安を取り除いてやれ、日々の言葉に気をつけろ」
心海は自分の麾下にそのように命じていたが、それとは別の問題も発生していた。
女真から、新たな人質への問い合わせが来たのである。
「王の妾というのは本当か?」
この問い合わせに、朝廷は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「陛下!女真に人質を差し出したというのは事実ですか?」
新たな人質の提出は、誰も知らないうちに、心海が勝手に進めたことだった。
「琳媛が危篤とのこと。一刻を争うこと故、皆に相談する暇もなく、高司賓卿が気を利かせて、速やかに進めてくれた」
琳媛が死ぬ前に新しい人質を送る必要があったと、心海が勝手に姉を女真に遣り、その後で王にかくかくの次第と報告している。王は事後承諾ながらも、心海の機転に喜んでいたのだが。
「それ故、皆に相談することもできず、すまなかったと思っている」
王は百官に詫びた。が、問題は心海の機転や素早い対応にあるのではない。王の妾を送ったとする話である。
「おそれながら、陛下にそのような御方がいらっしゃったとは、驚きましたが」
王もさすがに困惑していた。
後宮には妃の他に側室が二人いる。だが、二人は健在で、今も変わらぬ生活を送っていた。
側室とはいっても、王の趣味で、好き好んで迎えたわけではない。
一人は黒水靺鞨の鉄利の姫で、もう一人は烈万華の外戚だ。愛も恋もなく迎えなければならなかった、政略の妃達である。
これからもっと、このような女性は増えていくであろう。
嫉妬深い王妃も、政治はできる女性だ。彼女達に嫉妬することはなく、王の立場をきちんと理解し、協力してくれている。
「陛下、別な所にご寵姫が?」
妾を囲っていたのかと臣下達は問う。
「確かに、後宮においでのお二方を女真に差し出すは、靺鞨との関係上まずいと思います」
王に他に妾がいたなら、それを差し出すしかなかったのだろうとは思うが。
しかし、王に、隠して囲っている寵姫がいるというのは、あまり宜しくない。
「……そういうことにしておけ……」
王はようやくそう答えた。
「陛下?」
王には以前、噂になった女はいる。だが、今の王の言い方は引っ掛かる。
百官の手前、妾がいると断言するのが不都合だから、言葉を濁したという雰囲気でもない。
「陛下、もしや?」
「女真の使者がいる間は余計なことを口にするな」
王はそれしか言わなかった。
廷臣達の間に疑いが広がった。
「陛下に妾がいるというのは、嘘ではないか?」
「人質は妾でも何でもない、ただの女か?これが女真に知られたら一大事だ」
妃の耳にも話は届いた。妃は烈火のごとく怒り、王に詰め寄った。
だが、王は困惑しつつも、
「事実だ……」
と答えた。
気持ちに偽りはない。王は確かに、心で心海の姉を妾にしていたのだから。
「やはりそうだったのですね!」
妃は逆上して、以降、随分長い間、王と会おうとしなかったくらいだ。
妃の反応を見て、女真も人質が王の女であるということを信じたのであろう。間もなく使者は帰って行った。
だが。実は疑惑を深くしていたのである。
「女は王の側室ではないのかもしれません。定安の臣下達の反応を見ますと。偽りかと」
使者は帰ると、女真首長にそのように報告した。
「王の女か否かなど、確かめる術もないわ」
定安側の話を信じるしかない。だが、疑いがあると、定安への信頼が揺らぐのである。
そして、ついに琳媛が亡くなった。
女真首長が琳媛の亡骸に対面に行くと、亡骸の傍らで涙ぐむ女がいた。琳媛より少し年増だか、似た面差しの女。
「そなたは?」
女は涙に潤む瞳を向け、楚々と答えた。
「定安から参りました」
「あっ、ひょっとして貴女か、定安王の側妾というのは?」
首長はまだ定安からの人質に会ったことがなかった。
「えっ?」
女は一瞬、意味がわからないという顔をした。
「定安から新たに来た……」
「は。はいっ!そうです」
新しい人質なのだろうと訊こうとしたところで、女がはっと何事かに気付いたらしく、慌てて定安王の妾だと認めた。
しかし、首長は女の一瞬の躊躇いを見逃さなかった。
「充媛様です」
首長の従者が、女を紹介した。
「琳媛に似ている」
「……姉でございます」
「ほう、そうであったか!」
にたり。首長は琳媛が亡くなったというのに、場に似つかわしくない表情を浮かべ、女を見やった。
その後、首長は琳媛の部屋を出ると、従者に耳打ちした。
「充媛は定安王の側室ではないな。ま、試してみるか。年増ゆえ、確認できないかもしれないがな」
しばらくして、定安から女真へ使者が遣わされた。使者は琳媛の死に対して送られたものである。
琳媛は定安から女真へ嫁いだ身であり、故郷から使者が来るのは当然であろう。
葬儀も終わり、いよいよ使者が帰ろうとした折、女真首長がおかしなことを口にした。
「充媛様は琳媛の実の姉とか。人質という身分では申し訳ないので、室とした。琳媛も亡くなってしまったし、室を亡くしたなら、その姉妹を迎えるのはよくあること」
定安の使者達一行は仰天した。
つまり、女真首長は新しい人質を後妻としたというのである。
しかし、新しい人質は定安王の妾のはずである。
「なんですと?」
「おや、なにをそう驚く?そちらもそのつもりで、わざわざ琳媛の姉妹を送ってきたのだろう?女直(女真)はこれからも、これまで通り定安とは同盟関係を続ける」
「し、しかし、我が国の王のご寵姫を……」
王の妾に手を出したのかと怒れば、女真と喧嘩になってしまうし、使者は何と言ってよいかわからなくなってしまった。
しかし、首長はとぼけて言ったのである。
「ご寵姫?何かの間違いでは?無垢な充媛。定安王のご寵愛を受けた形跡はないが?」
弥勒寺の美しい尼僧──かつて理那であった彼女は、毎日変わらず町に出て、難民を救済していた。
難民は減らない。国は対策をしてはいたが、それでも間に合わないほどだ。
そして、遼東方面からの難民が減っているのに対して、最近は専ら扶余から逃げてきた者ばかりである。日に日に人数は増え、以前の何らの対策も講じなかった頃よりも、深刻になっていた。
彼等への救済に日々忙しく駆け回っていた尼僧だったが、それでも不審に思えてならないことがあった。
王の一族として女真に嫁いだ琳媛が亡くなったというのに、国が何の弔いもしないことである。
法要の一つもない。供養塔を建てることさえない。
薄情なことだと憤る気持ちよりも、遥かに不可思議さが勝る。
(いったいどうして?)
尼僧にとっては、かつて一緒に暮らした妹。貧乏に堪えて、励まし合って生きた同志でもある。
あの可愛い琳媛が、苦悩の末に亡くなったのだと思うと、悲しくて悲しくてならない。
国が彼女のために何もしないならばと、尼僧は個人的に琳媛の法要を営み、彼女そっくりの小さめの石像を彫らせた。
尼僧は難民相手に忙しい中、琳媛を供養するために彫らせた石像に毎朝経を捧げ、弔いを欠かさなかったが、ある日、琳媛の死と同じくらいの、驚愕の知らせがもたらされた。
扶余から届いたその報告は。
司賓卿高心海の職を剥奪し、その身柄を捕らえ、都に連行中とのことであった。
「な!何故に心海様がそのようなことに?」
尼僧は憚りもなく叫んでしまった。
「何故です?何故なのです?」
朝廷での決定はこうであった。
「高心海は己の姉を陛下のご寵姫であると偽った。そして、その嘘により、女真の我が国への信頼を失墜させた。また、これは陛下と国家への侮辱であり、反逆罪に相当する」
心海の嘘が露見したのだ。百官は激怒。王を冒涜したものだとして、処刑を要求した。
さらに。
「危険だ。偽って陛下を侮辱するばかりか、妹に続き姉までをも、女真の妃にするとは。これは、女真の首長の外戚になって、絶大なる権力を得、外戚という立場から、女真ばかりか定安までをも操ろうと欲したもの」
「女真の外戚となって、女真に接近した。今後は女真の立場から定安に物言うようになるかもしれぬ」
そう廷臣達は言い合い、心海に定安に刃向かう心がある可能性有りとの解釈もされ、これ以上、彼を野放しにはできないとの意見で一致したのである。
王も、勝手に心海の姉を妾にしたことにされて立腹していたのか、心海逮捕を声高に叫ぶ百官に逆らわなかった。
王が特に何も言わなかったため、廷臣達が動いたわけである。扶余で戦う将軍達のもとへ、心海の罪状を伝える使者が行った。
将軍達は日頃から心海と折り合いが悪かったので、
「それ!とっとと捕らえてしまえ!」
と、心海に縄をかけてしまった。
そうして、心海は都に護送されるに至るのである。
尼僧はわなわなと震えた。
国が琳媛を弔わないのは、彼女が心海の妹であるから。廷臣達が軽んじたため。
また、姉が王の妾だということをまだ疑い、嫉妬している妃の癇癪による。
「心海様を捕らえて獄舎に投げるなんて、定安はもう終わりです!」
尼僧は難民達の前でもはばかりなく叫んだ。
そして、琳媛の死を悔しく、また非常に悲しく思った。




