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生きた菩薩(三)

 心海との離縁後、なお未練がましく彼の様子を見ていた彼女。ある時、懐妊に気付いた。


 しかし、実家に帰っていた彼女が子を産むことは難しく思えた。父の李公がすんなり産ませてくれるとは思えず。さりとて、心海のもとに戻るわけにもいかず。


(産んではならない子なの?)


 何度も何度も悩んだ。


 堕胎しなければならないのだろうか。


 しかし、そう考える一方で、堕胎を思ったことは一度もなかった。


 密かに。どこかで。一人で。産むのだ。


 その思いが常に全身を包んでいた。


 だが。それでもやはり、悩みと迷い、苦悩はあった。


 救いを求めて弥勒寺へ、美しい菩薩像を拝みに行った。菩薩像を眺めているだけで心が浄化され、清らかな涙が溢れ出てきて。その涙とともに、悩みも迷いも流れ出て、全身清められたような気がした。


 救われた彼女は、決意を新たに帰路についた。だが、そこで。彼女は大量に出血して倒れたのだ。


 承瑤の店の前でのこと。


 承瑤は自分の店の前に倒れている貴族の女に驚き、連れ帰って、夫と協力して介抱した。医者にも診せた。


 だが、理那の子は助からなかったのだ。


 意識を取り戻し、絶望する彼女を見て、承瑤は強く同情し、流れた子のために墓を作った。


 心から理那に尽くし、看病してくれる承瑤に、理那はどんなに感謝したことかしれない。ゆっくりとだが、徐々に回復して行った。


 彼女は見るからに貴族である。着ている物も、装飾品もとんでもなく高価で珍しい物ばかり。しかるべき家の令嬢に違いない。


 承瑤は心配になった。流産して深く傷ついていることもあろうが、彼女は決して自分のことを話そうとしなかったのだ。


「こちらにいらしてから、随分日も経ちました。お家の方が心配していらっしゃるでしょう。きっとお捜しでしょうから、貴女様がここにいらっしゃることをお知らせしたいのです。お名前を教えて頂けないでしょうか?」


 承瑤がそう言っても、理那は首を横に振るばかりであった。


 何故そう頑ななのか。承瑤は訝しく思ったが、話したくないことを無理に訊くものではないと夫も言うので、それ以上は訊かなくなった。


 承瑤と夫は何も言わず、ただ心を尽くして看病を続けた。


 その有り難さに、ついにある日、理那の方から言ったのだ。


「お腹の子は、とてもとても大切な方の御子だったのです。でも、私の懐妊は父に知られるわけにはいかなかった……家を出て、人知れずこっそり産むつもりでいました」


 庶民と違って、貴族に恋愛の自由はない。これは困った理由があったのだと承瑤は理解して、ただ一つだけ確認した。


「御子様の父上様にはお知らせしなくても?」


 その質問に、理那はそれまでになく取り乱し、泣いて訴えた。


「お願い!誰にも言わないで!」


 彼女の子の父も、彼女の懐妊を知らない、知られてはならない──つまり、承瑤の想像の範囲を超えた悲恋なのだ。承瑤はただ頷き、事情のわからぬまま、理那の願いに従った。


 それからしばらく養生を続けた結果、理那はすっかり回復した。彼女は翡翠や銀の簪、鼈甲や金の腕輪等、身につけていた珍品を全て承瑤に差し出した。


 定安国において、鼈甲と翡翠は王族くらいしか持たぬ貴重品である。長いこと世話になったとはいえ、この礼は過ぎる。しかし、理那は辞退する承瑤に無理に押し付け、久しぶりに李家に帰宅した。


 李家では当然、突然理那がいなくなったことに大騒ぎであった。その理那が、数ヶ月振りに帰ってきたわけだから、それは一悶着も二悶着もあった。李公が激怒して、理那がしばらく主殿に立ち入れなかったことは言うまでもない。


 理那は決して家を長期間留守にした理由を言わなかったし、李公はそんな娘の態度を不真面目と取ったであろう。親戚の目もある。


 だが、娘の理由なき逐電は、離縁の衝撃によるものなのだと父は理解していた。やがて、不憫な娘と、李公は彼女を許し、反動で心海への恨みを強く根深くした。


 娘を不安定にした離縁。娘を盗んで、勝手に許可なく結婚しておきながら、娘を捨てた。理不尽な男。


 父のその誤解を解きたくは思ったが、理那が何を言おうとも、聞く耳を持たぬし、まして、長期間の留守の本当の理由を言えば、益々父の心海への恨みは強くなるように思えて、言えなかった。


 懐妊した娘を捨てた男。娘の身に起きた流産という悲劇も、命の危機も知らない男。きっと父は激しく憎悪する。


 以降、理那が真実を語れる相手は承瑤だけとなった。


 李家に帰ってから、理那は子の墓参りが難しくなった。そうしばしば外出もできない。察して、承瑤が毎日管理をしてくれていた。


 理那は琴の稽古に外出することはある。そのような時には、必ず承瑤を訪ねるようになった。


 理那にとって、かけがえのない存在になっていた。


 初めは名乗りさえしなかったのに、次第に名前、家柄など、明らかになっていった。だが、承瑤にとって、理那が何者か、流れた子の父が誰か、どのような関係かはどうでもよかった。


 理那にとって、その悲恋が大切なものだということがわかっただけでよい。ただ、いつまでも彼を愛し、忘れられず立ち直れずにいる彼女に、我がことのように胸を痛めていた。


 やがて、成金の宇成と知り合い、理那と宇成との会話から、さらに、何故か承瑤が宇成に懐かれてしまい、親しくなったことによって、理那の愛する人が何者であるのか、承瑤も知るようになった。


 今は、全て事情を知っている。心海の名も、理那の夫であったことも、離縁しても互いに思い合っていることも、理那が出家して尼僧になった理由も。






 長々と墓の前にうずくまっていた王が、ようやく立ち上がって、


「尼公、ありがとう」


と言った。


「とんでもないことでございます」


 理那だった頃の思い出に、半ばぼうっとしていた尼僧は慌てて恐縮した。


「私ごときの子のために、陛下おん自らお参り下さるとは。勿体無いことでございます。まことに、恐れ入ります」


 そして、視察の足を止めさせたことを恐れた。


「陛下の貴重なお時間を、無駄にしてしまい、恐ろしく思っております」


「いやいや。尼公にとっては極めて知られたくない秘事、それを明かさせることになってすまなかった」


 王は微笑み、さらに視察団の方を向き直って、


「尼公を恐縮させるのも悪い。そろそろ行こうか」


 再び視察の一行が進み始める。


 女房はどうしても墓の前で待っていたいというので、そこから先は尼僧だけが一行を案内して行った。


 墓地の先は鬱蒼とした森が広がっている。その木々の間から、読経の大音声が響いていた。


 先程、王の視察の列の前方を行っていた、葬列の僧侶達だろう。


 王の一行が森を切り開いた難民用の臨時の墓地に着く。


「これは……」


 王は瞬間眉を顰めた。


 難民一人一人に墓が設けられていることを想像していた。しかし、目の前に広がる光景は違う。


 墓は一人一基ではなかった。大きな穴に、多数の死者が投げ込まれていたのだ。


 ただ、僧侶の配慮だろう。一人一人丁寧に並べられ、安置されている。それだけが救いだった。


 やがて僧侶達の読経が終了した。


「これは埋めましょう」


 僧侶達がそう言い合っている。穴はいっぱいになっていた。ここは埋めて、新しい穴をまた掘るつもりらしい。


 僧侶達はすぐに埋葬を始めた。王は堪えきれなくなり、絹の衣も気にせず、彼等の中に入って、自らの素手で土を掛けていく。近衆達も手伝い、作業はすぐに片づいた。


 僧侶達は無言で王達に手を合わせ、鈴を鳴らして去って行く。それを見送り、王は墓に祈りを捧げている尼僧に声をかけた。


「今日はありがとう。現実は思っていたよりも厳しかった。よく知ることができたよ。やらねばならぬこともわかった。だが、さらにそなたの意見を聞きたい。難民と接しているそなた、私や国は難民に何をしてやればよい?」


 難民のために何をすべきかは、王自らの目で確認したのだから、聞かなくてもわかるだろうと思ったのであろうか、尼僧は王の質問とは少々違った答えをした。


「難民をこれ以上増やさぬようにして頂きたいと、左様に存じます」


「それは──?」


 この菩薩のような尼僧が、まさか国境を封鎖して、難民を閉め出せとは言うまい。そういう意味ではないことは明らかだが、王は問い返した。


「難民を増やさぬ?もしや、契丹と和睦せよということかな?」


「いいえ」


 尼僧ならば、平和を願うのがむしろ当たり前。だが、尼僧は現実をわかっている。


「契丹は、どう足掻いても和睦に応じてくれない相手。それは私も諦めました」


 定安の全国土を契丹に差し出し、全定安人を奴隷に差し出すと言わない限り、契丹は和睦に応じない。


「今のままですと、遼東方面からの難民は増えるばかりでございます。そして、今年中にはさらに、扶余方面からの難民も増えることでございましょう。今でも都に難民が多数おりますのに、扶余から数千数万の難民が押し寄せてくるようになったら……」


 王はその言葉にどきり、ぎくりとした。


「扶余への転戦を主張しているのは、高司賓卿のみであると伺っております。一人の意見を容れることが難しいであろうことは、私でも想像できます。ですが、一人で百人分働ける司賓卿のご意見、一人の意見ではなく、百人分の意見と見なすべきではないでしょうか?このまま大氏の王子と遼東の覇権争いを演じ続ければ、定安の対契丹戦の戦場は扶余に移り、扶余の民が戦に苦しむことになります。どうか司賓卿をお信じ下さい」


「今のうちに扶余から契丹の背後に討って出て、戦場を契丹領内とすれば、確かに扶余の民は戦に巻き込まれはするまい。そうだ──」


 そうなのだ。このままだと、冬には契丹の方から扶余に攻め入ってきて、扶余は戦場になる。それどころか、扶余で敵を食い止められなければ、都が陥落する。そうなれば、難民どころの話ではない。


(わかっている。だが、心海を立てれば、政変が起こり、滅亡の日が早まるだけだ。政変さえなければ、心海の策なら、定安滅亡を防げるだろう。だが、政変を防げるとは思えぬ。どの道定安が滅びる運命ならば、一日でも長く在られる道を選ぶしかない)


 王はそう思うと同時に、心海を立てて欲しいと願う尼僧を不思議に感じた。

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