生きた菩薩(二)
尼僧は王に拝礼した。
「そなたが生き菩薩か?」
王が直接話し掛ける。この気楽さは、もとは臣下であったからであろう。
「菩薩などととんでもないことでございます。私は生身の人間。ただの尼でございます」
尼僧は物怖じせず、応えた。
「どこの寺の尼だ?」
「弥勒寺でございます」
「なるほど、あそこの弥勒菩薩によく似ておる」
それ故、人々が勝手に生き菩薩などと呼んでいるのだろうと、王は思った。
「この尼が難民達に薬や食料、仕事を与え、難民達を救済しているのでございます」
尼僧の噂を知る側近が、菩薩と呼ばれる由縁が容姿だけでないことを、王に説明した。
王は頷き、
「それこそまことに菩薩だ。我に代わり、人々を助けてくれたこと、礼を言おう」
「いいえ。私は菩薩などでは。生々しい女、業深き人間にございます。その業が、難民の苦しむ心に感応したのでしょう。居ても立ってもいられず、このようなことをしておりますが、罪滅ぼしにもなりませぬ」
若い美貌の女である。それが尼僧となっているのだから、余程のことがあったのであろう。気品があるが、見た目では人はわからぬ、もしかしたら遊女だったのかもしれないと、王は思った。
「その者は?」
尼僧の隣の女房について、王は尋ねた。尼僧はかしこまって答える。
「俗世にありました頃よりの知人、いえ、恩人でございます。居酒屋の内儀でございます」
「ほう?居酒屋の。そうだ、視察の帰りに寄って食事でもしよう。どこの店かな?名は?」
女房は仰天して、肥えた体を硬直させ、絶句してしまった。尼僧が苦笑して代わりに言う。
「承瑤でございます。店は寺町にございます」
「寺町か。覚えておこう。尼公の説法の手伝いをしておるのか?」
女房はまたまた答えられず、とんでもないと言わんばかりに、ただ手を横に振り抜いた。
「私が辻に立ちますと、いつもやって来て、こうして水をくれるのです。未だに世話になってばかりでございます」
尼僧が言った。王はそうかと尼僧に頷いた。
「ところで、尼公はまだ若いようだが、どうして出家などしたか?」
よほど強くその罪業を感じたのであろう。尼となってもなお、難民救済をして罪滅ぼししようと努めているのだから。
「結婚する予定でしたが、許嫁を裏切りました」
「他の男が──?」
尼僧は素直に頷き、
「その人がどうしても忘れられなかったのです」
なるほど、他に男がいて許嫁を裏切ったというのは、確かに業が深い。
「それで、罪を悔いて出家したのか。しかし、その美貌だ、独身で尼になるなど、さぞ都じゅうの男が嘆いたことだろう」
「いいえ、私にはかつて夫がおりました」
「なに、今、許嫁がと言ったではないか……そうかそなた──」
離縁したことがあったのかと王は悟り、これは益々罪深い女だったのだと思った。
その時、王の視線の彼方に僧侶達が列をなして粛々と進むのが見えた。列の中ほどには簡易な棺が見える。
「あれは?」
庶民の葬列とはいえ、簡素で、王は尼僧に質問した。
尼僧は葬列に目をやり、すぐに眉根を寄せ、悲しげな溜息をついた。
「難民が亡くなったようでございます。難民は貧しく、十分な食料も薬もないため、亡くなる方が後を絶たちません。私達にできることといったら、弔うくらいで、何とも悲しくもどかしいことでございます。弔うことしかできないと申しましても、難民には墓地もなく、森の中に穴を掘り、埋めるばかり──」
王には耳の痛い話であった。しかし、きちんと向き合わなければならないと、尼僧に難民の埋葬地へ案内するよう命じた。
尼僧は快諾し、女房と二人、王の視察団を先導する。前方に小さく、先程の葬列の最後尾が見えていた。
葬列、次いで視察団は都のはずれの墓地に来る。ここは下級官吏や兵卒など、一部の下級貴族と庶民達の墓地で、上流階級の人々の墓はない。
その民達の共同墓地を進んで行くと、その中の一つの墓の前で、尼僧の足が一瞬止まった。
今朝供えたらしい新鮮な花が手向けられている。
女房が、こそと尼僧に耳打ちした。
「理那様、私はここで」
「それは駄目です」
「でも、お水を上げないと」
「いいえ、陛下をご案内してからです」
「どうかしたか?」
一瞬のやりとりであったが、王は耳敏く聞き取り、二人に声をかけた。
尼僧は振り返り、
「いえ、大したことではございません。大変ご無礼致しました」
と頭を下げた。
「大したこととも思えぬ。それは、その墓は誰のものか?」
「はあ……」
尼僧は口ごもる。
「大事な墓なのであろう。構わぬ、待っているから、参ってきなさい」
「え、ですが……」
王は柔和に微笑んでいる。
尼僧は睫を伏せた。
(ああ、やはり心海様が王にと望まれた御方だわ。慈悲深い方だこと)
尼僧は王に対しては正直であらねばならないと思ったか、王の前に跪き、問われたことにしっかり答えた。
「これは我が子の墓でございます……」
王も側近も目を見開き、驚きの声をあげた。
「なに、尼公の子だと?」
「はい、生まれてくることのなかった……」
尼僧は女房を顧みて、
「生まれてこなかった子だというのに、この承瑤は、丁寧に墓を作ってくれました。そして、毎日掃除をして、花を供えてくれます」
罪深い女ゆえ、尼になった。許嫁を裏切ったとも。これは、別な男との不義の子だろうか。だから、産むことはできず、堕胎したのか。堕胎したのだとしたら、益々罪深い女である。
王の思考が読み取れたか、初めて女房が発言した。
「理那様は離縁に嘆かれていました。いつまでも悲しまれ。そんな時、ご懐妊に気付かれたのです。でも、悲しみがお体に障ったのでしょう。ある日、私の店の前で血を流して倒れていらしたのです。私は急いで家に連れて行って介抱しました。それが、私と理那様との出会いでした。理那様のお体は危険な状態で、必死に看病しましたが、お子は流れてしまいました。理那様とて危なかったのです。でも、辛うじて一命をとりとめて下さいました」
女房はその頃のことを思い出したか、話しているうちに涙が止めどなく流れてきて、ついには嗚咽しはじめた。
「夫の子であったか」
王も気の毒そうに眉根を寄せ、尼僧と女房とを等分に眺めた。
尼僧は瞼を閉じ、ふっと笑った。
「これもこの子の運命でございましょう」
「そうは言っても、さぞ辛かったであろう。そうか、その苦しみもあって──」
子を無事に産めなかった悲しみもまた、彼女を若くして出家に駆り立てたのであろうと、王は思った。
「そなたの子のこと、別れた夫は知っているのか?」
「いいえ。伝えようかとも思いましたが、余りにそれは気の毒で……」
もっともっと苦しめ、泥のようになってしまえ、絶望がのし上がる力となるのだから──かつて、彼にそう言った尼僧だったが、さすがに子のことは言えなかった。言えば、彼をもっと追い込めることができたのかもしれない。だが、そこまでできなかった。
そのぬるさ、甘さは彼のためにならないであろうかと、何度か考えもした。それでも、言えなかった尼僧の苦悩。
「結局、私が身ごもったことも流産したことも、知っているのは承瑤と承瑤の夫だけでございます」
実の父さえ知らぬことだ。
「なんと。そのような秘事を」
王にだけ告げられた尼僧の秘密。
王は、
「墓に参らせてくれないか?」
と、自ら墓の前に跪いた。高心海の子の墓とも知らずに。
王の態度を有り難く勿体無く思いながらも、尼僧は不思議な巡り合わせを思う。
我が子の墓前にうずくまる王の背中を眺めながら、尼僧は理那だった頃のことを思い出していた。




