大元(三)
心海のこうした動きの中、定安軍の引き返しが開始された。
「絶対になりません!私は絶対動きません!ええ、私の軍だけでも扶余に行きます!」
軍勢が引き返し始めると、心海の軟禁は解かれ、心海は去り行く定安軍の中を馬を縦横無尽に走らせながら、怒鳴って回った。だが、どうやっても行軍を止められない。
「うるさい奴だ。勝手にしろ!」
心海の手勢二百余騎程度が、ついて来ずに扶余に行っても、大した影響はないと、張大将軍は心海を置き去りにして行った。
そして、問題は別な所でも発生していた。
鴨緑江を目指して御幸していた王の行列が、突然、謎の一隊に襲撃されたのである。
幸い敵の数も少なく、近衛軍が応戦して、王にはかすり傷一つなかったが、ゆゆしき事態ではある。
「何者の仕業か?」
王は敵の正体を調べさせたが、なかなかそれが明らかにならない。
「陛下、ここから先は大氏が活発に動いている地域に入ります。もしや、陛下を襲いし不届き者も、その大氏の手の者かもしれませぬ」
王のもとへも、大元の決起と遼東の定安軍が落とされた旨、報告が届けられている。
「陛下、御幸は高司賓卿よりの要請にございますなれど、遼東周辺を大元に押さえられたのならば、鴨緑江へ下向なさるは危険と存じます。都へ引き返しましょう」
側近達はそう言うのであるが、王は心海の才能を認め、信じてもいる。
「大元に占拠されたなら、余計に高麗が大事。鴨緑江には行かねば」
しかし、その後も多方面から続々と良くない報告がもたらされた。心海の作戦に将軍達が反対しているとか、ついには決裂したとか。
心海からの使者も何人もやってきた。扶余の背後から契丹を襲わねばならないから、将軍達の決定を却下してくれと。
「いかにも高司賓卿の言う通りだ」
王も心海の戦略に同意している。が、そうしている間に、王への二度目の襲撃があった。これも撃退してしまったが、いよいよとんでもない事態になったと、側近達は浮き足立つ。
そこに張大将軍以下、全武将達の署名がなされた嘆願書が届けられた。
王が何者かに命を狙われたと知った彼ら。こうなったのも、遼東を離れ、扶余に兵を向ける策を強行した心海の責任であるとして、彼を訴える嘆願書なのである。
心海がこんな愚策を強行しなければ、遼東を大元に奪われることはなかった。また、心海が王に御幸させたため、遼東を占拠した大元が王の暗殺を謀っているのである──心海の責任を問い、罷免してほしいと、全将軍心海の軍目付罷免を求めていた。
「これは困った。心海が正しいはずだが……」
誰一人心海に従わず、心海と対立している──この場合、正しい方に軍配をあげる方が間違いだ。
心海の戦略通りに行えと言ったところで、果たして将軍達が王命に従うであろうか。また、しぶしぶ従ったとしても、士気は下がり、まとまらず、契丹を背後から討つ作戦も、効果的ではなくなるかもしれない。
では、このまま将軍達の意見を聞いて、果たして契丹に勝てるであろうか。
「陛下、まことに畏れながら」
側近の一人が献策しようとした。彼は王妃のいとこであり、王にとっても古くからの友である。
「まことに申し訳ないことですが、陛下は王位に座られてまだ日も浅く、また、先王のご一族でも、まして大氏でもありませぬ。その、畏れながら、陛下は少々臣下どもの顔色をご覧遊ばしてですね……」
「言いたいことはよくわかっておる」
王はまだ絶対的な力を持っていない。王になって間もないばかりか、もとは臣下だった人間だ。
絶大な力のない王は、いつ臣下達から引きずり下ろされても不思議はない。いつ政変が起きてもおかしくないのだ。
全将軍達の機嫌を損ねたら、それこそ王の座を下ろされるであろう。
「しかし、我が王座と国の存亡と、どちらが大事だというのか。契丹に負けるは国の滅亡を意味する。国あってこその王位よ」
契丹に勝たなければならない。そのためなら、自身は玉座を失うことになっても構わない。王はそう思っているのである。
「陛下のお気持ちはよくわかります。ですが、今、政変なぞ起こされるわけには──。陛下が王位を追われるような混乱は、絶対避けねばなりませぬ。それこそ契丹に敗れましょう。定安滅亡の日がいち早く訪れるばかりです」
「もっともである。だが、それで将軍達の意見を聞いてやって、その後どう契丹と戦うのだ。今のこの状況で、正しい者の肩を持つことが誤りであるのはわかる。だが、それで誤りの道を選ぶことになるのだぞ」
すると、側近はこう言った。彼は王妃の近親だが、心海の才能を信じている。
「将軍達の作戦を認め、遼東に向かわせるかわりに、司賓卿の罷免は保留なされば宜しいのです。戦の後に、その儀は考えると仰有ってやって下さいませ。そして、引き続き司賓卿に戦術を立てさせられませ。司賓卿の奇跡を信じましょう。司賓卿なら、誤った戦略に突き進んでしまっても、次々と誤りを打開する戦術を思いつくことでしょう。彼の才能に賭けるのです」
そして、彼は王に都へ引き返すよう強く要請した。
しかし、それでも王はなお帰ることを拒否し、鴨緑江へと進んだ。
途中、休憩していると、村の有力者が菓子を献上してきた。
台所の者が王や側近達に出すべく、膳を整え、茶の支度をし、毒味をしたところ、俄かにその者が腹痛を訴え、苦しみ出した。
「これは毒か?悪くなっていたのか?」
毒か食中毒か、たまたま毒味した者が体調が悪かっただけなのか。だが、いずれにせよ、その菓子を王に出すことはできない。
菓子は出されず、献上した者は調べられた。
まだ調査途中の段階で、すでに側近達は浮き足立っていた。
「これは毒であろう?陛下がお命狙われたは、この御幸中にこれで三度目。これ以上進むは危険だ」
側近全員が同じ意見であった。
まだ毒かどうかもわからない段階でありながら、王を暗殺しようとする大元の仕業に違いないと、全員が決めつけ、騒ぎ立てるのだから。
王は閉口した。
が、あまりにうるさい。
「陛下!何としても都へお帰り頂きます!」
たとえ王であっても、首に縄をくくりつけてでも引っ張っていくという皆の気迫である。また、実際、二度刺客に襲撃されている。
「わかった。帰る!」
王はついに折れて、帰都を決めたのである。
王は都へ引き返した。
また、将軍達が遼東に向かうこと、大元軍を蹴散らすことを許可した。
だが、王は心海の罷免は保留し、終戦まで引き続き心海の指示に従うよう命じた。
王の命令書が届くと、将軍達は不服を露わにしたが、張大将軍に、
「王命には従わなくてはならない。高司賓卿のことは納得できないが、陛下は我等の作戦を認め、司賓卿の作戦を退けられたのだ。人間は間違う生き物。一度の誤りを許さず、極刑に処するは気の毒というもの。司賓卿が知恵者であることには疑いはない。ここは彼に一度挽回の機会を与え、良策を考え出してもらおうではないか」
と宥められると、たいていは引き下がった。
「そうだ。さずかに以降は恥じて遠慮し、以前のように、軍の和を乱してでも我意を押し貫こうとはするまい。控えめに時々妙案を披露する分には、いてくれても構わない」
彼等はそう納得して、王命を受けた。
心海は一人、扶余に向かっていたが、これにより、遼東に戻らなければならなくなる。だが。
「馬鹿な!」
戻ってなるものか。僅かな軍勢でも、扶余軍に加勢して、契丹に当たらねばならないのだ。心海は王命に強く反発した。
一方、遼東に引き返した張大将軍達。大元が定安軍を攻撃した時、鴨緑江付近に駐留する高麗軍が傍観していた事を知り、立腹した。
そればかりではない。大元が定安軍を屈服させ、遼東に駐留すると、高麗は彼に協力するようになったのだ。それまで定安軍に接してきたのと同じように、大元軍に接している。
「これはどうしたことか!高麗は定安を裏切り、敵になったということか!」
怒った定安の将軍達。
「ここは大元もろとも、高麗をも討ち果たしてくれよう!」
そう喚いて地団駄踏んで悔しがった。
どういうわけか、遠くの敵より隣人に対して複雑な思いを抱くのが人の世の常で、彼等も仲良い隣人に、急に強い怨恨の情を抱いてしまったのだ。
「ええい、悔しい!実に腹立たしい!契丹より嫌いだ!」
もはや、子供のように、好き嫌いになっている。
「くっそ!いっそ、契丹と手を組み、共に高麗と大元を討ち滅ぼしてくれる!」
「そりゃいい!契丹が目の敵にしていたのは渤海、大氏王朝だ。定安は大氏の敵だからな、契丹と対立する必要はない。契丹に和議を持ちかけよう。契丹だって大氏でない我が陛下のことは、許すはずだ」
本末転倒な思考。
張大将軍が一喝すると、さすがに鎮まったが、それでもやはり高麗への怒りは止まず、
「ここはまず高麗の考えを知るためにも、一度抗議するべきである」
との意見で一致した。
「確かに、高麗が大元に協力して、定安を討つつもりならば、ゆゆしき事態だ。高麗が何を考えているのか知る必要がある」
事の次第によっては、否応なく高麗と戦うことになる。その場合、冗談抜きで契丹との和睦を検討しなければならなくなる。
張大将軍は鴨緑江の高麗軍へ使者を立てる一方、高麗国内にいる国王へも使者を立てた。大元支持は王自らの指示であるのか、それとも現地の軍幹部が勝手にしたことなのかと、問うためである。
やがて、鴨緑江からも王都からも返答が伝えられ、ご丁寧に勅使まで張大将軍のもとへ派遣されたが、何れも異口同音にこう言った。
「渤海人の抗議はおかしなものである。渤海人の多くが戦線を離れ、それに危機を覚えた別の渤海人が戦闘に加わらんと、遼東に陣を張ったに過ぎぬこと。高麗は渤海人の味方であり、共に手を携え宿敵・契丹と戦うものである」
そんな返答に定安の将軍達は納得しなかったが、さすがに高麗王の勅使が来た時には、その場で騒ぎ立てるわけにもいかず、黙ってその屁理屈を聞いていた。
「新たな渤海人が遼東に軍勢を連れて現れたは、味方の増加であり、喜ばしきこと。我々が歓迎するのは当然のことと存ずる。あなた方に非難される覚えはないが」
さらに、さらりとこう抜かした。
「今後も我々は渤海人の味方。あなた方と共に、憎き契丹と戦う所存。もしも、援軍が必要ならば、いつでも加勢しに参ります」
「ならば」
黙って聞いていた張大将軍がゆったりとした口調で訊いた。
「我等、契丹と戦うのに精一杯で、大元を討つために兵を割くことが難しい。高麗はいつでも我等に加勢して下さるというなら、我等に代わり、大元を討って下さらぬか?」
「たはあたはあたはあたはあ!」
勅使は馬鹿にしたように笑った。張大将軍がむっとすると、頬の皮に笑いを貼り付けたまま、勅使は説教を始めたのだ。
「これはおかしなことを。渤海人が渤海人を討つと?仲間が仲間を討つと?今ですか?契丹を目の前に、契丹と死闘を繰り広げている今ですか?内紛なぞおやめなさい!」
「内紛ではない!」
勅使は笑みを消し、目と口を丸くした。
「内紛ではないと言われるか?」
首を振り振り、「渤海人が渤海人を?」と、ぼそぼそ呟く。
「我等は定安である。定安王のもと、高麗と同盟したもの。大元は定安の者ではない」
張大将軍が苦々しく言った。
「だが、同じ渤海人ではないのか?渤海人どうしの争いならば、これを内紛と呼ぶ」
「くだらぬ!同じ民族なら同じ国家にまとまっていると言うのか?女真と渤海は靺鞨だが、一緒ではない。そんなことを言ったら、渤海人の一部は高句麗遺民だが、高麗人の一部にも高句麗遺民がいること故、高麗は定安王に服することになるが、それで良いのだな!」
「ええ、屁理屈を!」
「屁理屈はどちらだ!」
張大将軍が凄むと鬼神のようである。勅使もやや竦んだ。
「し、しかし!しかしですな!」
それでも、勅使は言い返す。
「大氏の王子は契丹と戦うために、軍を率いてこられたのです。王子、あなた方、我等の共通の敵は契丹なのです。強敵にあたるのに、心強い味方が増えたというのに、何故あなた方は手を携えようとしないのですか!まして、同じ渤海人なのに!一時和睦くらいしても損はないでしょう?和睦なさい!」




