大元(二)
この日は既に夕方近く、そのままこの場に野営することになった。心海の幕舎の前には、張大将軍下の兵が数名張り付いている。
(監視か)
明日以降、軍議にも呼ばれず、無理に行こうとすれば、幽閉されるかもしれない。
「くそっ。こんなことしている場合ではないぞ!狭量な大将軍め!」
じりじりしているところに来客があった。外の監視役も不審がる様子もなく導き入れた客を見て、心海は仰天した。
(絶望的だな。こいつを疑いなく通してしまうなど)
監視役達に呆れたが、それを自分に向けられたものと感じたか、客はくっと笑うや、心海に抱きついてきた。
「そなたが大好きだ。会いに来てしまったよ」
心海は一瞬背中がむずとしたが、すぐにかかと笑って応じた。
「絶妙な時に現れてくれたな、昔耶津!俺も会いたかったよ」
相手の背をばんっと強く一つ叩くと、身を離した。
耶津である。普通の商人の格好をしている。
「くさくさするな!いい話を聞かせてやる」
服装は商人でも、顔に細工を施したわけでもない、変装もせず堂々と現れた耶津はくっと喉を鳴らした。
「ふうん、何だ?どうせひやかしに来たんだろうに」
定安軍中をこの幕舎まで歩いてきたのだ、兵卒たちのする心海の噂話は耳に入っているだろう。心海の今置かれている立場を耶津が知らないはずはない。
「ま、そんなようなところだ」
実際、聞いた時の心海の顔が見たくて、そのいい話を伝えに来たのだから。
心海は耶津の魂胆が見えたか、苦笑した。
「もしや、大元に兵を与え、支援した者を知っているのか?」
「ほお、さすが千里眼だね、心海。しかし、何だかそんな貴様を見ていると、貴様は何を聞いても驚かないような気がしてきたな。つまらん」
「はっは!俺だってこの通り行き詰まっている。すでに十分困惑している。この顔が見られただけで満足しろよ。これ以上何を聞かされても、もはや飽和状態で無表情しかできないね」
「くく、気の毒に」
耶津はそこで一息つくと、笑いを消して、心海を見つめた。一瞬の瞳の変化も見逃すまいというように。
「──裴瑯だ」
瞬間、心海が息を呑んだのがわかった。
「……そう、だったのか?」
「ああ。だが、慕老害は関係ない。あれは本当にただの奴隷だからな」
耶津は再び何か企むような笑顔になった。
「驚いたのか?」
「当たり前だ」
心海も笑う。彼は裴瑯のことはよく調べたつもりだった。だが、いくら調べても、大氏とのつながりは見つからなかったのに。
「参ったね、俺としたことが。人間は必ず間違うか、その通りだな。俺の情報収集能力も、たいしたことない」
「反省する気になったか。いいことだ」
「ははは……で、裴瑯が何だってそんなことを。詳しく教えてくれ」
すると、耶津は呆れ果てたような顔になった。心海に呆れたのではない。裴瑯にである。
「二君に仕えるようなけしからぬ奴、そう罵られ、日本から追い返されたから、それ以降、裴家の家訓なのだそうな。路頭に迷おうが、いかなる苦境に喘ごうが、大氏を主とし、大氏を君と仰ぐ国を作り、日本に報告するのだと。日本も貴族達は駄目なのしかいないらしいがな。だが、常陸とかいう所に内海があるんだと」
話しているだけでうんざり疲れてきたらしい、耶津は椅子に崩れるように座った。
「その内海周辺各州を支配する新皇とかいう奴に助けを乞うのだそうな。日本に行って大氏が王位を取り戻したと訴えたところで、援軍は望めないからな。だが、その新皇なら、内海を拠点に大陸も視野に入れているから、援軍に駆けつけてくれるだろうと」
「おめでたい頭だ」
心海は笑い捨てた。
東方海上彼方の日本から、いったいどんなお人好しが荒波に呑まれ、乗り越えて、裴瑯を助けに来るというのだ。
「笑うなよ、人は信じたいものを信じる。おかげで、裴瑯はとんでもない力を発揮したではないか。奴の夢物語を信じる心が、今の定安の危機を生んだのだから。もっとも、私の調べでは、その新皇、とっくに死んでいるがな。東丹使の日本派遣から何十年経過していると思っているのだか」
耶津は馬鹿にするどころか、さらにうんざりと椅子に身を沈めた。
「まあ、いい。思考がおかしかろうが、してやられたことには変わりはない。問題は高麗の出方だが。どうだ、こちらも残念な結果になりそうか?」
「多分」
「だったら、消すしかない」
耶津が顔を上げた。
その時だった。俄かに外が騒がしくなり、馬の嘶きがけたたましく聞こえてきた。
人々の喚きと大きな物音。
「暫し」
心海は耶津を座らせたまま、幕舎の外に顔を出した。兵卒がすぐに気づいて駆け寄る。
「司賓卿、暴れ馬です!危険ですから、中にいて下さい。すぐに仕留めます」
「暴れ馬だと?どうして?」
「さあ、気が立っていたのか、突然暴れ出したもので」
心海は急にはっと思いついた。
「まさか、以前、裴公から贈られた駿馬か?」
「仕留め次第、確認致します」
兵卒が全て答えぬうちに、心海は幕舎の内へ引き返していた。
「耶津!これだ!お返しだよ!」
嬉々として耶津の傍に歩み寄った。
「さっき消すとか言ったな?方法でも閃いたか?」
「ああ。裴瑯め、病気の馬を送り込んだな。なかなか味な真似を。こっちも同じ方法で暗殺してやる、大元をな」
にやり。
耶津は無表情に心海の次の言葉を待つ。
「最強の刺客を見つけてきてくれないか?」
「刺客?どんな使い手だ?」
兵を遼東に差し向けずに大元軍を崩壊させるには、大元を暗殺するのが手っ取り早い。その暗殺には、毒殺やら襲撃やらいくつか方法があるが。
「病人さ。すぐ死ぬ深刻な伝染病。そうだ!疱瘡がいい!」
耶津は心海の日焼けを知らぬ顔をまじまじと見つめた。無言で。
心海は嬉々として続ける。
「今の大元にはそれなりに地位がある。刺客が大元に近寄る機会はなかなかなかろう。だから、襲撃するのは難しい。毒殺は慎重を要する。だが、病を伝染させ、死に至らしめるのは、案外簡単だ。確実性はないが。それに、これなら周囲にも蔓延するから、大元だけでなく、その軍を壊滅させられるぞ」
心海の楽しげな顔に反比例して、耶津はどんどん苦い表情になっていく。
「疱瘡にかかった者を大元の傍に送るだけでよい。大元も今は、雑兵と先を争い、自ら敵中に突進せねばならぬ程の身分だ。総大将として、護衛に小隊を幾隊かつけてはいようが、町中にも出てきてはいるだろう。その程度の身分の人間には、武装していない庶民なら、容易に近づける。いや、大元が無理なら裴瑯でも構わない。耶津は裴瑯と親しいのだから、いくらでもそなたの知人を裴瑯に会わせられるだろう?疱瘡の患者を連れて裴瑯の所へ行ってくれ。裴瑯に伝染してしまうのだ。裴瑯は四六時中大元と一緒にいるだろうから、大元にも伝染るだろう」
耶津は異様な生き物を見るように、心海を凝視している。
「いや、疱瘡の者を兵に化けさせ、大元の軍に紛れ込ませよう。そなたは疱瘡の者を武人と商人に化けさせ、商人を裴瑯に仕えさせてくれ。武人の方は裴瑯を通じて大元に護衛に献上して欲しい」
「馬鹿馬鹿しい!」
耶津が憮然と突っ立った。
「馬鹿馬鹿しい?」
「疱瘡を患っている者には発疹が出る。すぐに判ってしまうだろう」
「症状の軽い者、発疹の目立たない者、顔だけ目立った発疹のない者、そういうのを見繕ってきてくれ」
「冗談ではない、この人でなしめ!だから、貴様は爽やかではないと言うのだ。武人ではない!そうとも、だから貴様は将軍達に嫌われる。私だって理解できないねっ!」
「何を急に──」
耶津は怒り出したというのだろう。心海は首を傾げた。
「そもそも、私は貴様に協力する筋合いなどない!」
耶津は踵を返して、幕舎を出ようとした。
「待てよ、耶津!帰るのか?」
「そうだ、もう用は済んだ」
「こっちはまだ用がある」
心海は追いかけて、耶津の肩を掴み、回り込んで耶津の行く手を阻んだ。
「頼む、助けてくれ」
「貴様にそんな義理はない!それに。もっと正々堂々と戦え、人非人め」
怒りながらも、相変わらず得体の知れないものを見るような目を、心海に向けている。
心海は何故耶津が怒るのか、わからなかった。
「確実性がない暗殺方法だからか?」
くだらない方法しか思いつかない心海に失望したのか。
「勿論、危険は伴うが、普通に毒殺、刺殺するつもりだ。疱瘡を伝染させるのは、普通の作戦が失敗する場合に備えて、併用するだけだぞ」
「……救いようのない奴だ」
本気で言っているのがわかるので、耶津は睨んでそう言い返した。
「何故?何が不満だ?俺の何が足りない?」
「貴様、そんなに疱瘡患者をあちこちに配したら、伝染るのは裴瑯や大元だけではなくなることも分からんのか?」
「勿論わかっている。一石二鳥ではないか」
耶津は言いかけて、口を開けたまま、次が出てこなくなった。ぱくぱくと数度動かした後、閉じて、そのまま暫し何も言わずに横を向く。
「昔から、伝染病こそが戦の勝敗を左右してきた」
かの有名な赤壁の戦いも、疫病の蔓延が勝敗を決定付けた最大の要因であると言われている。
伝染病が蔓延すれば、病の兵で溢れ、数少ない動ける者の士気さえ低下するばかりだ。
「貴様は渤海人を皆殺しにする気なのだな」
「そうか!しまった!」
心海はうっかりしていたと己の頭を一つ、自身の拳で殴った。
「大元の兵は対契丹戦に使えるのだった。奴らが契丹の目を遼水に釘付けにしておいてくれないと、俺の戦略は成功しない。そうだな、奴らは壊滅してくれれば有り難いが、しかし、冬までは元気に契丹に激突していてくれると有り難い。そうか、病は冬に流行らせないと駄目だったか」
「いい加減にしろ!」
耶津が今度こそ幕舎を出ようとした。それを制して、心海はにやりと嘲笑する。
「甘いな、案外。いや、もともとそういう男か?大農卿に嫉妬して、そなたの原動力が初恋の女だものな。だから、俺に負けたのだ。それでも、俺が大好きなんだろう?」
耶津の肩に手を置く。
「俺も大好きだよ、耶津。取引しよう。そなたの大好きな取引だ。協力してくれたら、そなたを定安に戻し、名誉も回復してやる。そなたは渤海人ではない、定安人。そうだろう?無能な大氏なぞに国は任せられないと、定安人になった。定安が堕落すると、それを憂えて、自ら改革しようとしたのだろう?そなたは定安人だ、無能な大元なぞのさばらせてなるものか!」
「貴様、心は痛まないのか?」
耶津は心海を睨みつけ、ようやく口にした。
「そなたは俺が心を痛めたなら失望するだろう?勝てば何でもいい。そうだろう?」
「貴様は民の生活のために立ち上がり、烈万華を追い、烏玄明を王位につけたのだと思っていたよ。私と違って民のためなのだと。民のためでなかったなら、何故私に協力しなかった?私だって改革くらいできたのに。私ではなく烏玄明を王位につけたのは何故だ?」
耶津はそのまま幕舎を後にした。無性に腹が立っていた。
(心海になぞ、力貸してやるものか!)
生きている人間として定安に戻してくれると約束されても。名誉を回復してくれると約束されても。定安国王にしてくれると約束されても。それでもこの立腹はおさまらないだろうと思われた。
「大元は私のこの手で殺してやるよ、心海!」
歩きながら、背後の幕舎に向けて怒鳴った。
(だが、その時は貴様の望むような形にはなっていないだろう。大元の兵は貴様の好きにはさせぬ。この私のものだ)
いつの間にか静かになっていた。暴れ馬は捕まり、宥められたか殺処分されたか。
耶津は裴瑯と接触するべく、再び遼東方面へ向かった。
張大将軍は、遼東方面に兵を戻すことを決定した。
「陛下も鴨緑江へ御幸途中でいらせられる。陛下の安全のためにも、兵は引き返すべきである」
心海は彼の予想通り、幕舎に軟禁されてしまい、軍議には出られなくなっている。
これではならないと、嘆願書を何十通と書き、張大将軍ばかりでなく、他の将軍達にも送ったが、無視されているのだろう。
心海は御幸中の王のもとにも、将軍達の決定を認めないよう直訴の使者を送っていた。
一方で、耶津に依頼したことを自らの手で行おうと、扶余の私兵を動かして準備をしている。
宇成には、刺客達を大元と接触できるように手配してくれるよう頼んだ。宇成は商隊を組んで、すでに都を出発しており、先発隊は裴瑯のもとに挨拶に出向いていた。




