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大元(一)

 かつて烈万華が定安を建国した時。烈万華は大氏を蹴散らし、定安の勢力圏外に追い出していた。大氏はその後、散り散りになり、大した政権も築けぬまま、流浪の日々を過ごしていた。


「大元が、大元がっ!」


 李麒国がもたらした情報は、その大氏の王子・元が俄かに決起し、高麗に援助を要請してきたとのことである。大元は既に、遼東方面に残留している定安軍の一陣に、攻撃を仕掛けているとも。


「まさか、そんなことが!」


 心海はらしくなく狼狽えた。


「司賓卿、どうなさいました?」


 人質同然の徐登は、だいたいいつも心海の傍らにいた。いつになく動揺する心海に、徐登の方が不安になる。


「いかん!陛下をお止めしなければ!」


 急に叫ぶと、常の彼に戻って、


「火急の用件だ!張大将軍に使いを!各将軍を集めよ、伝令を飛ばせ!」


と大音声で命じた。


「陛下には、すぐに都へお戻り願わなければならん!」


 王は心海の要請に応じて、既に先月のうちに都を発っている。御幸先は西京鴨緑府。そこでは高麗の将軍達との謁見も計画されている。


 だが、大元が軍勢と共に現れた。定安を簒奪国と見なしている大元が、目の前に定安国王を見たなら──。


 大元は間違いなく、定安国王を狙い撃ち、定安国王の玉座を奪い、国号も改めてしまうだろう。


 心海は王に都へ引き返すよう要請するため、慌てて使者の準備を始めた。


 急に行軍が停止され、将軍達への召集を伝える伝令が飛び回り始めると、兵達の間に動揺が走った。


 そして、それは更に張大将軍からの伝令によって、高まる。


 心海が召集するまでもなかった。異変は張大将軍のもとに達していた。


「遼東駐留軍からの急報あり!何者かに急襲された模様!速やかに大将軍のもとへ参られよ!」


 心海が本陣へ行くと、まだ全員は集まっていなかったが、張大将軍は中央の席で顔を真っ赤に、怒気をあらわにしていた。やって来た心海に、鋭い声を投げる。


「早いな。貴公も将軍達を召集していると聞いた」


 もう異変を知ったのかと問う。


「はい」


「遼東に置いてきた軍勢が、何者かの奇襲を受け、大混乱に陥っているそうだ。契丹がどこかから回り込んで、味方の側面を突いたのだろうか?」


 そう言っている間に、第二報がもたらされる。遼東から命からがら飛んできた伝令は、息も絶え絶え、怪我した足を必死に折って、大将軍に平伏した。


 すぐに地面が血で染まる。伝令はそれでもまくし立てた。


「お味方は総崩れ!壱将軍は討ち死に!」


「なにっ!」


 張大将軍は思わず立ち上がった。壱将軍は遼東方面に置いてきた軍の総大将だからである。


「敵の正体は?」


「……未だ、判からず……」


 伝令はそこで気絶した。


 心海は伝令を向こうへ運び、介抱するようその辺に控える者に命じた。その様子を横目に見、張大将軍もふと冷静を取り戻したのか、


「貴公、ひどく落ち着いているが、何か知っているのか?」


と、厳しく見据えた。


「はい。私の得た情報では、敵は大元。契丹は未だ遼水を越えず……」


「大元だと!大元にいったいどんな力があるというのだ!」


 張大将軍が喚いている間に、召集された将軍が全員揃った。皆一様に青ざめている。大元の名に驚愕する者半分、残りは壱将軍討ち死にの報告に茫然としている。


 俄に本陣を急襲されて、総大将が討たれたわけだから、間違いなく味方は総崩れだろう。事実、伝令がそう伝えている。


 総大将を失い、収拾のつかなくなった軍勢は大敗するのが世の常。今頃、皆逃亡したか捕虜になり、あるいは大元の軍門に降っているだろう。


 とはいえ、同じ渤海人。共に宿敵・契丹を討とうではないかと言われたら、降伏した、あるいは捕らえられた定安兵も、すんなり大元に従ってしまうに違いない。


 俄かに軍議が開かれたが、心海が喋ったからか、その場にいる全員の目が心海に向けられている。しかし、友好的な眼差しは一つもなかった。それどころか、やり場のない怒りをぶつけるような憤怒の顔、目さえ少なくない。


「これはどういうことでしょうか、司賓卿。貴方が扶余府へ兵を差し向けるべきと言ったから、遼東から引き上げてきたら、こんなことになりましたが?」


 一人そう口にすれば、次々非難が飛び出す。


「そうだ!我が遼東の軍は壊滅、貴方の責任ですぞ!遼東を発つ時、確かに貴方ご自身の口でそうおっしゃった筈」


「この責任、どう取られる?」


 口々に罵っては立ち上がり、怒りを投げつけていく。


 心海は渋面を、顔色一つ変えなかったが、騒がしくなった場を宥めるように、張大将軍が声を発した。


「火急の時、責任云々言っている場合ではない。それは後回しだ。起きてしまったことはもう取り返しがつかないのだから、至急対策を決めねば」


 もっともである。急に皆我に返って怒りを飲み込み、席に座り直した。


 静まり返った場に、一人が意見を口にする。


「引き返しましょう。遼東は我らの手になければ、話になりません」


 同意する者がほとんどだった。


 だが、この状況で、心海は臆することなく発言した。


「なりません。このまま当初の計画通り、扶余府から契丹の背後を討つべきです」


「貴方の意見なぞ……!」


「黙りなさい」


 心海の発言なぞ許さないという将軍達を制して、張大将軍は心海に先を促した。


「引き返したところで、取り返すことは難儀でしょう。兵を無駄に消耗するだけです」


「何故です!そうだ!高麗!高麗の手を借りれば!」


 そう反論する将軍に、心海は静かに言った。頭の中に、麒国からの手紙が広がる。


「その高麗に大元が援助を要請したとのこと。高麗にとっては大元だろうが烏玄明だろうが、大して変わりはない、両者共に同盟者と思うことでしょう。むしろ、契丹に当たる仲間が増えたことを喜ぶはず。高麗には期待できません」


「高麗が大元を支持すると?」


「だからとて、我らと手を切るということでも、敵になるということでもありますまい」


「はっ!馬鹿な!さようなこと、我らが許さぬ!大元に手を貸すなら、攻撃するぞとこちらから高麗に……」


「愚かな!」


 心海は一喝して、拳をどんと机に叩きつけた。


「それこそ定安自滅の道!」


 そもそも高麗は、渤海最後の王・哀王の太子である大光顕を引き取って以降、数え切れないほどの渤海人達を迎え入れている。


 大光顕は叔父との対立に敗れ、高麗に逃げたのだが、その後の亡命人達も皆、渤海人どうしの争いの末での亡命なのである。


 高麗にしてみたら、正直、いい加減にしてくれと言いたいところではないのか。


 目の前に、契丹という強敵が迫っている今、また定安が大元を援助するな、などと言ったら、今度こそ愛想を尽かされよう。


「大元が契丹方ならばともかく。契丹を討つ気でいるのならば、降伏した定安兵達は彼の手に委ね、遼東は彼と高麗に任せるべきです」


「ふざけるな!」


 ついに一人の将軍が抜刀し、心海に躍りかかった。さすがに周りが彼を取り押さえたが、そうして取り押さえている人々でさえ、気持ちは彼と同じなのである。


「くそっ!放せ!おのれ、成り上がり者の高心海め!」


「心海!」


 喚く彼に割って入って言葉を紡いだのは、張大将軍だった。


「心海。貴公は聡明だ。一人で百人分働くとも聞く。陛下のご寵愛も深く、多くの者に信頼されている。だが、貴公は人間だ。人間は必ず間違う。間違わぬ人間などいないのだ。貴公とて例外ではない。貴公が絶対に見えたのは、これまでが九十九だったからだ。残りの一、その誤りが貴公にもあることを忘れてはならぬ」


 静かな、しかし、先程とはまるで別人のように感情の全く伴わない声。


「貴公は百のうち、一しか間違わぬが、その一がこの度の作戦というわけだ」


「なりません!」


 心海は張大将軍の言わんとすることを察して、訴えた。


「なりません!断じて。兵を引き返してはなりません。どうかこのまま!」


「心海。周囲をよく見なさい。今、貴公の意見に従おうという者は誰一人いない。軍は纏まりが第一。これ以上、貴公が意見を押し通そうとすれば、軍の統率乱れ、士気の低下を招く。軍がばらばらになることこそ、最悪である。これ以上軍をかき乱し、混乱させようとするなら、陛下に申し上げて、貴公の役目を解いて頂くぞ」


「大将軍!しかし!それでは契丹が!」


「黙りなさい」


 張大将軍も、皆と同じ、遼東に引き返すべきと考えているのだ。


 誰もこのまま扶余へ行くべきとは思っていない。


(駄目だ!どうしても皆の考えを覆さなければならないのに!)

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