火急(四)
契丹は海を知らぬ内陸の民。渤海を滅ぼし、港を得たこともあったが、それは一時のこと。遼東への影響もほとんどない今の彼等は、水に弱い。
定安は進軍してくると、遼東周辺の契丹の小隊を悉く蹴散らし、追い出していた。各港付近から契丹の勢力はなくなっており、契丹の軍人は皆、本拠に戻っている。
今、契丹と定安軍の間を、大河・遼水が隔てていた。
大して海に強くもないが、それでも昔から海を利用して生きてきた渤海人にとって、勝利の鍵を握るものはこの遼水だ。
定安軍は橋を落として敵の侵入を阻むと、船を使い、対岸に渡って契丹軍と激突。そして、適度な所で船に乗って引き返し、巧みに敵を誘った。
それが初戦だった。
契丹とて船はないわけではないが、定安軍ほど慣れてはいず、苦戦した。
しばらく、この遼水近辺での戦闘が続くことになる。定安は夜陰に対岸へ奇襲したり、対岸の平原で正面から激突したり、様々な戦闘を繰り返していたが、契丹が遼水を渡ってこちら側に辿り着くことはできなかった。
「遼水を利用すれば、こちらから侵入されることはあるまい。陛下にお出まし願うか」
心海はある時そう言って、皆を驚かせた。
「陛下にお出ましですと?」
「そう、今最も安全なるは南海府であろう。鴨緑府でも構わないが」
「何を仰せか、戦場に近い場所にお出まし頂くなどと。それに、この辺りには大氏が潜伏しておりますぞ」
将軍達は口々に心海に抗議した。しかし、心海は少しも慌てず。
「ああ、確かに、暗殺の危険性があるな。しかし、都も安全とは言えぬ」
「司賓卿は都がこの辺りより危険と言われるか?」
「そうだ。そろそろ作戦を変えよう」
心海は訝る諸将の前に地図を広げた。今、定安で最も安全な場所は都のはずだ。だが。
「契丹の目的は、版図拡大にあらず。定安の地の一部を割譲すると言っても、和議には応じはするまい。契丹の目的は、定安を滅ぼすことにあるのだからな。定安の地全てを手に入れることしか、頭にないのだ。このまま遼水を攻略できないとなれば、契丹は──」
心海は地図の扶余府を指した。
「先ず海を得たいと、こちらに攻めてきたのだろうが、先に扶余府を落とす作戦に変更するだろう」
扶余府は契丹に接している。だから、契丹は陸路辿って扶余府を攻め落とし、
「左に行けば定安の都、右に行けばこちらだ」
敵を滅ぼすのに最も手っ取り早い方法は、都を陥落させ、君主を討つことである。渤海もそうやって首都を落とされ、滅んだのだ。
契丹が扶余府を討ったなら、次に向かうは都ではなかろうか。
「私が契丹なら、都に先に進軍する。さすれば、風見の女真も定安の命運尽きたと判断して、契丹に従い、共に都を落とし、定安を滅ぼせるであろう」
心海の説明に、皆は青ざめた。だが、反発はある。
「しかし、司賓卿。仮に敵が扶余府へ転戦したとして、扶余府が落とされるとは限りません。いや、仮に落とされたとして、敵は進路を左に取り、都を目指すでしょうか?左にはこれ──」
と、ある将軍が発言しながら、北流する松花江を指差した。
松花江は白頭山を源流に北へ流れ、扶余との境界を成し、その後、北東へと大きく流れを変えて、女真との境界を成す。やがてそこには牡丹江も流れ込み、靺鞨の住む北限のさらに北を流れて、やがて海に出ている。
都は北流する松花江、流れを変えた後の松花江、牡丹江に囲まれた天然の要害の地にある。
将軍は指を北流松花江に置いたまま続けた。
「敵が都に攻め入るためには、この水を渡らねばなりませぬ。遼水もままならぬ敵が、都へ転戦しましょうか?それより、先ず以前手にしていた東丹国の地を取り戻したいと思うのではないでしょうか?敵が扶余府を落とした場合、次に向かうは川のない右、我等が今いるこちらではございませぬか?」
「それは一理ある」
心海は素直に頷いた。
「しかし、貴殿は大事なことを忘れている。貴殿は目先のことしか見ていない」
「目先ですと?」
「今は晩春。今見える景色で語ってはならぬ。敵は一度渤海を蹂躙し、地形は熟知しているのだ」
心海は渋い顔をした。松花江をあちこち撫で回し、言った。
「敵が今すぐ遼水を諦めるとは思えぬ。苦戦続きでも、無謀にこちらで戦い続けるだろう。冬を待っているのだ。冬になったら、あっという間に扶余府を討ち、こちらが応戦準備のできぬうちに凍った川を渡り、都を落とすつもりだろう」
そう、定安は寒い。冬になれば河川は凍る。海さえ凍って、使えなくなる港もあるほどなのだから。
あっと一同は心海の言葉に息を飲んだ。
「冬、扶余府を落とされるわけにはいかぬ。念には念だ、陛下にも御幸のお支度をして頂かねば」
それで、だいたいの者が納得したのであった。
しかし、心海が定安軍を率いているわけではない。総大将は張大将軍である。
張大将軍に最終決定権があるのだ。心海が色々言ったところで、一意見に過ぎない。
張大将軍は首座でずっと目を閉じて軍議を聞いていたが、心海の話が皆の心を掴んだと知ると、ぐっと目を開け、徐に口を開いた。
「契丹を甘く見てはならない。高司賓卿が稀なる才子でも、契丹ほどの国が、その考えを読み取れないとは思えぬのだ」
低く、重みのある声であった。
心海は張大将軍を見上げた。その目へ一つ頷いて見せ。
「つまり、契丹が松花江の凍結を待って攻めてくるであろうと、我等は思っている。我等がそう思うであろうことまで、契丹は見越しているのではないか?彼等の本当の狙いは、遼水なのではないか?」
「さようなことは」
「ないと言い切れるのか?今はわざと我等を油断させるため、手を抜いて戦っているのではないか?我等が冬に備えて扶余へ転戦したなら、その機を逃さず、遼東へ攻め入るつもりでは?さすれば、陛下にお出まし願うは危険だ」
心海は言葉に詰まった。張大将軍の言うことにも一理ある。
しかし、契丹に遼水から攻め入る秘策などあるのであろうか。
いや、最初はあるであろうと思っていた。だから、こちらに進軍してきたのだ。だが、実際戦ってみて、契丹にそのような技も秘策もあるようには思えない。契丹にしても、思ってもみない苦戦だったのではないか。
定安軍は実際に戦ってみて、契丹軍の戸惑いを感じとっていた。契丹にとって、遼水は思いも寄らない壁だった筈だ。
「契丹が扶余に転戦するのは、作戦を変更するためだと存じます。しかし、変更するのに、手の内を明かすことはしますまい。扶余から攻め込むなら冬。そのために、今から着々と準備を進めるでしょう。しかし、我等にそれを悟られては失敗するゆえ、晩秋まで、遼水に陣を張り続けることでありましょう。こちらの目を決行ぎりぎりまで遼水に引きつけておき、冬、突然扶余を急襲して混乱させ、扶余を突破して定安に乱入し、凍った松花江を渡るつもりかと」
心海が改めてそう言うと、張大将軍は大きく頷いた。
「そこまで言いきるのだ、余程自信があるのだろう。なれば、貴公の主張を聞き入れようではないか。責任を取れるか?」
じろと、心海を睨むように強い眼差しで見て、張大将軍は確認する。
「定安の存亡にも関わる重要な決定だ。責任を負う自信のない者の意見では、心許ない。貴公は自分の意見に全責任を負うのであろうな?」
心海は一瞬、張大将軍を蔑むように見て、だが、すぐに姿勢を正して言い澄ました。
「無論です。私の責任でやりましょう。万が一のことなど起こり得ませんが、仮にそうなったとしても、全て私一人の責任です。大将軍には責任はなく、それを負われることはないでしょう。私一人のみが負います」
「ふん、指揮をとる者、決定権を持つ者には、いかなる場合とて責任はあるわ!」
張大将軍は機嫌を悪くしたように、すっくと立ち上がるや否や、そのまま軍議の場から退席して行ってしまった。
それから間もなく、都の王のもとへ御幸を要請する使者が送られ、扶余方面への転戦の準備が開始された。
心海の読みでは、秋までは契丹は遼水近辺に居座り、小競り合いを仕掛けてくる。それに対応するためにも、全軍が扶余に向かうわけにはいかない。
こちらが手薄になれば、敵とて遼水を攻略できよう。多少の矢雨の中なら、橋も築けるし、船で渡っても来られる。
敵がこちら側に乱入してきてしまっては、元も子もない。結局、定安への乱入を許してしまうわけだ。敵が遼水を渡ってくるのだけは阻止しなければならない。
また、こちらが扶余に兵を向けたことも、敵に悟られてはならない。それと知れば、敵は冬に扶余を攻撃するという作戦を変更するであろう。
だから、遼東周辺にも十分に兵を残しておく必要がある。
「しかし、秋までに扶余側から敵の背後に出て、敵を急襲し、敵に大きな打撃を与えねばならない。扶余軍と協力するとはいえ、余りに少ない兵では敵の致命傷にはならぬであろうし……」
日々、扶余方面へ送る兵数についての議論が繰り返され、これという妥協数が出るまでに数日かかった。
そこから準備もある。敵が兵の減ったことに気づかぬよう、砦や軍船などに仕掛けを施し、工夫した。だから、心海の提案から、遼東出発までに、およそひと月かかったのである。
その間に、心海は耶津らの身辺を調べ終えた。
結果、裴瑯は商人とは表の顔であり、雇い人のほとんどが渤海人の軍人であることが判明した。ただ、大氏等、定安にとって不都合となる勢力との接点は見いだせなかった。
慕要徳こそは大氏と結びついていそうだが、彼は本当にそれらの人々から見放されているようである。
また、耶津は扶余や女真、靺鞨等との多数の交際が認められる。
(相変わらず油断ならない奴だが、遼東には裴公くらいしか知人はないらしいから、まあ気にしなくても、当分は大丈夫だろうか)
心海はそう思いつつ、扶余方面へと向かっていた。
先鋒隊がすでに扶余府に入った頃だろうか。軍の後方を行く心海のもとに、高麗からの急報がもたらされたのは。
心海は高麗の李麒国からの手紙を受け取った。
麒国は亡命した渤海人で、心海の祖父とは、高麗に於いて家族同然に付き合ってきた人物である。麒国は心海に騙された慕容徳の失策によって、多数の亡命者が高麗を出た折にも、高麗王への恩義を重んじ、高麗国内に留まった。
現在は高麗軍の一員として、鴨緑江にいる。
心海はその麒国からの手紙に目を落とすや、はっと息を飲み、蒼白になった。
「しまった!!敵は契丹にあらず!」




