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菩薩(四)

 その先王の隠居所に、李公が行ってしまったのだという。


「父は……」


 理那は俯いたまま、顔を上げる気配がなかった。


「父が不在なのをよいことに、こんなことをしでかして──父への裏切りです。だから、これ以上は──。どうせ親不孝を働いたのだから、最後まで勝手をするのとたいして変わらないと思うでしょう?でも、駄目なの……これ以上は、私の心が許さない。それに、父は私が逃げ出すのを知っていたような、いいえ、逃げ出させようと、出て行ったと思うのです……」


 李公は心海を恨み、憎んでいた。絶対に許すということは考えられなかった。


 理那が何と言おうと、奪った娘を都合が悪くなったらあっさり離縁したと思い込んでいたから。


 だが、本当は心のどこかではわかっていたのではないか。離縁は理那も同意してのこと、やむを得ない事情だったということを。


 だが、頭でわかっていても、あべこべに口で罵り、相手を決して許さず、いつまでも怒り続けるのが人情、親の盲愛というものであろう。


 李公は結局、理那がこの結婚から逃れることを許したのだろう。だから、家を出て行ったのだ。


 風の便りに、東京龍原府で、理那が式当日に逃亡したと聞いても、あろうことか心海と復縁したと聞いても、きっと李公はそっと無言で微笑むだけであろう。


「父はきっと、高司賓卿との復縁は許してくれるでしょう。でも、私はそこまで厚かましくはなれません。貴方以外の人との結婚は、どうしてもできなかったから、人非人の所業をして参りましたが、悪人にも良心はあり、ここまでが限度です」


 理那のおかしな理屈に、理那を失いたくない心海も、切なく頷いた。彼は彼女の前では、昔から物分かりのよい夫を演じて、いや、素直に物分かりよくなっていたが、今もそうだ。


「そうか……」


 もう一度握ってほしいと言ったその手を、自身の官服の袖の内にしまった。


「俺も、そなたが他の男のものになるのは堪えられないし、奪って自分のものにしたくなる。だが、そなたと離縁してから今日まで、そなたのいない生活には堪えられたよ。きっと今後もそうだろう。そなたを得られないことに身悶えて、その狂おしさが俺を突き動かす。そなたへの恋情を国難に注ぎ込むよ。はははは、俺も随分勝手だな。離縁した女の再婚を妨害しようとは」


 もともと我が儘にできているのだろう。自分の思い通りにしないと気がすまず、思い通りにしてしまう。理那のことも、国の行く末も。だから、駆け落ちしたし、王の首のすげ替えまでやってしまったのだ。


「私は、だから、このままここで出家します。どうか止めないで」


 理那の決意は堅かった。心海に会っても、その愛に流されたりはしなかった。


「尼になってしまったら、本当に手の届かない所に行ってしまうな……」


 尼僧となれば、理那は女ではなくなる。尼僧への恋慕など、叶うはずがなく。心で想うことさえ許されはしないだろう。


 心海と理那のことを案じ、復縁を望む宇成にも、これ以上言えることはなかった。それでも、一言確認する。


「本当にお二人はこれきりですか?」


 二人は悲しく微笑しつつ、頷いた。


「出家します。夫君、見届けて下さいます?」


 理那が再び心海を夫君と呼ぶと、心海は愁眉の顔を吹き飛ばして、無理矢理破顔した。


「おい、いくら何でもそれは勘弁してくれよ。そなた、どこまで俺に不幸を味わわせたいんだ?俺はそんなにそなたに辛い目に遭わせてもらわなくても、しっかり物狂いできるぞ」


 好きな美女が美髪を切るところなど、見せられてたまるか。心海はげらげら笑った。


「そうね……」


 理那もくすぐったそうに笑う。


「好きな殿方の前で、女を失う様を披露したら、貴方への気持ちも消えるのではないかと、俗世とすっかり切れられるかと思ったのだけど。貴方もげんなりするんじゃなくて?好都合だわ」


「やめろ!人は美しいものを見て生きる生き物。害となる記憶なぞごめんだ」


 愛も雰囲気もあったものではないが、宇成はそれでも気を利かせた。


「では、私は先程の尼僧に理那様のご決定を伝えて参ります」


と、心海と理那を二人きりにするべく、山を下りて行った。


 女瀧が美しい姿で粛々と泣いている。


 今生最後の逢瀬。


 しかし、今更それを楽しむ二人ではない。手さえ握らず、言葉も発せず、ただ互いの顔を見つめ合っていた。


 女瀧の声だけがかすかに響く。


 理那が口を開いたのは、どれくらい経った時だったか。彼女は瀧の音に耳を澄ましていたが、思い出したように言ったのだ。


「ここは男女が離別する所……」


 今はどこの山野に暮らしているか、耶津の告白を思い出した。


「不思議な話ね……耶津様の悲恋はこの瀧の前で芽生えて、ここで失った。耶津様の恋は成就せず──そして、あの方が密かに思いを寄せた方が、今日私が嫁ぐはずだった方の死別した奥様だったなんて。その美しい夫人も、毎日この瀧の声を聞いていらしたのだわ」


 いや、耶津の好きな人は瀧の音は聞いていまい。耳を患っていたという。だが、心で聞こえていたはずだ。


 理那は目を閉じた。こうして聞いていたのだと思う。


「聞こえるわ……」


 理那はどこか彼女に似ている。


 耶津がこの姿を見たら、きっと涙するだろう。


 理那は彼女に似ている、ここのご本尊・弥勒菩薩みたいに。だが、違う。


 耶津が憧れたままに、理那は彼女とは違う。


 運命に逆らった。


 女瀧の声は耶津の涙とも聞こえる。


 理那は耶津を思った。


 心海は耶津の初恋については何も知らない。理那の言うことは、彼の興味の外である。


 ただ、耶津と言われて、彼が国外から追放になった日のことが蘇った。


 耶津はここから見える心海宅から発って行った。心海は耶津の前には現れず、この寺から密かに見送っていたのだ。


(あやつ、今なにをしているだろう?)


 国外に追放されて、のんびり農夫になるような男ではない。


 どこかでしぶとく、虎視眈々とその時を窺っているに違いない。


 心海は目の前にある理那の、夢のような姿に、ついつい引き込まれていた自分に、自ら冷や水を浴びせ、現実に返った。


 それでも。


(今だけ。もう少しだけ!)


 彼の弱さが甘美の方へ引き寄せようとする。


 目を閉じた理那はそれくらい、菩薩のように美しかった。


 透けるように白い肌は日差しに輝いて、透明度が増し、閉じた瞼は柔和で優しく、睫が風にそよいでいる。気品ある頬は楚々として、まことに仏の如き気高さだ。


 惜しむように、貪るようにその顔を見つめて、心海はまばたきを忘れた。


 ただ微かに瀧の音がするだけの空間。


 宇成が迎えに来るまでの長い時間、ずっとそのままだった。


 その日、理那はついに得度して尼僧となった。


 心海はそれを見ることなく、宇成と寺を立ち去って、けれど、山門の陰からそっと寺の堂の方を見守っていた。

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