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菩薩(三)

「俺はもっと屈辱を味わってやろうと思って、あの貧民の集まる町に移ったのだ」


 心海はにっと笑って、宇成に眼を向けた。


「そんなことが……」


 心海の相変わらず人を食ったような態度に、必死に涙を呑み込む。女瀧のしゅくしゅくと流れる音が、代わりに泣いているように聞こえた。


 心海の隣で、今の心海宅をそっと見下ろす理那は、ふっと自嘲めいた微笑を浮かべた。


「でも、未練がましく夫君の家を何度も見に行って……宇成殿にも不審がられて、女は駄目ね」


 心海を苦しめることが、彼のためになるのだと、本心を押し殺して実家に出戻ってみても、ついつい覚悟が揺らいだ。父の目を盗んでは、心海の家を見に行った。


「私は弱い女なのです……」


 そんなことと、首を左右に振る宇成。


 しかし、心海と理那の事情が明らかになったとはいえ、これからどうするのだろうか。今日は理那の祝言だ。理那の意思でこの寺に駆け込んだとはいえ、心海を連れてきてしまったのは宇成なのだから。


「あの、これからお二人はどうなさるんでしょう?おそらく、今李家では大騒ぎだと思いますが……」


 宇成が恐る恐る言うと、心海もうがっと笑って、


「まったくだ。俺も俺だな。理那を追ってくるなんて」


と、いったい自分は何を目的にここまで来たのだろうかと思った。


 理那の出家を思いとどまらせようとしたのか。


 理那の結婚式当日だから飛んできたのか。だからといってどうするつもりだったのか。連れ帰り、大農卿のもとに送り届けるつもりだったのか。いや──。


「俺の方こそ未練たっぷりだ。理那が理那らしくなって、本来あるべき綺麗な手になってよかったという言葉は撤回させてくれ」


「夫君……」


 そう呼ぶ理那に強く頷いた。


「そうだよ、夫人。そなたは今でも、いや、永遠に俺の妻だ。俺はだから、今だからこそ偽らずに言う。離縁しても、逢わずにいても頑張ってこられたのは、理那が誰のものでもなかったからだ。俺と別れても、他の誰かと一緒になんてなって欲しくない。再婚すると聞いて、魂が死んだ、本当だ。今日がその日だと知って、俺は大農卿に渡さぬために来たんだ」


 そうだ。あの時みたいに、花嫁の理那を花婿から奪いに来た。それが本心なのだと心海は自覚して、理那を切なげに見つめた。


「もう一度、この手を握ってくれ」


 心海の差し出した手。しかし、貴族の女そのものの麗しい理那の手は、それを掴むことはなかった。


「司賓卿」


 彼女は俯き加減に、心海をそう呼んだ。心海も宇成もはっとした。


「高司賓卿、貴方の野望は達成できかかったところ。まだ入り口に立ったに過ぎません。達成にはまだまだ狂気が必要です。それに、つまらないことで世間の信用を失うようなことはなさらないで。もしも司賓卿でなくなったら、野望は遠ざかってしまいます。奈落の底からでは見えないでしょう?やっと成せる位置に立てたのに」


 理那は心海への思い断ち切れぬ故に、婚礼から抜け出してきたというのに、心と矛盾するように心海を拒絶した。


「貴方はもう巷の名もなき一少年ではないのですから。それに──親不孝者の私ですが、それでも父の子なのです。父を思うと……」


 そこで言葉を途切れさせ、涙ぐんだ。心海はそんな彼女を覗き込むようにして、


「そうだ、こんなことになってしまって……またしても李公を苦しめてしまう……」


と、ようやくその事実に思いが至り、顔を曇らせた。が、理那は頭を振った。


「父は何も知りません……父は日本道を行きました」


 牡丹江を渡り、鏡泊湖を巡り、東行すれば、やがて東京龍原府に至る。


 渤海時代、日本への勅使(渤海使)が頻繁に派遣されたが、東京龍原府は日本への玄関口であった。一時期首都であったこともある。


 その後、日本への使節のやりとりは吐号浦のある南京南海府に移ったが、当初は東京龍原府の方であった。そこへ至る道を日本道と呼ぶ。


 李公はその東京龍原府に行ったらしい。


 心海ははっとした。


「まさか、先王の?」


「ええ、先王のもとへと下って行きました」


 先王・烈万華の隠居所はそこにある。


 かつて、高麗と国境を接していたのは南京南海府であった。


 しかし、渤海が契丹に滅ぼされると、国境線も変わった。


 契丹は渤海人達の反乱が収まらぬこと、さらに渤海の国土があまりにも広大であることから、己の版図に加えることの難しさを悟り、東丹国という傀儡国を作ることにした。


 無論、契丹の強烈な支配下にある国だ。契丹は渤海の貴族達を連行してきて、無理矢理東丹の役人とした。


 しかし、契丹の王族には相次いでごたごたがあり、継承者問題などもあって、次第に渤海人たちの反乱も野放し状態になり、東丹への影響も薄くはなった。


 当初、契丹に奪われた地も徐々に渤海人達が奪い返してきていた。南京南海府もそうで、完全に定安の版図に加えられたわけではないが、吐号浦への行き来は自由にできるようになっている。


 そのため、はっきりと定安の領土に当たるのは東京龍原府だが、その先の高麗に近い辺りも何となく定安が領しているような場所もあった。


 空白地もある。


 白頭山周辺は未曽有の大噴火以降、空白地であった。


 東丹国は遼東にあった。そこから南京南海府、吐号浦の辺りまでを支配しており、東丹国の使節が日本に派遣されたことも一度だけある。


 しかし、次第に契丹の影響は薄れており、その目を盗んで、渤海人も自由に振る舞えるようにはなっていた。ただ、遼東は契丹がすぐに攻め入れる場所にあり、また、契丹人も完全に撤退したわけではないので、目に余る行動はできない。


 実は烈万華も当初は東丹にあった。その地で定安を建国するのもまずい。そのため、白頭山の噴火で被害を受けて空白地となった所を抜け、もと渤海の首都であった上京龍泉府に舞い戻ったのである。


 当地には、大氏が国家とは呼べないような集合体を置いていたこともある。そのような集合体は各地にあったが、噴火で打撃を受け、消滅したものも少なくない。


 烈万華は建国したが、なお東丹の地には未練があった。契丹の力も及ばなくなりつつあったから、徐々に南京南海府に進出していたのである。


 遼東と南京南海府の間には西京鴨緑府がある。ここも東丹の地であり、烈万華がいたこともある。


 契丹の影響が強かった頃は、東丹の貴族、つまり渤海人達が多く集っていた。


 ここは高麗の目と鼻の先。


 渤海人達は東丹から抜け出したかったし、渤海を復興させたかった。しかし、一度解体してしまった国を復活させるのは困難で、人々の気持ちも一つにはまとまらなかった。


 それで、渤海人どうしの対立もしばしば起きた。


 その対立に敗れた者は各地に散って行ったが、西京鴨緑府は高麗の近くにあったから、東丹の役人となっていた渤海人のうち、下野した者の大概は、高麗に亡命した。


 最近、南京南海府同様、この辺りにも定安の手は回ってきていたが、なお定安に属さぬ東丹由来の渤海人が多くいる地域である。


 また、契丹の東丹への影響がかなり薄い今、この地には渤海人ばかりでなく高麗人も行き来しており、高麗の影響もしばしば見られる場所もある。


 おそらく、つい先頃の政変で、心海に騙された前司賓卿や、彼が罪人と交換で高麗から連れ出した元亡命者達は、この辺りにいるのではないかと思われた。或いは宋へ行ったかもしれないが──。


 西京鴨緑府、南京南海府、いずれも東丹にあり、また、先王・烈万華が懐かしく思う地でもあった。


 先王は隠居の身だ。どこで余生を送ろうと構うまい。先王の望む地に住まわせるのが最良なのかもしれない。


 しかし、政変によって王位を追われた男だ。野心がないとも限るまい。また、本人にその気はなくとも、利用しようと、御輿として担ぐ者もいよう。契丹に襲撃され、あるいは人質に連れ去られるかもしれない。


 だから、定安の手に戻りつつあるとはいえ、不安定な南京南海府や西京鴨緑府に隠居させることはできなかった。先王はその辺りに住みたかったであろうが。

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