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菩薩(二)

 女瀧に着くと、そこから心海宅が見えた。


 心海と理那はちょうど家が見下ろせる場所に立ち、宇成は少し離れた所に建っている堂の階段に腰掛ける。


「夫人」


 心海が呼びかけた。


 妻でない立場の者を夫人と呼び、夫でない者を夫君と呼ぶ。


 考えてみればおかしなことだが、心海と理那の心情は、今でも夫であり妻であった。


「久しぶりだ」


 家を見下ろしながら心海は言う。


「陰ながら家族に力を貸してくれていたこと、感謝している。妹も、どんなにか心強く感じていることだろう」


「いいえ」


 理那は首を振った。


 不意に、心海が振り返って理那を見た。


「今日は祝言だそうだな。こんな所で──。騒ぎになっているだろう」


「ええ、きっと。あの時と一緒ですわ」


 心海の顔が、思いがけず穏やかだからか、理那も微笑して、少し軽口のような調子になった。


「お叱りにはなりませんのね?」


「む?」


「今度ばかりは、以前のようなわけにはいかないと思いました。でも、気持ちが、どうしても駄目だった。お叱りにならないということは、夫君も私と同じお気持ちだと思ってよいのかしら?」


 答えも同意も求めていないような様子だった。聞くまでもない、答えはわかっていると。一人合点の理那である。


 心海も否定しなかった。


「妹にくれた簪は、祝言の時に挿していたものだったなあ。あの時、一度きりの」


 心海はただそう言った。


 そして、二人は昔を懐古する。


 昔、理那が結婚を控えていた時、心海が盗み出した時のことを。


 心海が差し出した手を握り、ともに逃げ出したあの時。


 件の簪を挿していたのはその時ではない。彼女が簪を挿したのは、二人の結婚式でのことだ。


 理那は身の回りの物と大事な簪を持って、心海と駆け落ちした。


 花嫁が他の男と駆け落ちしてしまったのだから、その後の李家としては、それはそれは大変だったのである。花婿に詫び、仲人に詫び、賠償し、それでも仲違いになってしまった。


 だが、若い二人はそれでも、互いの気持ちを抑えられなかった。


 心海と理那は祝言を挙げて、正式に夫婦になってしまったのだ。


 その式の時、理那が挿したのが、例の簪だったのである。


「私達はこんな形で悲しい思いをしております。でも、妹君には幸せになって頂きたくて。私が一番幸せだった日に挿していた簪を差し上げました。私の分まで、幸せになって欲しい」


 契丹に対抗するため、女真と同盟する。そのために、女真に嫁ぐことになる琳媛が、幸せになれるとは思えない。それでも、自分より幸せになって欲しいと願う理那。


 好きな者同士、駆け落ちして結婚した二人の、いったいどこが不幸だというのか。


 心海は理那の手元を見て、微笑した。


「綺麗な手をしている。本来の理那に戻れてよかったよ」


 理那は首を横に振った。


「夫人、違うよ、よかったと思わせてくれ。そうだろう?」


 心海は不意に向こうにいる宇成に声をかけた。


「わかったか、宇成。俺が彼女に会えない理由はこういうことだ」


 どういうことだか、さらにわからないといった顔を、宇成は向けた。心海は苦笑した。


「だからさ、俺と理那は正式に挙式した、正真正銘の夫婦だったのさ」


「ご夫婦ならば、益々会えない理由がわかりません」


「そりゃ、今は夫婦ではないからだろ」


 心海は察しの悪い宇成を笑う。


「離縁したのだ」


 改めて、離縁という言葉に、理那は俯く。そう、離縁などしなければ、再婚話もなかった。


「そんな、今でもお二人は思い合っていらっしゃるではありませんか……」


 宇成は考えがまとまらないのか、ふらふら立ち上がった。


「愛だよ。夫人の強烈な愛が離縁という選択に至った」


 心海は視線を理那の横顔に戻した。今でも見とれてしまう、相変わらず好きな横顔。少しも変わらない。美しいまま。


 ただ、手だけは変わった。彼と共に過ごしていた日々とは違って、白くしっとりと、傷一つないしなやかな手。


「俺が花嫁の理那を盗み出して、そのまま俺の花嫁にしてしまった。貧乏なのに、科挙にも受かってないのに。苦労かけたな」


 結婚の既成事実を作ってから、李家に挨拶に行った。李公は当然許してはくれなかったが、既に夫婦になってしまっていたのだから、取り返しはつかない。


 結局、数年後には不承不承に認めるしかなくなって──。李公は当初理那が結婚する予定だった相手と仲人に、詫びに奔走してくれたのだ。


 しかし、そうなるまでの間は、自業自得とはいえ、苦労した。






 貧乏な家と見下されまいと、理那は家を磨いた。瓦一枚一枚丁寧に。そうして、豪奢な豪邸の瑠璃瓦に負けない輝く家にして、手に皹や霜焼けを作った。


 当時の高家は昔家の近所にあったから、屋敷を清める理那を目撃した耶津が、下女と勘違いしたほどだ。襤褸を身にまとい、手を傷だらけにしていた女の、相反する高雅さに、耶津は違和感と共に興味を持ったものだ。


 世間は狭い。すぐに近所じゅうに噂は広まって──。


「高家の貧乏屋敷に、嫁が来たらしい。何を好き好んで貧乏しに来たんだろうね。甲斐性なしの宿六殿は、今日も働かずに受かりもしない科挙の勉強さ。野良仕事を嫁女に押し付けて──なんでも駆け落ちしてきた嫁女だそうな。大臣の娘で婿殿もいたのだと。なんで高家の甲斐性なしの方がよかったのかなあ」


 耶津は、むきになって屋敷を清め、瓦まで拭く高家の女のことかと、ようやく合点が行き、理那の恋を羨ましく思ったものだった。


 耶津はそれまでに、彼女を下女と思い込み、話し掛けたことがあったが、彼女の正体を知った後で、彼女がたまたま門戸を拭いていたのを見かけた時、以前の非礼を詫びた。


「先日は失礼しました、夫人」


 しかし、かえって理那は恥ずかしいという気持ちに支配され、俯いてしまい、以後、耶津が苦手になってしまった。


(私はどうして、こんなに惨めな、恥ずかしい気持ちになっているの?拭き掃除は卑屈なことなの?)


 俯くと、荒れた手に握られた擦り切れた雑巾が目に入った。


 心海は、理那の身一つで満足した。いや、逆に理那が李家から財産、さらには彼女の持ち物を持ち出し、家計の足しにすることを嫌った。それは理那も同じ。


 もしも理那が李家に忍び込み、彼女が普段身につけていた衣を数枚持ち出して売ったら、高家の生活は楽になるだろう。


 それをしないその心は、瓦を拭く心に通ずる。


 なのに、耶津を前にして、下女と間違われて詫びられたことに恥じるとは。


 しかし、どう己の心情に抗おうとも、耶津の前では常に羞恥は拭えなかった。それなのに、耶津は理那を見かけると必ず親しげに声をかけ、心海への思いや、駆け落ちに至るまでの道のりを訊いてくるのだから、困ってしまった。


(からかっているのだわ、嫌な人)


 理那は恥を感じつつも、強い眼差しで耶津を見返し、


「夫を尊敬しています」


と、毎度必ずそう言った。


 その気持ちに嘘はなかった。その都度、彼女のその眼に耶津の口元が微かに緩むことを、彼女が気付くことはなかったが。






 理那には薬草や農業の知識があった。雑草とされる物の中にも、生薬となるものがある。


 琳媛と野山に分け入り、薬草というよりは雑草という認識の高い草を摘んでは処理し、また、庭に植えて育てては、売った。また、裏庭を畑にして、野菜を作って食卓に供したものだ。


 雪の日でも働く理那の手に、心海がつい涙したこともあったが、すぐに彼も科挙に受かり、役人になれた。


 母と姉、妹に妻。そして、使用人たち。どうにか養えるようにはなったが、相変わらず貧乏には違いなかった。


 理那の瓦磨きは続いていた。


 それからしばらくして。役人として、与えられた役目以上の働きをしていた心海は、上役に気に入られていた。


 色々な仕事をこなし、時に陰謀めいたことにさえ助力した。心海は決して杓子定規ではなかった。


「これを、どうぞ」


 高官への贈り物も、必要ならしたし、政敵を探るために、わざわざ政敵の懐深く入り込んだりもした。


 そのため、やたら銭が必要となり、借金は増える一方。


 そうしているうちに、心海は理不尽な理由で免職になった。


 彼の上役が政敵にやられて、彼まで朝廷を追われたのだ。


 上役の罷免の理由が汚職だというのだから、腹立たしい。汚職していたのは政敵側の方だ。それをどさくさに負わされた結果の罷免であった。


 上役は悔しさのあまり、心海に恨み言を遺して自害した。


 心海の有能さを危惧した者が、関係ないのに心海にまで汚職の罪をなすりつけ、彼も罷免されたのだったが、彼を評価してくれていた上役の死は、それ以上に悔しかった。


 屈辱だった。悲しくもあった。


 俄かに、政敵に敗れて高麗に亡命したという祖父のことを思い出した。そして、誰一人、心海に救いの手を差し伸べてくれなかった親戚達、貧しい少年時代を──。


 だが、巷には貧しい少年が溢れていた。外には契丹が、近くにはまだそれなりの力を持っていた大氏の勢力、他の地方にも定安とは別に、渤海復興を果たそうとする勢力もあった。唐土は荒れて、新しい王朝が盤石か乱世になるのかさえわからなかった。


 それなのに、貴族ばかりがぶくぶくと肥えて。心海は現状を何とかしなければと、強く思っていたのに。国難を乗り切るために働きたかったのに。


 そんな心海の憤懣、悲憤と、それでも涸れることない野望と夢を、理那もよくわかっていた。


 しかし、野望は尽きなくても、一庶民になり果ててては、何もできはしない。いくら心の叫びを声にしても、世の中一切変わりはしないのだ。


 理那は思った。もっと悔しくなれば、もっと願望が高まり、がむしゃらに、なりふり構わず突き進めるであろうと。


 役人になって借金は増えていたが、禄が全くない状態に陥って──ついに、一家離散することになった。


 家を手放し、家族を田舎の僻地にやっても、なお借金は残った。美貌の妹を売れば、どうにかなりはしたろうが、理那がそれを止めた。


「もっともっと苦しんで、もがいて。泥のようになってしまえばいい」


 彼女の実家を頼ることもできはした。この頃の李公は、心海に冷酷ではあっても、一応婿とは認めていたし、すがりつけば、そうなかなかうんとは言わないであろうが、娘可愛さの故に、しまいには不承不承に少しは援助してくれたであろう。


 しかし、理那は李公を頼らなかった。


「夫人、今の俺はそなたと暮らすことはできない……」


 妻を置く銭さえない。血の涙を流した心海に、理那は決意を口にした。


「離縁、ですわね。私までいなくなれば、もっと苦しくなって──きっと野望に近づけるわ」


 屈辱が人間を狂気へと駆り立てる。狂気でなければ、心海の野望は達成できないだろう。


「さようなら、夫君。愛しています。だから二度とお逢いしません」


 理那はそうして、心海の前から消えたのだ。


 事情を知らない李公は、駆け落ちして勝手に夫婦になりながら、その理那を離縁した心海に激怒。理那が何を言おうが、一切聞かず、心海を憎んだ。

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