菩薩(一)
すっかり夜が明けてしまった。
宇成は寝ずに心海を待っていたが、とうとう帰ってこなかった心海。
「やれやれ、もう朝か。今更寝るわけにもいかないしな」
眠気覚ましに散歩するかと、戸を開けて、庭に一歩踏み出した。
朝靄に包まれ、弥勒寺の塔は見えない。
湿った土を踏みしめながら、ゆっくり庭を歩いて行く。
立ち止まり、門の方を向いて、大きく伸びをした。
と、門の所に鮮やかな朱が見えた。朝靄の中にもくっきり浮かぶそれ。近寄ると、それは理那であった。
「ややっ、理那様」
「まあ、宇成殿?」
宇成も驚いたが、理那はもっと驚いたらしい。まさか、こんな時間に宇成が心海宅にいるとは思わなかったのだろう。
「理那様、お早いですね。どうしました?」
「これを、届けに来ました……」
両手に捧げるようにして抱えていた朱。朝靄にもかき消されなかったそれは、素晴らしい刺繍の衣である。
「これですか?」
「心海様の妹君に差し上げようと思って。私が刺繍して仕立てたものなの」
理那がそれを宇成の方に差し出すようにする。腕と一緒に体も半分門内に入ったが、件の門番は文句を言わなかった。
「見事ですね!」
宇成が感嘆するのを、門番は直立不動で横目に見ている。
理那はふと目を伏せ、
「貴方が心海様に会えと言うから、来たのよ」
「えっ!先生に逢いにいらっしゃったんですか?」
とうとう決意したのだ。
心海に、この衣を直接手渡すために、悩みに悩んだ末、やってきたのだ。
「最後くらい、会っておこうと思ったの」
「最後って?」
「私が嫁ぐのは、今日」
「えっ?」
宇成は狼狽した。
「どうしよう!今日だなんて!ああ……」
おろおろするのを、理那は不思議そうに見て、
「心海様は?今、お会いできるのかしら?」
と訊いた。
「いや、それが……今はご不在で」
「まあ、こんな時刻から?」
「昨夜お出掛けになってから、お戻りではないのです。ちょっと扶余府に異変があって、宮中に……」
理那は衝撃を受けたようだった。
「どうしよう。理那様は嫁いでしまわれるのに」
おろおろする宇成。
「ちょっ、ちょっとお待ち下さいね!きっと、もうお帰りになりますから!もうすぐ、きっと」
宇成はあわあわ。しかし、理那は大きく息を吐いて、気持ちを鎮めたようだった。
「仕方がない。これは貴方に預けます。心海様がお戻りになったら、渡して下さい」
「いや!待って下さい!もうちょっとだから!」
理那が衣を預けて去ろうとするのを、必死で止める。
「いいえ。時間がないの。もう行かないと」
「いや。しかし、もう少し!」
「今行かないと。皆が私を探すわ。見つかるわけにはいかないのよ」
「え?」
何かが違う気がして、宇成は首を傾げた。
「私は決めたの。我が儘を通すと。一度人の道に外れた人間は、何度でもできるのよ。他人の迷惑なんて考えずに、勝手放題に生きられるの。悩んだ末、決めたわ。私は心海様以外の人のものにはならない」
「え、それは……?」
「今逃げないと、皆に見つかって、連れ戻され、結婚させられます。だから、時間がない。最後に心海様にお会いしたかったけれど、もう行きます」
宇成はなお引き止めた。
「いったいどうなさるんです?最後って?あと少し待てませんか?最後って、何が最後なのかは知りませんが、最後だって言うなら、なお先生と会わないと!」
理那はそっと微笑んで、首を横に振った。まるで菩薩のような顔だ。
「いいえ。もう行きます。会えないなら、会えなくても構わないと思っていたから。かえって未練にならなくてよかったのかも」
「最後って?」
「私は心海様以外の人のものにはならない。そう言ったでしょう?」
理那はそう言うと、くるりと宇成に背を向けて、一歩踏み出す。
二歩目に言った。
「これから弥勒寺へ参ります。私は尼になります」
歩きながらそう言って。そして、すぐに朝靄の中に消えてしまった。
「出家!?理那様!お待ち下さい!」
宇成は叫び、それから大慌て。
「大変だっ!」
こうしてはいられない。
「おい!」
門番に掴みかからんばかりの勢いで言う。
「これから宮中に行く。もしも先生と入れ違ってしまったら、お前、今の話を先生にしろ!」
朱衣を押し付け、全速力で宮中に向かって行った。
どうして、馬か馬車を使わなかったのだろうか。
気付いた時には、もう宮殿が近くに見えていた。
全力疾走しているのに、苦しいばかりでちっとも前に進まない。喉も肺も痛くて、ひいひい言っていた。
(もう、無理だ……)
何度もそう思ったが、今度こそ本当に無理だった。気持ちは立ち止まっていられないと強く思うのに、宇成の体は勝手にその場に崩れ落ちた。
歴戦の武将の体はいったいどうなっているのだろうか。
そんなことを思って、ふと辺りを見ると、日の光が頗る眩しい。そういえば、朝靄なんてすっかりない。
周囲は大変明るいことに、今やっと気付いた。
(え?もう太陽があんな位置に?)
時間の経過にぎくりとする。同時に、鈍足につくづくうんざりする。
(こんな所でへたばっている時間はない)
宇成は必死に起き上がり、よろよろと歩き出す。宮殿はもうすぐ近く。
往来は人で溢れている。
宇成がさらに頑張って足を引き摺っていくと、次第に人ごみを抜け、正門に近付いた。
その時だった。正門付近を守護する軍隊の間から、一人の文官が姿を現したのは。
「は、先生……!」
声になっていたとはとても思えない。
しかし、幸運にも、向こうが宇成を見つけてくれた。
「やあ、宇成!」
心海は片手を挙げ、正門から一人で出てくる。従えていた部下やら従者やらは、まだ正門付近に待機していた。
「どうした?何か異変か?扶余から知らせでもあったか?」
へとへとになっている宇成を見、余程急いで来たのだろうと察した心海は、急に不安げに眉間を寄せた。しかも、使いではなく、宇成が直接やってきたのである。余程のことに違いない。
「ええ、一大事ですよ」
宇成はようやくそう言った。
何を聞いても、驚くまいと、心海は覚悟を決めたが、あまりに宇成がへろへろなので、
「おい、大丈夫か?水でも持ってこさせようか?」
と訊いていた。
「そんな時間はありません……それより、先生、もうお済みですか?帰れますか?」
「ああ、ひとまず片付いた故、ようやく帰れる」
「よかった。ならば、お急ぎ下さい。急いで弥勒寺へ」
宇成はそう言うと、土の上にぺったり座り込む。
「ほら、何してるんです。早く、急いで!理那様がご出家なさってしまいますよ!」
出家という言葉を確かに耳に留め、心海は眉を動かした。
「出家、出家と言ったか?」
「そうです。理那様が出家しようとなさっています。早く行かないと間に合いませんよ!さっき先生のお家を訪ねていらっしゃって、その足でそのまま弥勒寺に行かれたんです!急いで!」
聞くと、もう心海は駆け出していた。
宮殿の厩に行き、馬を奪うように二頭引っ張ってくると、宇成の前に一頭置いて自分は別の一頭に跨り、鞭をくれながら、
「来いっ!宇成!」
と、あっという間に走り抜けて行った。
もう心海の頭には、国難も吹き飛んでなくなっていた。
一方、弥勒寺では理那が出家をするべく、尼僧に挨拶していた。
尼僧は再度確認する。
「本当に宜しいのですか?出家してしまえば、もう後戻りできません。お覚悟は?」
「はい。私の決心は揺るぎません。どうか得度させて下さい」
弥勒菩薩を前にして、彼女は尼僧に懇願した。
「そこまでご決意が堅いなら、よいでしょう。しかし、出家なんてかわいそうで、本当はさせたくありません。どんなに説得しても、あなた様のご決意はかわらないのでしょうか?」
理那が出家したいとやって来た時から、何度となく尼僧は思いとどまるよう説得していた。しかし、理那の決意は強い。
尼僧は自分も尼のくせに、これまでにも、若いわけありの女が出家を希望する度、いつも思いとどまるよう説得していた。自分も尼であるくせに。いや、尼だからこそ。
若い女が女を捨てて尼になるなど、かわいそうに思えてならないのだ。
尼は女ではない。恋も許されぬ。
若い女がそんな身の上になることが気の毒で、可能な限り、出家を避けさせたい。
自分が尼ゆえに、わかることなのだろう。尼ゆえの苦痛が。女を許されぬ悲しみが。そんなものは棄却して生きているに違いないが、それでも人間。時折、ふと感傷が心のどこやらに顔を覗かせることもあるのに違いない。
「私はどうしても出家致したく存じます」
理那がそれでもそう言うので、その決意は変えられないと尼僧は判断し、遂に許可した。
「では、まず、奥院にご参詣を。み仏と血縁を結ぶのです、ご挨拶しなければなりません」
そうして尼僧は立ち上がり、理那を伴って本堂を出た。
二人は奥院へと続く参道を進み行く。
何歩進んだ時であろうか。理那は吹いてきた風に誘われるように、ふと何気なく山門の方を振り返った。
すると、その山門を大慌てでくぐり抜ける人影がある。
一人は官人。もう一人の服には見覚えがあった。
何やら喚きながらこちらに走ってくる。
騒ぎに、尼僧も立ち止まって振り返った。
「待てっ!!待ってくれっ!」
二人組の言っていることが聞き取れた時、その人相が判別でき、理那ははっとなった。
「待ってくれ!理那!理那っ!」
理那は吸い寄せられるように彼を見つめた。
尼僧は二人組と理那とを交互に見て、何か察したのか、何故かほっとしたような顔色になった。しかし、理那に尼僧の様子を気にする余裕はない。
知らず、彼女の足も二人の方に向いていた。一歩踏み出し、二歩、三歩と進む。
四歩目の時、二人組が目の前に至った。
「理那っ!」
官服姿をよれよれにした心海と、豪奢な衣装を汗染みだらけにしてへたばっている宇成である。宇成は心海の二歩後ろで膝から崩れ落ちていた。
心海も理那も、宇成への気遣いは失念している。
整わぬ息で、心海はもう一度、感情を声にして呼んだ。
「理那!」
「夫君……」
呟くような理那の声。しかし、その声にも有り余る思いが溢れている。
「夫君!」
込み上げる理那の涙。それを貪るように見つめていた心海だったが、耐えきれず、彼女を抱きしめていた。
宇成は驚愕している。寺の中であるまじき行いだと思ったか。はたまた理那の心海への呼び方か。
尼僧はゆっくり近づいてくると、二人を咎めるどころか、悟りきった表情で、
「しばらくお話し合いなさいませ」
と穏やかに言い、その場を去っていく。
心海は腕を振り解くと、理那と共に、尼僧の背中に頭を下げた。
それからしばらく、そのまま言葉さえ交わすことなく佇んでいたが、やがて、どちらからともなく、例の女瀧の方へ行こうとなって、歩き出した。やや離れて、宇成がついてくる。




