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後宮(三)

 琳媛も宮中に落ち着き。その噂を聞いて、安心した理那は、いよいよ結婚の準備を進めていた。


 ところが。あと数日という時に、父の李公が驚くべきことを口にする。


「明日、私は出て行くことにしたよ。この家を」


「はっ?」


 話が見えず、理那はただ目を見開いた。


「正直、陛下の治める国にはいたくないのだ」


「……?」


「私は烈公・先代王を信頼し、烈公を王に擁立し、ずっと仕えてきたのだ。実は先日、先代王からお手紙を頂戴したのだが、のんびり楽しくお暮らしだそうだ。ただ、大層退屈でいらっしゃるらしい」


 理那はそこで、はっとする。


「父上、まさか!」


「ふむ」


「いけません!」


「何故だ。ともに隠居の身。茶飲み友達は欲しいものだよ。私の部屋は用意して下さっているそうな。毎日、将棋、絵、書、音楽のお相手をして差し上げ、時には打毬で汗をかき、私も楽しみたい」


「父上のお世話は私が!そんな、遠くへ行くなどと仰らないで下さい!」


「私だって退屈なのだ。そなたや婿殿と話していたって、何も面白いことはない。話の合う相手と、毎日遊んで暮らしたいだけだ」


 李公は烈万華のもとへ行こうとしていた。以前も、そんな計画はあった。しかし、一族の反対により、思いとどまっていたのだ。それなのに。理那の結婚を前に、再び先代王のもとへ行くと言い出すとは。


「だったら、私もお供致します!」


「何言うか。そなたは大農卿と結婚するのだ。ついて来ることなどできぬ」


「父上!どうして急に、そんな悲しいことを仰るのです?」


「そう言って反対すると思ったから、ずっと黙っていたが、急に思いついたことではない。そなたの結婚が決まったら、婿殿にそなたを預けて、私は楽しい老後を送るのだと、以前から決めていた」


「それなら、せめて、明日と言わずに、私が嫁いでからにして下さい」


「ははは。大した式もせぬのに。内々だけの、祝いとも言えぬようなもの。私なぞいなくとも、支障あるまい。それに、この年になって、娘を見送るのは嫌なのだ」


「父親が娘を見送るのは、世の常ではございませんか!」


「ははは。この年寄りのわがままだ。娘に見送られて、楽しく余生を過ごしたい。娘には見送られたいが、娘を見送るのは老心に堪える」


 李公が無闇に理那と大農卿の結婚を進めようとしたのは、この計画のためだったのだ。


 娘を頼れる男に預けたら、あとは安心して、先代王のもとに行ける。


 自分のためではない、一族のためでもない。理那の安定した将来を確保するためだけに、大農卿との結婚を進めたというわけである。


 理那はぼろぼろ泣いた。なんだか、まるで自分が、老いた父を姥捨てのように捨ててしまうかの如き気分だった。


 老いた親に、自ら身の処し方を考えて出て行かれてしまうことほど、子にとって辛いことはない。


「理那よ。私は今でも高心海を許すことはできん。だが、そなたが駆け落ちした相手だ。一度は許したこともあった。今でもそなたは奴を忘れられぬか?私も、許そうかと思ったことは何度かある。だが、どうしても許せなかったのだ。奴のそなたへの仕打ち。我慢ならんのだ。奴を想うそなたにとって、この結婚は苦痛かもしれぬな。だが、わかってくれ。父はそなたの身を、安心して預けられる人間に託したかったのだ。心海が忘れられないか?」


 李公の言葉に余計に涙が溢れる理那。


「娘が苦労するのを黙って見てはいられない。それが親というものだ。それでも、そなたの気持ちというのもあるものな。すまなかった」


「父上」


 すまないともう一度言って、李公は部屋を出て行く。


 翌朝、理那は東雲に起きたというのに、すでに父の姿はなかった。






 そうして、日は過ぎて行き、いよいよ理那の婚礼が差し迫っていた。


 理那は最後の思い出に、琴を弾く。『胡笳明君』である。


 駆け落ちして。よく心海に聴かせていた。


 心海はまだ科挙に受かっていなかったから。必ず合格して能臣になると、信じて励ましたものだ。


 思い出すのは、あの頃の心海の顔ばかりで。


 父の思いなど、考えることもなかったあの頃。


 父は折れてくれたのに。あの時、破談になった縁談。恥を忍んで、父は左相に詫びてくれたのに。


 そうだ。今更、心海を想うなんて。


 理那は琴を途中でやめ、そのまま大空を見やった。


 その時であった。


「お嬢様、お客様です」


と侍女が告げた。


 客はすでに客間に通してあるという。


 理那が客間に行くと、何と、客というのは宇成であった。


「いったい何用ですか?」


 理那は真向かいに座ると、そう尋ねていた。


「突然、失礼しました。でも、気になったことがございましたので。以前お目にかかった店の、隣の内儀ですが」


「承瑤が何か?」


「ええ、実はその後、何度かその承瑤という内儀の店に行きましてね」


「貴方が?貴方のような大商人が?承瑤に平手打ちされたのに?」


「えっ、ええ、まあ」


 思い出して、恥ずかしくなったか、宇成は顔を赤らめた。


「なんというか、懐かしいというか。あの内儀、似てるんですよ、母に。あの気質が妙に私に合うっていうか。妙に居心地よくなってしまって」


「殴られたのが?よかったの?」


 くすくす笑い出す理那。根っからの明るい性格らしい。どんな状況下でも、おかしいことを見つけたら、笑わずにはいられないようだ。


「いや、そうじゃなくて!その、私も決して裕福ではありませんでしたから。高先生に出逢って、急に商売が成功しただけであって、ずっと慎ましく暮らしてきた一民だったのです。その頃を思い出すんです」


「そう」


 なお笑ったままの理那。しかし、宇成は急に表情を変え、眉間に皺を刻ませた。


「あの内儀が私に訊くんです。理那様の想い人と親しいのか、と。そうだと答えると、改めて内儀は頼みがあると言うのです。理那様がご結婚なさる、そのことを、かの人に伝えなくてよいのかと。伝えるべきだと思っているが、理那様は嫌がるだろうと。だから、どうすべきか相談に乗ってくれと頼まれたのです」


 理那はぎょっとした。


「私はただ驚いてしまいました。理那様、本当にご結婚を?」


「何と答えたの?貴方は」


 理那は宇成からの問いには答えず、逆に訊いてきた。やや動転しているようである。


「何も。私には答えなど見つからない。内儀の相談相手にはなれませんでした。しかし、理那様、内儀の話は本当でしょうか?本当にご結婚を?」


 今度は理那は答えなければならないだろう。しかし、やはり答えられずにいる。


「理那様!結婚など、それはいけない。理那様は今でも高先生を愛していらっしゃるのでしょう?その気持ちを抱えたまま、先生以外の人間に嫁げるのですか?」


 理那はしばらく黙っていたが、やがて少し気持ちが落ち着いてきたか、ゆっくり首を縦に振った。


「嫁げるわ。それが貴族というものよ。心海様の妹君だって、黙って運命を受け入れていらっしゃるでしょう?」


「でも!先生と理那様は想い合っていらっしゃるのに。先生だって、理那様を今でもお好きなんですよ。本当は逢いたいと思っていらっしゃるのに、我慢してるんです」


「宇成殿、どうして──」


 心海の心を知っているというのか。


「あんなにお願いしたのに!貴方、お願いを聞いては下さらなかったのね!」


 理那に会ったことは、理那の心海への気持ちは、心海には言うなと何度も頼み込んだのに。


「すみません。約束を破ったことは謝ります。でも、お二人がこのまま、別れたままだなんて。理那様が結婚してしまわれるなんて!せめて、一度逢って話し合ったら如何ですか?先生は理那様に逢いたいと思っていらっしゃるんですよ。それなのに、理那様が会わないと望んでいるから会わないんだと。理那様、どうして?」


「貴族には、どうにもならないことがあります」


「嫁ぐにしても、その前に、一度会ったっていいじゃないですか」


 理那はそこで黙った。そして、長い沈黙の後、


「……少し、考えさせて」


と、ようやく言った。


 宇成は納得いかないまま、一度退散した。その足で、心海宅へ向かう。


 心海は在宅中だった。しかし、庭で何やら兵と話し中で、忙しげである。


「何だ?大した話でないなら、後にしてくれ」


 宇成を一瞥すると、そっけないほどな態度で言い、心海は深刻そうな顔を再び兵に向けた。例の扶余の兵である。


「で?まさか、裏切る気ではなかろうな?母上を避難させるべきか」


「いえ、そのようなことはないかと。いざという時には、お母上様を返却するでしょう」


「そうだな。母上には利用価値はない。いざとなれば、こちらが胡大人を使って脅せばよい。ともかく、陛下に懐柔策を献じてみよう。そなたはしばらく向こうで休め」


「はっ」


 兵が建物へ去って行く。


「あの、何かお取り込み中ですか?」


 宇成が恐る恐る尋ねた。


「ん?なんだ、まだいたのか」


 心海は心ここにあらずといった感じであった。が、不意に思い出したように膝を打って、


「そうだ!黒曜石の権利はそなたが持っておったな?」


と、勢いよく振り返った。


「はあ?まあ、一部ではありますが」


 何を突然突飛もないことをと、宇成は首を傾げる。


「国策だ。その権利、国が買おう。譲ってくれぬか?」


「ええ?」


「扶余懐柔に使いたい」


「扶余府懐柔?何か問題でも?」


「大有りだ」


 心海はかなり苛立っているらしい。


「扶余府が亡国の、渤海の一部だったことは知っておろう?しかし、敵の手に落ちてしまった。扶余府の首長は渤海の貴族であり、民は渤海の民である。つまり、我が国と元は一緒だった」


 渤海の領土の一部がこの定安国であり、扶余府である。その後、扶余府は契丹の一部となっていたが、つい先日、この定安と合併した。


「当然、扶余府は我が国の一部になったのだ。だが、そう思っていたのは、こちらだけだったようだ」


 話が違うと心海はかりかりしている。


 そういえば、定安はいつも扶余府と呼んでいたが、彼等は常に扶余と自称していた。


「まさか、定安を扶余の一部だなぞと言っているのでは?」


 察して、宇成が問えば、心海は唇をねじ曲げた。


「ああ、多分、あっちはそう思いたいんだろうな」


「そんな!我が国では、扶余の人間を、多数重職につけたではございませんか。彼等は陛下に仕えているのですよ。明らかに扶余が扶余府として我が国に組み込まれている形ではありませんか!何を急に」


 理那どころではなくなった。


「まったくだ!扶余府め。首長は急に国王を名乗り始めたぞ。扶余は扶余という一国であり、我が国の一部ではない、我が国の同盟国であるという見解になったそうだ」


「何故、急に?」


「知るか!母上が教えてくれた。せっかく母上が伝えてくれたのに、この情報、無駄にはできぬ。先手を打たねば」


「それで、黒曜石ですか?」


「そうだ。黒曜石を扶余に掘らせてやるのだ」


 心海の懐柔策とは、それらしい。扶余に黒曜石の産地を割譲する見返りに、この国と一つになることを求めるのだ。


「扶余府には、陛下の遠縁同族がいるからな。首長は烏氏の人だし。我が国の王が一門の人というので、変な対抗心を持ったのかもしれん」


 これまでの王は烈氏だったが、新しい王は烏氏。扶余の首長と同族だ。


 同族が王となったなら、自分にだって王となる資格があるのではないか。扶余府の首長はそう思ったらしい。


「城主が王を名乗るとは!」


 心海は首を振り振り、大きな溜め息を吐き出す。


 先代王放伐の政変の時から、扶余府とはいずれもめ事が起こりそうな予感はあった。しかし、扶余府が王を立てようとは。


「ともかく、扶余府がよからぬことをせぬうちに手を打たねば。今から宮殿へ行ってくる」


「えっ、今から?もう夕方ですよ」


「夜だろうが構うものか。すぐに陛下に申し上げねば。宇成、すまぬが、連絡することができるかもしれぬ、このまま我が家に待機していてくれぬか?俺の兵とともにいてくれ。それと、黒曜石の件、頼む。文書を作成しておいてくれ」


「わかりました」


 心海はすぐに出仕した。


 王にとっても驚きで、すぐには解決できない問題だったか。心海はそのまま宮殿にて一晩過ごし、翌明け方になっても戻らなかった。

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