表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/56

後宮(一)

 心海が王命により、宋に使者を遣わした。宋からの使者が帰るのに合わせて、それに同行させたのである。


 扶余府がこちらに寝返ったため、契丹を刺激した。敵の脅威が迫っている旨伝えるためである。


 使者が都を出た三日後、扶余からは心海の妹が送られてきた。


「琳媛!」


 心海は姉と共に妹を出迎えた。


 妹はまだ若い。人質に出されて苦労したろうに、まだ初々しさを残していた。容色の衰えは全くない。


「すまない」


 すまなかったではなく、すまないと、心海は詫びた。


「いいんです。兄上。私を女郎屋に売らなかったことを感謝しております。それに、私が王家一門に迎えられるなんて。夢のようです」


 妹は微笑むが、はたしてそれは本心だろうか。


「まずは休みなさい。一休みしたら、後で私の所へ来て。渡したいものがあるの」


 姉はそう言って、自ら台所へ向かった。夕食の支度を手伝うらしい。


「夕食まで、部屋で休んでいろ。食事ができたら、呼んでやる」


 心海もそう言うので、妹は部屋に下がった。


 彼女の部屋とは言っても、初めて足を踏み入れる部屋である。しかも、ここに慣れるよりも先に、ここを出ることになる。


 兄と姉と過ごせるのは、ごく僅かな時間なのだ。


 金などあるまいに、部屋は、王家の子女が住むに相応しい調度品で埋め尽くされていた。宇成からの好意に違いない。


 琳媛は疲れてしまった。扶余からの長旅で。


 いつしか眠ってしまったらしい。


「お嬢様。お嬢様」


 侍女に揺り起こされて、気がついた。


「お疲れでしょうか、大丈夫ですか?」


「あら、寝てしまっていたのね」


「お疲れなようなら、どうぞそのままに。もし、大丈夫なようでしたら、いらして下さい。お食事の支度が整いました」


「いつの間に。もうそんな時間なの?随分寝てしまっていたのね」


 琳媛は身支度すると、部屋を出て行く。


 客間に宴席が設けられており、そこに通された。兄も姉も座って待っている。


「来たか。無理させて悪かったかな。もっと寝かせておいてやるのだった」


「いいえ。もうすっきりです」


「そうか?やはり若いな。さ、そこへ座れ」


 兄が指差したのは、上座の主賓席だった。


 兄と姉と三人だけの食卓。琳媛がこれまで一度も目にしたことのない、豪勢な食卓だった。皿に埋め尽くされていて、卓の上が見えない。


「さあ、食べよう」


 心海が言うと、姉が小皿に料理を取り分けてくれた。


「これ、私が作ったのよ。そなた、好物でしょう?」


 姉はそう言いながら、料理を盛った小皿を、琳媛の前に置いてくれる。


 その匂い立つ湯気を顔に浴びていたら、琳媛は泣けてきた。


「おいおい、どうした?」


 これはよく母が作ってくれた料理だ。


 察したか。姉が訊いた。


「あっちでは、母上に会えた?」


「はい。一晩一緒に寝ました。お元気かしら」


 妹の涙に兄は閉口する。


 それからゆっくりと食事をした。食後には姉が琴を弾いて聴かせた。


 心海には聞き覚えのある曲だったが、これを今までに姉が弾いたことがあっただろうか。


 妹もひどく感心した様子で聴いていた。


 だんだん夜も更けてゆく。そろそろ休もうということになり、心海は先に自室に戻った。


「姉上、さっき、一休みしたら部屋に来なさいと仰有っていたのに、ごめんなさい。私、眠ってしまって。今から伺ってもよいですか?」


「いいのよ。今夜はもう寝なさい。明日、心海が出仕したら、来るといいわ。おやすみ」


 姉もそう言って、自室に去って行く。


 食卓の上には食べ汚した皿。それを侍女達が片付けている。


 昔は、これを片付けるのは、琳媛の役割だった。皆が仕事に出てしまった後、琳媛が洗っておいたものだ。


(全て変わってしまったのね)


 一家の団欒に母はなく。皿を洗うこともない。


 せっせと働く侍女達をぼんやり眺めながら、琳媛は何故か感傷的な気持ちになった。この変化は喜ぶべき変化であるはずなのに。


 翌朝、心海はまだ暗いうちから起き出して、宮中に出仕した。


 朝食は琳媛と姉の二人きり。


 その後、日が高くなった頃、姉に呼ばれた。


「昨日、渡したいと言っていたものは、これよ」


 姉が差し出したものは、豪奢な髪飾りと琴譜だった。


「これは!」


 琳媛は息を呑んだ。こんな素晴らしい髪飾りは見たことがない。


「これを持って行きなさい。私には不要のものだわ。そなたには要るでしょう。これほどの品は宇成でも用意できないに違いない。王族の中に入っても、これなら遜色ないわ。これを挿して行けば、後宮の女官達にも、馬鹿にされたり軽く見られたりしないわ」


 成り上がり者と思われないためにも。姉はそう言った。


「でも、こんなもの、どうやって?」


「覚えてない?これ、理那様のよ」


「えっ?」


「理那様に頂いたの」


と、第二王子の妃候補になった話から、これを貰うことになったいきさつを、語って聞かせた。


「そんなことが」


「私にはもう必要ないから、そなたにあげる。理那様もお喜びになるでしょう。それと、この琴譜」


 それも、理那からもらった物であった。


「これも持って行きなさい。昨夜私が弾いた曲は、これよ」


「『胡笳明君』?」


「ええ。これを弾けば、宮中の女たちも感心するわ。そなたは決して成り上がり者ではない。我が家は名門だった。皆、納得するでしょう」


 琳媛が『胡笳明君』の譜を受け取り、見てみると、変わった奏法が書いてあった。


「宋で弾かれている物とは少し違うらしいわね。これは、日本に伝わった譜の写しらしいわ。その昔、渤海の使者が、菅公という方からもらった物なのですって」


「そんな珍品なのですか」


「王昭君の曲よ。宮中に上がる前に、練習しておくといいわ。心海には、この譜や簪のことは、黙っていた方がよさそうね」


「はい」


 琳媛は返事をすると、自室に戻って、さっそく琴を練習し始めた。


 やはり難しい。


 昔、彼女に手ほどきしてくれたのは、かの理那であった。






 宮中に出仕していた心海は、また黄大農卿に呼び止められていた。


「何でしょうか?」


 以前と同様、首を傾げた心海。


 大農卿はまた躊躇いを見せたが、わざわざ呼び止めたのだからと、勇気を持って話し始めた。


「貴公にはお話しした方がよいかと思って。いや、わざわざお話しするべきでもないのかもしれないが。貴公にとっては、大きなお世話、聞きたくないことかもしれませんが、私の心がどうにも晴れないのです。私のためにお話しする身勝手をお許し下さい」


 回りくどいが、丁寧な人ではある。心海は苛立たずに、話に付き合った。


「どうぞ、お気になさらずに。お話し下さい」


「実は、結婚することになりました」


 だから何だと一瞬思ったが、


「それは、おめでとうございます」


と、一応笑顔で祝福した。


「いえ、それが」


 大農卿が心海に結婚の報告をするほどの、親しい間柄ではないのだ。


「以前、貴公が李公を助けてあげたらどうかと申し上げたが」


「はあ」


「李公は私なぞを頼りになさっていて、まことにお気の毒なのだが」


「……」


「つまり、私の結婚相手というのは、理那殿なのです」


 心海は思わず息を呑んだ。頭の血が一瞬でどこかに吹き飛んだ。


「まことに、その……」


 大農卿は複雑そうにしている。


 心海は必死に平静を装った。


「……そうですか」


「宜しい、のでしょうか?」


「何故?」


「いや……だって」


「私には無関係のお話。おめでとうございます」


 心海は頭を下げ、何事もなかったように去って行く。


「いや、司賓卿!」


 大農卿がなお背後で呼んでいるようだったが、心海には聞こえなかった。


 宮中にいるというのに、不覚にも、理那のことが頭から離れなくなってしまった。


「ええい!」


 これでは、仕事にならない。


 心海は人知れず、宮中の庭の巨石に座って、理那の面影と戦っていた。


(理那が?結婚だって?あの方と?結婚?)


 昔も、出逢った頃の理那も、婚約中だった。


 それを盗んできたのは若気の至り。


(今はそんなことできるか!)


 妹は宮中に上がり、やがて女真に嫁ぐ。


 自分はこの国の重臣であり、昔のような、科挙にも受かっていない巷の若者ではない。


 この身が。理那を盗むなど、許されはしない。


 いや。


(何故、盗むの盗まないのと悩んでいるのだ?)


 自分の心が、思考が信じられない。


(俺にそんな資格がどこにある!俺はそんな軽はずみはしない!俺は!女真王妃の実兄だ)


 理那は覚悟しているのだろう。


 もう忘れた。過去のことだ。


 心海は上がってきた重心を、深呼吸して低くし、気持ちを鎮めた。


 石から立ち上がった時、すでに彼はいつも通りの彼だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ