後宮(一)
心海が王命により、宋に使者を遣わした。宋からの使者が帰るのに合わせて、それに同行させたのである。
扶余府がこちらに寝返ったため、契丹を刺激した。敵の脅威が迫っている旨伝えるためである。
使者が都を出た三日後、扶余からは心海の妹が送られてきた。
「琳媛!」
心海は姉と共に妹を出迎えた。
妹はまだ若い。人質に出されて苦労したろうに、まだ初々しさを残していた。容色の衰えは全くない。
「すまない」
すまなかったではなく、すまないと、心海は詫びた。
「いいんです。兄上。私を女郎屋に売らなかったことを感謝しております。それに、私が王家一門に迎えられるなんて。夢のようです」
妹は微笑むが、はたしてそれは本心だろうか。
「まずは休みなさい。一休みしたら、後で私の所へ来て。渡したいものがあるの」
姉はそう言って、自ら台所へ向かった。夕食の支度を手伝うらしい。
「夕食まで、部屋で休んでいろ。食事ができたら、呼んでやる」
心海もそう言うので、妹は部屋に下がった。
彼女の部屋とは言っても、初めて足を踏み入れる部屋である。しかも、ここに慣れるよりも先に、ここを出ることになる。
兄と姉と過ごせるのは、ごく僅かな時間なのだ。
金などあるまいに、部屋は、王家の子女が住むに相応しい調度品で埋め尽くされていた。宇成からの好意に違いない。
琳媛は疲れてしまった。扶余からの長旅で。
いつしか眠ってしまったらしい。
「お嬢様。お嬢様」
侍女に揺り起こされて、気がついた。
「お疲れでしょうか、大丈夫ですか?」
「あら、寝てしまっていたのね」
「お疲れなようなら、どうぞそのままに。もし、大丈夫なようでしたら、いらして下さい。お食事の支度が整いました」
「いつの間に。もうそんな時間なの?随分寝てしまっていたのね」
琳媛は身支度すると、部屋を出て行く。
客間に宴席が設けられており、そこに通された。兄も姉も座って待っている。
「来たか。無理させて悪かったかな。もっと寝かせておいてやるのだった」
「いいえ。もうすっきりです」
「そうか?やはり若いな。さ、そこへ座れ」
兄が指差したのは、上座の主賓席だった。
兄と姉と三人だけの食卓。琳媛がこれまで一度も目にしたことのない、豪勢な食卓だった。皿に埋め尽くされていて、卓の上が見えない。
「さあ、食べよう」
心海が言うと、姉が小皿に料理を取り分けてくれた。
「これ、私が作ったのよ。そなた、好物でしょう?」
姉はそう言いながら、料理を盛った小皿を、琳媛の前に置いてくれる。
その匂い立つ湯気を顔に浴びていたら、琳媛は泣けてきた。
「おいおい、どうした?」
これはよく母が作ってくれた料理だ。
察したか。姉が訊いた。
「あっちでは、母上に会えた?」
「はい。一晩一緒に寝ました。お元気かしら」
妹の涙に兄は閉口する。
それからゆっくりと食事をした。食後には姉が琴を弾いて聴かせた。
心海には聞き覚えのある曲だったが、これを今までに姉が弾いたことがあっただろうか。
妹もひどく感心した様子で聴いていた。
だんだん夜も更けてゆく。そろそろ休もうということになり、心海は先に自室に戻った。
「姉上、さっき、一休みしたら部屋に来なさいと仰有っていたのに、ごめんなさい。私、眠ってしまって。今から伺ってもよいですか?」
「いいのよ。今夜はもう寝なさい。明日、心海が出仕したら、来るといいわ。おやすみ」
姉もそう言って、自室に去って行く。
食卓の上には食べ汚した皿。それを侍女達が片付けている。
昔は、これを片付けるのは、琳媛の役割だった。皆が仕事に出てしまった後、琳媛が洗っておいたものだ。
(全て変わってしまったのね)
一家の団欒に母はなく。皿を洗うこともない。
せっせと働く侍女達をぼんやり眺めながら、琳媛は何故か感傷的な気持ちになった。この変化は喜ぶべき変化であるはずなのに。
翌朝、心海はまだ暗いうちから起き出して、宮中に出仕した。
朝食は琳媛と姉の二人きり。
その後、日が高くなった頃、姉に呼ばれた。
「昨日、渡したいと言っていたものは、これよ」
姉が差し出したものは、豪奢な髪飾りと琴譜だった。
「これは!」
琳媛は息を呑んだ。こんな素晴らしい髪飾りは見たことがない。
「これを持って行きなさい。私には不要のものだわ。そなたには要るでしょう。これほどの品は宇成でも用意できないに違いない。王族の中に入っても、これなら遜色ないわ。これを挿して行けば、後宮の女官達にも、馬鹿にされたり軽く見られたりしないわ」
成り上がり者と思われないためにも。姉はそう言った。
「でも、こんなもの、どうやって?」
「覚えてない?これ、理那様のよ」
「えっ?」
「理那様に頂いたの」
と、第二王子の妃候補になった話から、これを貰うことになったいきさつを、語って聞かせた。
「そんなことが」
「私にはもう必要ないから、そなたにあげる。理那様もお喜びになるでしょう。それと、この琴譜」
それも、理那からもらった物であった。
「これも持って行きなさい。昨夜私が弾いた曲は、これよ」
「『胡笳明君』?」
「ええ。これを弾けば、宮中の女たちも感心するわ。そなたは決して成り上がり者ではない。我が家は名門だった。皆、納得するでしょう」
琳媛が『胡笳明君』の譜を受け取り、見てみると、変わった奏法が書いてあった。
「宋で弾かれている物とは少し違うらしいわね。これは、日本に伝わった譜の写しらしいわ。その昔、渤海の使者が、菅公という方からもらった物なのですって」
「そんな珍品なのですか」
「王昭君の曲よ。宮中に上がる前に、練習しておくといいわ。心海には、この譜や簪のことは、黙っていた方がよさそうね」
「はい」
琳媛は返事をすると、自室に戻って、さっそく琴を練習し始めた。
やはり難しい。
昔、彼女に手ほどきしてくれたのは、かの理那であった。
宮中に出仕していた心海は、また黄大農卿に呼び止められていた。
「何でしょうか?」
以前と同様、首を傾げた心海。
大農卿はまた躊躇いを見せたが、わざわざ呼び止めたのだからと、勇気を持って話し始めた。
「貴公にはお話しした方がよいかと思って。いや、わざわざお話しするべきでもないのかもしれないが。貴公にとっては、大きなお世話、聞きたくないことかもしれませんが、私の心がどうにも晴れないのです。私のためにお話しする身勝手をお許し下さい」
回りくどいが、丁寧な人ではある。心海は苛立たずに、話に付き合った。
「どうぞ、お気になさらずに。お話し下さい」
「実は、結婚することになりました」
だから何だと一瞬思ったが、
「それは、おめでとうございます」
と、一応笑顔で祝福した。
「いえ、それが」
大農卿が心海に結婚の報告をするほどの、親しい間柄ではないのだ。
「以前、貴公が李公を助けてあげたらどうかと申し上げたが」
「はあ」
「李公は私なぞを頼りになさっていて、まことにお気の毒なのだが」
「……」
「つまり、私の結婚相手というのは、理那殿なのです」
心海は思わず息を呑んだ。頭の血が一瞬でどこかに吹き飛んだ。
「まことに、その……」
大農卿は複雑そうにしている。
心海は必死に平静を装った。
「……そうですか」
「宜しい、のでしょうか?」
「何故?」
「いや……だって」
「私には無関係のお話。おめでとうございます」
心海は頭を下げ、何事もなかったように去って行く。
「いや、司賓卿!」
大農卿がなお背後で呼んでいるようだったが、心海には聞こえなかった。
宮中にいるというのに、不覚にも、理那のことが頭から離れなくなってしまった。
「ええい!」
これでは、仕事にならない。
心海は人知れず、宮中の庭の巨石に座って、理那の面影と戦っていた。
(理那が?結婚だって?あの方と?結婚?)
昔も、出逢った頃の理那も、婚約中だった。
それを盗んできたのは若気の至り。
(今はそんなことできるか!)
妹は宮中に上がり、やがて女真に嫁ぐ。
自分はこの国の重臣であり、昔のような、科挙にも受かっていない巷の若者ではない。
この身が。理那を盗むなど、許されはしない。
いや。
(何故、盗むの盗まないのと悩んでいるのだ?)
自分の心が、思考が信じられない。
(俺にそんな資格がどこにある!俺はそんな軽はずみはしない!俺は!女真王妃の実兄だ)
理那は覚悟しているのだろう。
もう忘れた。過去のことだ。
心海は上がってきた重心を、深呼吸して低くし、気持ちを鎮めた。
石から立ち上がった時、すでに彼はいつも通りの彼だった。




