早速の闇(三)
それはそれとして。
心海はまた大変になっていく。妹を太子妃の妹扱いで、女真に嫁がせなければならなくなったのだから。
実は妹は今、高家にいない。扶余にいたのだ。
「胡大人」
心海は宮殿内で胡大人に話し掛けた。
「おお、これは高司賓卿」
「妹の噂はご存知でしょうか?」
「ええ」
「では、まことに虫のいい話ですが、妹をお返し頂けないでしょうか?」
心海の妹は人質だった。
扶余を味方にするため。寝返らせるために、差し出していた人質だったのだ。
「いいでしょう。では、代わりの人質を寄越して下さい」
胡大人はそう言って、胸を反らした。
代わりの人質。誰にしたものか。心海にはすぐには思いつかない。
「やあ、何も悩まれることはないでしょう。姉君を寄越されればよい」
胡大人はそのように提案する。
「姉ですか?しかし、姉は……」
王子との結婚はもうないと考えてよい。だが、王の妾という点ではどうなのだ。
王は噂を否定したが、本当に、二人の間に、噂通りの関係はないのだろうか?
「姉君の噂は私も耳にしておりますよ。しかし、噂が事実なら、都に置いておくのは、貴公の将来のためにも宜しくないのでは?」
胡大人はよく考えてみるようにと告げて、去って行った。
心海は帰宅すると、母と姉を呼び、実に苦々しく話した。
「この度、陛下からご命令が下されました。扶余の妹を呼び戻し、宮殿に上げなければなりません。妹は王室宗女として、女真に行くことになりました。まず、太子様ご夫妻にお預けします。その後、女真へ行くことになります」
母は驚き、姉はおののいた。
「うちの娘が女真に?」
畏れ多いと、母は目を見開く。
「陛下のご命令です。お聞き入れ下さい」
国のためだ。妹をそのために犠牲にしてしまっても、仕方ないと思っている。しかし、母はそうは思えないだろう。
「母上、申し訳ありません。いつも私のせいで、悩ませて。家族を犠牲にしてしまって」
「陛下の仰せなら仕方ない。しかし、何故いつも我が家ばかりなの?何故そなたばかりが、危険な役や汚れ役を仰せつけられる?」
「母上。これは、陛下がご信頼下さっているという証拠です。だから、妹は王室一門に取り立てて頂けるのです」
「そう……ならば、そうしなさい。私はそなた達の教育はしっかりしてきたつもりよ。我が家の繁栄のため、国のために生きよと。あの子は、兄のためならと、喜んで扶余へ人質に行った。今度も、己の役割をきちんと理解して、喜んで女真へ行くでしょう。すぐに、呼び戻しなさい」
母は名門を誇りに生きてきた人だ。体面を重んじ、貧乏で食べられなくとも、立派な家を手放さず、召使い達にも暇を出さなかった。
今回のことは、初めは少々たじろぎもし、畏れ多いとも思ったが、家名復興のよい機会と、思い直したらしい。
「ありがとうございます。しかし、ここで問題が一つございます。扶余に別な人質をやらなければならないのです」
「そう。だったら、私が行けば済むことよ」
驚くべきことに、母がそう言った。
「えっ、母上が?」
姉弟は思わず仰け反った。しかし、母は当然という顔で、澄ましている。
「母上、それならば、何の取り柄もない私が」
自分こそが行くと言う我が娘の方を向き直って、母は。
「母が噂を知らないとでも?そなたは陛下の側女になるかもしれぬ」
「それは、誤解です。ただの噂です。私をご自分の妃候補と知って、どんな女かと、興味本位に覗きにいらした殿下が、勝手に誤解なさって……きっと、それがおかしな噂となって、広がってしまったのでしょう」
「それはわからぬ」
母は何故か自信を持っている。
「人の心の中までは見えぬ。陛下のご本心はわからないではないの。こうも頻繁にいらっしゃるのは、そなたに気があるからなのかもしれない。そのうち、本当に側妾となるかもしれぬ。可能性があるのに、扶余に行かせるわけにはいかぬ。陛下に申し訳ないし、我が家の繁栄の好機を失うことにもなる」
「しかし、母上」
反論したのは心海だ。
「仮に姉上がそうなったとして。妃殿下はお認めにはならないのでは?後宮が混乱します。後宮のごたごたが内紛を呼び。最終的に、軍が動き、合戦にまで発展するような事態にもなりかねません。それだけは避けねば。我が家がその張本人になるわけにはいきません」
「そう?私はそうは思わぬ」
母は聞く様子がない。
心海は困惑した。しかし、結局は母に押し切られてしまうことになるのである。
数日押し問答した末、胡大人が訪ねて来た。
「そろそろお返事を頂きたい。人質は決まりましたか?」
すると、口ごもる心海の横から、母が、
「ええ、私が。娘と交換で行きます」
と割り込んでしまった。
「ほう。お母上を。思い切ったことをなさいましたなあ、司賓卿」
「いや、その……」
「ええ、それくらいでなくては、陛下の側近は務まりませぬ。決して親不孝なわけではないですよ。私が人質とはなりますが、おかげで、我が家を繁栄させてくれるのですから。孝行な息子です」
母はまくし立てた。
こうして、母が扶余に行くことになってしまったのだが、老齢の母を行かせることは、どうしても心海には割り切れない。一方の母は、さばさばしたものだ。
そんな母を見ていると、以前、理那が言っていたことを思い出す。
「お辛いでしょう?お苦しいでしょう?自己嫌悪していらっしゃるでしょう?もっと悶絶しなさい。こんなものでは足りないわ。苦しんで苦しんで、屈辱に喘ぐのよ。泥のようになってしまえばいい」
(理那!)
心海は心の中で叫んだ。
(限界があるよ!理那!まだ足りないのか?)
心海の野望に付き合い、そのために、自分を犠牲にすることを厭わない女性達。心海は申し訳ないという気持ち以上に、押しつぶされそうだった。
母は扶余に去って行った。
王はあれ以降来ていないが、まだ噂は消えていない。
「司賓卿はご家族を扶余に人質に出しているそうな。扶余がこちらに寝返ったのは、そのためらしいぞ」
「なるほど。司賓卿が裏で動いていたから、扶余が味方になったのか。これも司賓卿の功績だな」
「今回、扶余から妹君を戻し、母君を扶余へやったのだとか。姉君がいらっしゃるのに、ご高齢の母君を人質に出すとは」
「つまり、姉君は出せないということか」
「やはり、陛下が」
「なるほど、そういうことだよなあ」
と、皆の噂はかえっておかしな方に発展していたのだった。
わざわざ老齢の母を人質にやったのは、姉が王の妾だからで、王が姉を手放したくないからなのだと。
「お気の毒なお母上よ」
「陛下も勝手だなあ」
「妃殿下がこわいな。どう反応なさるか」
「やれやれ、困った陛下だな」
王となって間もないというのに。早くも王への信頼が揺らいでいた。
まずいと思っていた時。
心海の用意しておいたものが実を結んだ。
宋皇帝からの勅書が届いたのである。
もう次の王の擁立を考える者さえ出てきていたのだった。しかし、それは阻止できた。
勅書は宋人の使者が持ってきたもので、述作郎はまだ宋にいるという。皇帝と面会し、皇帝に大変気に入られたとか。
「述作郎はもうしばらく滞在の後、お帰りになるでしょう。皇帝陛下の勅書を貴国では一刻も早く手になさりたいだろうからと、皇帝陛下のご配慮で、私を急ぎ、お遣わしになりました」
使者はそう言って、勅書を王に渡した。
勅書の内容は、契丹包囲網を共に築こうというもので、朝貢を歓迎するものだった。建国間もない宋としては、周辺に味方は多い方がよい。
その勅書の宛名は──。
それが、心海が最も欲しかったものだ。
最も早く欲しかったもの。まだ烏公でしかなかった頃に、王と偽ってまでも欲しかったものだ。
「定安国王烏玄明」
宋皇帝がこの国の国王と認めるのは、烏玄明という人物であるという証である。
先の女真王の使節より、遥かに効果が高い。
この国は宋に認められた国なのであり。烏玄明は宋が王と認めた男なのである。
これにより、王は圧倒的な権威と権力を手にすることに成功した。宋皇帝のお墨付きでは、誰も逆らえない。




