関係(二)
宇成はしばし考えた後、表情を改め、こう切り出した。
「私は先生のご恩により、ここまでになれました。でも、そんなに昔からの知り合いではありません。あまり先生のことを知らないのです。貴女がご存知のことを、教えて頂けないでしょうか?」
「心海様を心から慕う人ができて、本当によかったわ」
理那の笑顔に、裏があるようには感じられない。素直な笑顔のようだ。
「心海様は孤独な方です。誰も頼らない。誰も信じない。そして、誰からも心配されない。心からあの方を慕う人が、ようやく現れたこと、私はとても嬉しく思います。心海様のこと、どうか支えてあげて下さい」
真摯な眼差し。宇成はとんでもなく誤解していたのではなかろうか。
心海を探り、嵌めるどころか、これではまるで。
「あの、理那様はまさか、高先生がお好きなのですか?」
「ま。また無粋な」
くすくすと笑い出した。本当におかしくてたまらないようだ。しかし、理那はこうやって笑っていると、本当に美しい。宇成は彼女を初めて見かけた時の衝撃を、また新たにした。
「私がつきまとっているとでも?」
「いや、お気を悪くなさったなら、すみません」
「いいえ。ええ、心海様のことは大好きだわね」
屈託なく笑って言う彼女は、宇成が想像したような類の好きではないように見えた。
「だとしたら、余計珍しい。いったい、いつどうして先生と知り合ったんですか?」
あんな変人。男でさえ、付き合おうとは思わないのに、若い女性が、恋でもないのにどうして。
「初めてお目にかかったのは、本当に偶然で。ただ、心海様はとても困っていらっしゃったのです。妹君がご病気で。それで、私が薬草を調達して差し上げました。それがきっかけですわ。その後も、しばしば我が家の裏の畑を手伝って頂いて、野菜や果物、薬草を収穫して、持ち帰って頂いていました」
理那は簡単に心海との出会いを説明した。
「はあ、そうだったのですか。先生が科挙に受かる前のことだったなら、先生は経済的にも大変だったでしょうね。理那様の野菜は役に立ったでしょうなあ」
「いいえ。私、こき使ってましたから。野菜はその見返りね」
畑を掘り起こさせたり、除草させたり、果樹の枝を剪定させたりしていたものだ。
「こき使う?」
「ええ」
せいせいと答えて、あとは笑っている。
宇成は理那にこき使われる心海を想像して、何だか妙な気分になった。
「よくあの先生が、貴女にこき使われていましたね」
「案外、楽しそうでしたわよ」
本当だろうか。宇成は首を傾げる。
「信じられません?でも、本当に自尊心の強い人は、平気で土下座できるものよ。あの方は、あの頃から、とてつもない野望を胸に抱いていらっしゃったのでしょう」
「野望、ですか」
「まさか本当にやるとは思わなかったけれど」
今回の易姓革命。やり遂げてしまったのだから。
「確かに、普通の物の尺度では捉えきれないほどに大きなものを、抱きとめていらっしゃる。先生はとんでもない方だと思います」
「いいえ。まだまだこれからよ。まだほんの序の口でしょう。あの方の見ているものは、易姓革命などという小さなものではないもの」
「え?」
心海はまだ何かしようとしているというのか。
それにしても、この理那は、心海の内面まで随分よく知っているものだ。
「よくご存知ですね」
「そうね。あの方の本当の覚悟を知ったのは、以前あの方が免職になった時でしょうか。あの賤民街に移られた時ですわ。そこまでやるのかと思い、あの方の本質をまざまざと思い知らされましたの」
「私が知っている先生は、賤民街に移られた時からの先生です。あの頃知り合ったので。それ以前のことは何も。いったいどんな事情であんな所に移られ、わざわざ貧乏なさっていたのかと」
「ああ、あれは究極の臥薪嘗胆です。あれがあったから、今回の易姓革命があるのでしょう」
宇成は知らない。彼が出会った頃の心海が、何故あの場所であんな生活をしていたのか。家族をどうしていたのか。
「借金があってね。家も財産も全て手放してしまわれたのです。それでも借金は残りました。妹君はとてもお顔立ちが優れていらっしゃるの」
まさかと宇成は思った。今、心海は家族と暮らしているが、妹だけがいない。
「遊女にすれば、高値がつく方でした」
宇成の胸が凄まじく速く鼓動する。
「でもね、遊女にしたら、借金は帳消しになるだけのお金が入るけれど……」
固唾を飲む。
「そのうち、遊女となった妹君が稼ぐようになるでしょう。兄思い、家族思いの妹君ですもの。きっと、稼いだお金を借金の返済と、兄上様の生活費にと、出してくれる筈です」
理那は寂しく笑った。
「でも、それだと、心海様はあまりお金に苦労しなくて済むでしょう?それではいけないと、あの方は考えて──」
「考えて?」
「遊女にはしなかった」
「え?」
「わざと貧乏する道を選ばれたのです。妹君を遊女にしなかったために、借金は残りました。家は売ってしまいましたし、ご家族は住む場所がありません。離散して。心海様だけが、あの賤民街に移られたのです。とても惨めな思いをなさることで、家族への贖罪の気持ちに浸ることで、大望への思いを大きくして行った。いえ、大望への野心ですわね」
「屈辱が、野望を膨らまさせたと?」
「ええ」
しかし、宇成には気になることが。今、流浪した心海の家族は、心海と共にある。だが。
「あの、それで、妹君は?」
理那は静かに首を横に振った。
「え?」
「心海様はとても強い方だけれど、それでも人間ですわ。きっと他人に見せない苦悩がある筈です。だから、宇成殿。貴方が支えてあげて下さい」
「理那様は何でもよくご存知のようですが?」
「私は支えてあげられないの。私は会えないから」
理那の表情。
尋常とは思えない。
「理那様、やはり貴女は?もしや?」
宇成の問いかけに、曖昧に微笑む。
話を全部聞いていたのか、隣店の承瑤の顔が、今にも泣き出しそうであった。
「理那様?」
「お願い、宇成殿。私に会ったことは心海様には言わないで。お話ししたことは黙っていて下さい。心海様には、どうか!」
理那は真っ直ぐに宇成を見つめて、そう訴える。
「何故ですか?何故?先生に会えないのですか?」
理那はまた寂しそうに笑って、かすかに首を振った。
「理那様」
承瑤が雑巾を自分の店の戸に引っ掛けて、こちらに寄り、理那の前にうずくまると、その手を握った。
理那は承瑤に微笑むと、遠く彼方の空を見やる。大海のように蒼い空。
白い雲が、昔の心海の顔を思いおこさせる。
理那ほどの美女でも嫉妬めくほどに、白い美肌の心海を。
その昔、理那は邸の裏の畑で芍薬を切っていた。憂いを帯びた表情で。溜め息混じりに。
理由は彼女自身がよくわかっている。
そこを訪ねてきた、科挙に受かる前の心海。
「理那様!」
呼ばれて振り返ると、白い頬を紅く上気させた心海が立っていた。
「今日は草むしりをさせられるんですか?」
明るく言う心海に、理那は言ったものだ。
「心海様は、随分とお元気ね」
「おや、理那様はどうしてそんなに沈んだ顔なんですか?私が来たのに。何か悩み事ですか?」
「貴方のせいよ」
「私のせいですか?」
目を丸くする心海。疑うことなど微塵もない目だ。
「私は妙齢の女ですもの」
それで初めて、心海の瞳が揺らいだ。
急に笑みを引っ込めて、理那の方に歩み寄ると、彼女の顔を覗き込んだ。
「貴方と初めてお会いした時。あれは、私の縁談のために、左相をお訪ねした時だったのです。あのまま縁談は纏まって、婚約しました。貴方と二度目にお会いしたのは、その直後」
「どうして、黙っていらしたんですか?」
「言う必要ないでしょう?」
そう言った理那に、明らかに心海が怒った。
「必要あるっ!!」
「……今は」
理那はそっぽを向いた。
「でも、最初は言う必要なかった。貴方はただ困っていただけで、私は助けただけ。貴方はその御礼に見えただけ。でも、今は言う必要があるから……だから、困って悩んでいるのです」
心海は、岩にでも頭を叩きつけられたような顔だ。
「そんな、急に言われても!いつです、結婚式は?」
「来月の頭」
「もう半月もないじゃありませんか!」
「ええ。でも、覚悟を決めて、嫁がなければならないのですわ。貴方も私も貴族の生まれ。結婚は己の意のままにならないことくらい、よくわかって育っている。心を、想いを抑えることはできると自負しています。貴方もできるでしょう」
「できません!」
急に言われて、心が整理できなかったからか、心海はそう叫んで、憚らず、理那を抱きしめた。
若い男女が何度も会って談笑すれば、恋い慕いあうようになるのは世の常か。
理那と心海も、いつしかそんな仲になっていた。
「理那様」
宇成に呼ばれて、現実に戻る。空はなお海に似ている。
「どうして、高先生と会えないのですか?」
そう問われて、嫁ぐ前日に、心海が乗り込んで来た時の光景が脳裏に浮かんだ。
鬼のような形相で、理那の部屋に走り込んできた。
「理那様!」
さあ、と手を差し出されたあの時の心海が。
「理那様は、高先生のことが?」
改めて宇成に訊かれて。何故か理那の両目には涙が浮かんできた。
「ええ。今でも。心海様を愛しています」
ほろりと涙が零れた。宝石が零れ落ちたように美しかった。
「だから、会えません」
承瑤がさらに強く手を握る。
理那は、涙のやや乾いた眼を宇成に向け、
「お願い。心海様には言わないで」
と言った。
そして、承瑤の手を解くと、持参していた荷物を手にし、宇成に捧げるようにして差し出す。
「これを、心海様の姉上様にお渡し下さい。どうか自信をお持ち下さいと、お言伝を」
理那はそう言い残すと、去って行った。
理那が宇成に預けたものは、豪奢な髪飾りと、貴重な琴譜であった。どちらも、めったに手に入らない珍品である。宇成は心海宅に行くと、理那に言われた通り、その姉にそれを渡し、
「自信をお持ち下さいとのことでした」
と、伝言した。
ちょうどそこへ、心海が帰宅した。
「姉上、只今帰りました。おお、宇成、来ていたのか」
と言ったが、すぐに髪飾りと琴譜に気付いた。
姉が慌てて片付けたが、心海の双眸には、はっきり捉えられてしまっていた。
「宇成、天気がいいから、気晴らしに庭を散歩しないか?」
心海は宇成を庭に誘い出すや、いきなり、
「どういうことだ?」
と、胸ぐらを掴まんばかりの勢いで迫った。
「え?」
「とぼけるな。さっきの姉上の、あれだ」
心海は、一目であれが理那からのものであるとわかったのだ。
「そなたに昔耶津の手紙を預けた女が、ここに来たのか?」
「いえ。あれは理那様から私がお預かりしたものです」
「理那様だ?」
心海はきっと見やった。
「そなた、いつの間に、彼女の名を」
「先生。理那様はこちらにはいらっしゃいませんよ。先生には会えないからとおっしゃって」
「そうか。そう言って、そなたにあれを預けたか」
ふと心海は悲しい眼をした。
「よく理那様からだとわかりましたね」
「あれは理那の髪飾りだ」
とっておきの。一度しか挿したことがない。理那の髪飾りの中で、最も高価なものである。
「先生。どうして理那様は先生に会えないのでしょうか?」
自分のことは言わないでと必死だった彼女。言わないでと頼まれたが、言わない方がよくないことのように思われた。
「理那は何と言っていたのだ?何か言っていたか?」
「先生をまだ愛していると。だから、会えないとおっしゃっていました」
「そうか」
心海は弥勒寺の塔の方を向いて、静かに目を閉じた。
(理那!)
弥勒菩薩に似た、清らかな姿。
「先生は?」
背後で宇成が問う。
「理那か。理那のことを思うと、今でも心ときめく」
ゆっくり目を開けた。
「だったら、どうして?お互い好きなのに、どうして会わないんです?」
「理那が望むなら……会わぬ」




