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祝いの陰に(二)

 新王と耶津が対面していた頃、ひっそりと宮殿を去る者がいた。


 先王・烈万華である。


 自ら譲位したため、命を奪われることはなかった。


 先王は家族全員を連れて出て行く。


 行き先は国境付近の一地方。幽居となる。


 とはいえ、日々の暮らしに困ることはない。むしろ、豪奢な御殿暮らし。贅沢三昧できる。


 何もすることはないが。好きなことを思う存分楽しめる。


 よき隠居生活であろう。余生を楽しく過ごせる。


 政治はできぬが。王の権威もないが。考えてみたら、ようやく人間らしい楽しみを味わうことができるのだ。


「やっと肩の荷が下ろせましたね」


 妃にそう言ってもらえたことが、一番の救いだった。


 ひっそり宮殿を出て行く先王を見送る者はあまりなく、供の人数も少なかった。






 さて。翌日から、新王の政が本格的に始動した。


 新王が最初に行ったことは、科挙の実施告知。


 次に、扶余府の編入である。


 また、陳公ら先王の謀反を企んだ者達の処分も行った。


 彼等の謀反は先王に対してのものであって、新王に対するものではない。また、先王と新王との間には、禅譲という穏やかな形式ではあったものの、確かに易姓革命が存在したのであり、陳公らを厳しく罰するべきではないとした。


 そこで新王は、謀反の首謀者五人のみを地方役人として左遷し、残りは減俸程度にとどめるという処置をした。


 それでも、中央の官職に空席が目立つ。科挙を行うとはいえ、革命直後で多忙の時。これでは国家の運営に支障をきたす。


 そこで、空席の穴埋めのために、多数の扶余の人を中央に呼び寄せた。何より、今回の革命で最も功績があったのは扶余府である。王にとっては、最も強い味方だ。


 胡大人や徐将軍は、特に重職に就いた。


 ただし、問題もある。


 扶余は扶余として、独立した一国家だという自負がある。扶余府として、定安国の一地方になることには強い抵抗感がある。彼等には同盟国でありたいという希望があるのだ。


 渤海時代はその一部であったにもかかわらず、難しい問題だ。


 定安側では扶余府を併合したと考えている。


 扶余府側では、同盟国として認めよと主張する一方、多数の扶余人を定安の中央の高官とすることには同意した。


 ともかく、定安は扶余府を編入したことで──と定安は思っている──国土が著しく広がった。また、扶余の軍事力は侮れない。最強の軍団まで得て、国力は一気に上がった。


 しかし、いきなり扶余から人々が押し寄せ、国の重職に次々に就いてしまうと、もとからの廷臣は不安にはなる。何となく、乗っ取られてしまうのではないかという気分になるのだ。


「それにしても、この時期にどうして、扶余はこちらに寝返ってくれたのであろう?」


「何だか高心海が親密だな。以前から行き来していたとか」


「では、奴の説得で?」


「先王の権勢揺るぎない頃から親しかったらしいぞ。その頃から説得しておったのだろうか?」


 皆、心海の能力に、改めて恐れを抱いたのであった。


「奴は権力を握った。今のうちに、媚びておいた方がよさそうだ」


 そんな声が、宮中のあちこちで飛び交っていた。


 新王もまた、心海に舌を巻かずにはいられなかった。


 ある日の午後、時間の空いた時に、王は心海を王宮の庭に散歩に誘った。


「そなたは随分前から、扶余と親密だったな。徐将軍に聞いたが、我が国に寝返ってくれと頼みつつ、私のことを売り込んだのだそうだな」


「ええ。貴方様こそ、王になられるお方だと確信しておりましたから」


 せいせいと答える。


「聞いたぞ。今に重職が多数空席になるから、もしも寝返ってくれたら、重職を好きなだけ与えると言ったそうだな。しかも、私を王にするために、扶余と計ったな?国境に軍を配備させた、もしも、この私を王にせぬ時は奇襲すると──扶余が言ったあれは、謀だったのであろう。私を王にするために、とんだ偽りを言わせたものだ」


 実は、扶余府による奇襲計画など、ありはしなかった。全て、心海が扶余と謀ったことだ。


「とんでもない奴だ」


「お怒りですか?」


「いや。しかし。いやいや、やはり怒っておる」


 王が半分困ったように言うので、心海は笑った。


「そなたは勝手にやり過ぎる。女真への使者にしてもそうだ。いや、昔耶津のことも。全てその勝手のおかげで、私は王になれた。だがあまりに勝手に動かれては──」


「わかりました。そんなにお怒りなら、私は官職にありつけなくても結構です」


 心海がなお笑って言うので、王はますます困った顔になる。


「拗ねるな。今回のことは全てそなたの功績だ。この功績に相当するのは大内相であろう。しかし、若いそなたを大内相にするのは難しい」


「陛下。私は今回、罪も犯しました。二人の死人を勝手に生かし、従わなければ殺すと脅して、兵を集めさせました。罪ある私が、官職など望みません」


 珍しく真剣な、神妙な表情に一瞬だけなった。だが、また笑顔に戻り、


「それに、無職な方が自由に動けます。今回、無職である有り難さがよくわかりました。おかげで勝手に動け、陛下を玉座にお迎えできました」


と言う。


「本当はそなたが王になりたかったのではないか?」


「まさか!」


「そなたには、それを望む資格も能力もある。次の王はそなたにしようか」


「ご冗談を!」


 心海は全力で断った。


 王なんて、なるものではない。孤独だし、神経すり減らすし。やりたいようにやれるわけでもないし。民の恨みは集中するし。臣下の身分のまま、権力を手にして好き放題やる方がいい。


「そなたを養子にできればな……」


 そう言う王に、とんでもないと心海は言った。


「では、次の王の義兄弟になるか?その後の王の外祖父になるか?そなた、子は?」


「ちょっと、陛下!何ですか?」


 何故かこの時、王は心海の姉のことを思い出していた。


「そなたの姉を……」


 次の言葉は何故か、


「我が息子に……」


であった。


「へっ?姉を後宮に?」


 仰天する心海。


 それ以上に仰天したのは王自身だった。


 何故、そんなことを口にしたのか。そして、何故、息子の妃にと言ったのか。


 そして、言った後で己の本心に気づき、愕然としたのだ。


(違う!私が。私が彼女を迎えたいのだ)


 愕然としている王と、軽くめまいを覚えている心海。


 王から妙な打診を受けた心海は、さらに妙な話に出会わなければならなくなる。


 王との散歩を終えて、帰宅しようと、宮中の中を歩いていた時、突然呼び止められた。誰かと思って振り返ると、黄大農卿である。


 耶津の初恋の女性の夫。右相の婿だ。


 若い官吏達の指導者で、一つの派閥を形成していたほどの、若手随一の出世頭だ。


 今回の革命では部外者であり、何事もなく過ごし、新体制になってもそのまま残留していた。


 心海とはほとんど話したことがない。


 勿論、互いに有名人だ。互いに知ってはいた。しかし、親しく話すような間柄ではなかった。


 そのような黄大農卿に、突然声をかけられたので、心海は頗る驚いた。


「やあ、これは珍しい。大農卿ではございませんか。どうなさいました?」


 愛想を作ると、大農卿の方も丁寧に頭を下げた。物腰静かでやわらかい。


「お引き留めして申し訳ありません。特に大事なお話というわけではないのですが。お急ぎではありませんか?」


「もう帰るだけですから」


 心海がそう言うと、大農卿は少しためらいがちに言った。


「実は李公のことです」


 瞬時に心海の顔色が変わった。


 それに気づかないふりをしているのか、大農卿は、


「李公はこの度のことで、捕らえられたそうですね」


「ああ、でも、すぐ釈放になりましたよ。無実でしたので」


「とはいえ、あの方にとって、あまり住み心地の良い世の中ではなくなった。違いますか?親しい仲間が皆、高麗に送られたわけですから。肩身の狭い思いをしておいででしょう。なんでも、一度は先王のお供をして、田舎の塵に埋もれようと思われたほどだったとか。一族の反対により、思いとどまったそうですが」


「そうですか」


 心海の返答には感情の起伏は感じられない。


 大農卿の方も淡々と、


「貴公は今回の、第一の功臣だが。貴公なら、どうにかしてあげられるのではないですか。私なんかを頼っていらっしゃるのが気の毒で。老齢でいらっしゃることですし。貴公が手助けしてあげたらどうだろうかと思って」


「あ。はあ……」


「とんだお節介を申しました。ご無礼を」


 大農卿はまた丁寧に頭を下げた。


 李公は仲間が高麗に送られる中、罪への連座が認められないことから、一人この国にとどまることになった。


 罪なしとはいえ、自分の属した一派は反逆罪を犯したとして、国外に追いやられたのである。李公にとって住みやすい世情ではない。


 李公は隠居の身だが、一族にはまだ現役の官吏も何人もいる。彼等のためにも、李公は宮廷の要人にくっついていなくてはと思っていた。


 先日、理那との縁談のあった大農卿は、頼りになる一人だ。


 李公は是が非でも、理那と大農卿を結婚させなければならないと思っていた。それが、落ち目の一族を救う道だと思うからである。


 耶津は理那に手紙を書いたが、絶対に大農卿とは結婚するなと言ったが。


 それは叶いそうにない。


 李公は必死なほどに結婚に乗り気なのだ。


 大農卿は別に断る理由もないとは思っているが、自分なんかより、心海の方が、李公を支えるのに適任であると思えてならないのである。

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