女(二)
心海は、この国の長の繁栄を願っていた。いかにすれば外敵から守れるか、いかにすれば経済を発展させられるか。常にそれを思って、働いていたのだ。
しかし、建国以来続く派閥闘争に巻き込まれ、職を追われることとなってしまった。
そうはいっても彼はまだ若く、しかも、はっきり言えば、どうということのない存在に過ぎない下級官吏。彼には派閥闘争などあまり影響はないように思われた。
だが、彼の仕えた上役が、彼の才能を認め、彼を重用していたことが徒となった。上役が闘争に敗れると、彼まで一緒に失脚することとなってしまったのである。
無念だった。屈辱だった。
彼は下級官吏だったけれど、まだ若いけれど、この国のために色々やりたいことがあったのに。いつか必ず、自分がこの国の舵取りをし、この国を守り抜いて見せると、夢に燃えていたのに。
その大望が果たせなくなったのだから、こんな屈辱はない。
彼は無一文となり、この賤民街に移ってきた。そして、鬱屈した日々を過ごしていたのだ。
権力闘争を繰り返していては、国が滅びる。国を強化しなければならない大事な時なのに。
心海はこのあばら家で、毎日叫びたい衝動に襲われていた。
そうした彼の不遇を見逃すことができないと思ったのが、先程の毛皮の男──述作郎だった。
それで、述作郎は心海を訪ね、「すぐだから」と連れ出して、ある人物と引き合わせたのである。
その人物こそ、心海に凄まじいばかりの高揚を与えた男だった。鬱屈していた心海に、大いなる野望と夢を与えた男。
その男──烏玄明は、大変優れた人として有名だった。
心海もその噂は知っているし、実際、官吏として働いていれば、烏公の政策の素晴らしさは実感できる。
しかし、下級官吏の彼。烏公に会ったことなどなかった。その人となりを、想像するしかなかったのだ。
そして、今日、先程、ついにその人と初めて対面して、心海は思った。天が自分に与えた人物だと。
烏玄明は、噂に聞く心海と会うために、賤民街の側にある茶屋に忍びで来ていた。
知人の述作郎に連れられてやってきた心海に、烏公は、
「人材を募っている。私に力を貸してくれぬか?」
と言った。
その上で、烏公は、今後の国の歩むべき道はかくあるべきと、持論を語った。それは、心海の思い描くものと似ていた。いや、その大望は同じ。
彼はこの人に仕えるべきであろうと決意した。
しかし、烏公の考えを実行するには、邪魔な勢力がある。まるで考えの違う大内相や司賓卿、大農卿らだ。
これらの派閥を追い出さなければ、烏公は大業を成し遂げることができない。
「だから、そなたにも協力してもらいたい」
烏公はそう言った。
「容易いですよ」
心海はそう答えていた。
「容易いだと?」
「はい。弱小な私一人ではどうすることもできませんが、閣下がついて下さるなら、可能です」
「妙案があるのか?」
「ございます。ただし、役所を動かし、多少兵も動かさなくてはなりませぬ。閣下のお力が必要になります」
「いいだろう。頼もしいことだ」
心海はこうして世に出る機会を得た。
この高揚感は、再び世に出られるからなのか。いや、そんなことではない。大望を果たすべき機会を得たからなのに違いないのだ。
彼は見つけたのだ。烏玄明という人物の向こうに、希望を。
「閣下。私はあなたのお望みのような小事では満足できません。きっと大事を成し遂げてみせます。お覚悟あれ」
天に向いて決意を告げると、唐突に空腹を覚えた。いつの間にか日も暮れている。
明日、宇成に礼を言いに行こう。
彼は宇成の母が作ってくれた夕飯を、有り難く頂くことにした。
まだ、ほんのりぬくい。しかし、日暮れの一人。侘びしい食卓だった。
ふと、母のことが頭に浮かんだ。いつも誇り高く、厳しかった母が。
名門としての誇りを、何より大事にしていた母だった。誰にも相手にされなくても、貧しくとも、決して他人に媚びることをしなかった。
そういえば、さっき、烏公がその母のことを口にしていた。
「心海、そなたの噂は聞いている。我が息子の妻は、そなたの母とはいとこだそうだな。そなたの家は名家だった。そなたは本来、下級官吏に甘んじているような家庭の子弟ではない。しかし、祖父も父も短命故に、そなたは苦労した。いかに名門でも、男手のない家は貧窮するものだろう。しかし、頼りとなる親戚はなく、祖父の義兄弟も母の実家も、若いそなたに手を差し伸べてはくれなかった。そなたは貧しい中にも、努力をして官吏となり、誰の力も借りずに一人で生きてきたのだな。息子の嫁からだいたいのことは聞いたよ。その不屈の心は見上げたものだ」
そうだ。親戚なんて、少しも頼りにならない。
貧しかった心海に、経済的に援助してくれた親戚なんて、いなかった。心海を高官に推挙してくれた親戚もいなかった。
心海の親戚は、この偉大なる烏公の身内だというのに。
この烏公に会うこと自体初めてとは。
心海の失脚を阻止してくれる人もなかったとは。
そもそも、幼い日の心海が、餓死しかかっていた時だって、皆知らぬふりだったではないか。
だから、誰にも頼らず生きてきた。身分の低い人々同様に、自力で、実力で、官吏となった。
頼れるものは自分だけ。自分の能力だけ。たった一人で成し遂げてみせる。大望を。
心海は、今の国の状況は危機であると思っている。誰の胸にもそれはあろうが、人によって温度差がある。ぬるい人、完全に危機感欠落状態の人、挙げ句の果てには、私利私欲に走っている人までいる。
建国から四十年も経てば、私腹を肥やすのに必死になる者も少なくない。平和呆けできるような状況にはなかった四十年だった筈だが。どんな状況下にあっても、悪人愚人はいるものだ。
心海は今を打破したい。国の有り様を変えたい。
彼には変えられるだけの才能がある。そう信じている。彼自身も。しかも、たった一人で。
しかし、それには力が要る。今の彼では無理だ。
権力を手に入れなければ、国を変えられない。権力を手にできる地位にならなければ。
誰にも頼らず、自力でのし上がってやる。
そう誓っていた。
多くの人が権力を我が物にしたいと願っている。しかし、それは大概、私利私欲のためだ。偉くなって威張ってみたい。豪華な暮らしをしてみたい。そんなところ。
しかし、心海は違う。
国のために権力を得たいと願うのだ。
権力がなければ、どんなに素晴らしい政策を唱えても、その私利私欲の大臣達に潰される。しかし、権力さえあれば、彼の思い描く通りの政策が実行できるのだ。
誰にも頼らずのし上がる。仲間がいなければ、のし上がるのも難しいが、よい方に考えれば、仲間がいなければ、彼一人が権力を独占できるわけでもある。
既存の王朝の朝臣達を全て一掃して、彼の思い通りの世の中を作る。独裁者となる。
独裁者だからこそ、誰にも邪魔されずに、素晴らしい政策が実行できるのだ。
心海は烏玄明に出会った。
今は外敵からの攻撃に備えるべき時。既存の王朝の枠組みの中で大望を実行するのが理想的だ。
烏玄明は心海の目指すものと同じ。烏公をこそと思う。
一人で烏公に仕え、成し遂げるのだ。大望を。
翌日、心海は宇成の店を訪ねた。
「昨日は有難う。留守にして悪かった」
「いえ。それにしても、先生、どこかにお出掛けですか?」
宇成は心海の格好をしげしげと見て言った。旅支度なのである。
「ああ。しばらく留守にする。それで、そなたに頼みがあるのだ」
「なんでしょうか?」
「私が留守の間に、そなた、港へ行ってくれ。調べて欲しいことがあるのだ。やってくれると、そなたは大金持ちになるかもしれぬぞ。海を渡ってやってくる異国の翡翠商人と取引するのだ」
「はい。先生の仰ることは間違いないですから、従いますよ」
宇成が承諾したので、心海はあれこれと指示を出す。
その様子を物陰からそっと覗く者がいた。しかし、二人は気づかなかった。それは、昨日の美女であったが、やはり彼女は眉を寄せていた。
何も気づかぬ心海は、宇成に言いつけると、去って行った。
それからしばらくの間、心海の姿を都で見ることはなかった。
故国渤海は非常に大きな国であり、その行政区分は五京十五府六十二州に分かれ、その下に県が置かれていた。
契丹に滅ぼされた後、その国土の一部に契丹が傀儡国を建てた他、契丹に反発する渤海人たちにより、各地で復興がなされたが、かつての渤海のような統一国家ではない。
心海が属している烈万華の王国・定安は、西京鴨緑府や南京南海府周辺、白頭山周辺を支配している。だが、かつて渤海の領土に含まれていた扶余府などは、烈万華王の支配下にはない。
かつての渤海に比べたら、国土は随分狭くなった。
ただ、未だ海は確保している。
隣国・高麗から程遠からぬ場所に、吐号浦という港がある。
渤海の地は極寒であり、冬の港は氷に閉ざされるが、南に位置する吐号浦は、冬でも凍らない港である。
渤海が存在した時代、ここには日本人もしばしば来訪した。また、渤海人もここから日本へ出かけていたのである。
今でも、異国人達をよく目にする港。高麗人もいる。
宇成が心海に頼まれて訪れたのは、この港であった。
(翡翠商人か)
宇成はさっそく、心海からの依頼を実行する。




