初恋(一)
理那は困り果てていた。
耶津から手紙を押し付けられて、どうしたものかと。それを持ち帰りはしたが、耶津の要求に応えるべきなのか。
父を引き取り、帰宅した彼女は、自室で溜め息をついていた。二通の手紙とにらめっこである。
一つは理那宛て。もう一つは心海宛て。
耶津は理那宛ての手紙を読んでから、心海宛ての手紙を心海に直接渡して欲しいと言った。そして、心海と会わせて欲しいとも。
それが、李公を解放させてやった自分への返礼であろうと、耶津は御礼を強要してきたのである。必死なのはわかる。それだけの大きな恩であるとも思う。
しかし、彼女には、心海に会う勇気が、この無理矢理預けられた手紙を渡す勇気がなかった。
理那は溜め息をもう一つ。しかし、とりあえず、自分宛ての手紙だけでも読んでみることにした。
耶津の手紙。
開いて、理那は驚いた。
それは、言い訳が綴ってあるわけでもなく、命乞いしているわけでも、己の正当性を訴えているわけでもなかった。
ただ、理那への思いだけが綴られていた。
昔の思い出が。
綿々と。
その昔。
耶津がまだ少年だった頃。科挙に合格した直後のことであった。
耶津の母は弥勒寺の菩薩に願掛けしていた。その甲斐あってか、科挙に合格することができた。
一度、御礼参りをするべきだろう。合格直後のある日、若き耶津は弥勒寺を訪ねた。
麓に参詣し、さらに山頂の奥院まで参ろうと裏山を登り、その途中、女瀧に打たれる人を見た。
まだうら若い、耶津と同じくらいの年頃の女性。顔を青ざめさせ、失神寸前になりながらも、一心に強い流れに身を任せていた。
やがて、ふらふらになりながら水からあがった彼女。倒れるのではないかと耶津は歩み寄ったが、彼女は耶津に気付く様子もなく、去って行った。
彼女はそのまま、瀧近くの堂に入り、やがて、着替えて出てきた。薄く化粧した彼女は、まるで弥勒菩薩のようで。そのやさしい美しさに、耶津は心奪われてしまった。
つい声をかけてしまった彼。しかし、彼女は彼を無視して、そっぽを向いたまま、堂内の机に向かい、写経していた。
耶津は。もう一度声をかけた。
しかし、彼女は振り返らなかった。
何と短い恋。
彼の初恋は、一瞬で終わってしまった。
耶津はすごすごと立ち去り、山頂目指して登って行く。しかし、一歩進む毎に、彼女の姿が心に鮮明に映し出され、奥院に到着した時には、彼の心は完全に彼女に支配されていた。
耶津はもう上の空で奥院を詣で、すぐに下山していた。
一瞬で終わってしまった初恋。いや、終わりではない。これから。これから始まる恋なのだ。
奥院まで来る人は稀であり、帰り道、誰にも擦れ違わず、女瀧まで戻ってきた。
彼は躊躇いもせず、堂へ行く。
相変わらずこちらに背を向け、彼女は写経していた。
また呼びかけた。
しかし、また無視。
さすがにじれて、耶津は堂内に入ろうと、ずかずか階段を上がった。
最後の一段を上がろうとした時、奥院へ行って足が疲労していたのと、気持ちが急いていたのだろう、足がもつれてつっかかり、堂の廊下につんのめった。
「うわっ!」
思わず喚き、手をばたつかせたものの、態勢立て直せず、そのまま盛大に、廊下に全身を打たせていた。
どおん!!
相当大きな音とともに、
「痛っ!」
と情けない声を発していた。
恥ずかしさに慌てて身を起こしたが、同時に目の前の光景に、激しく驚愕した。
彼女は平然と写経を続けていたのである。ぴくりともせず。何事もないかの如く。
あれだけ大きな音がしたら、びっくりして振り返るはず。しかし、彼女は振り返るどころか、驚く様子もなく、写経を続けていたのだ。
耶津ははっとした。もしや。そこで初めて、彼は彼女の事情に気付いた。
(耳が……?)
その時、物音に気付いて、奥から僧侶が出てきた。
耶津の姿を目にし、頭を下げつつ問う。
「何事でしょう?」
僧侶の様子に、初めて彼女は向こうに客人がいることに気づき、振り返った。
耶津は二人に向かって頭を下げた。
「すみません。何でもありません。階段でつんのめって、転んでしまっただけです。お騒がせしました」
照れくさくて、頭に手をやっていた。
「おや、それは大丈夫ですか?お怪我は?」
僧侶は案じて歩み寄る。
彼女も、唇の動きから、耶津の言ったことがだいたいわかったらしく、心配そうな表情を浮かべていた。
大丈夫だと答え、さらに何しにここへ来たのか話し、そして、世間話をした。
すぐに打ち解け、茶をご馳走になりながらの、僧侶と彼女と三人での歓談。
彼女は耳が聞こえないらしいが、相手の言うことは、口の動きでだいたいわかる。しかし、完全にはわからないこともあるようで、そのような時は筆談となった。
それで驚いたのは、彼女の手跡の麗しさだった。
彼女は相当な才媛らしい。
毎日、瀧に打たれて写経に励むのが日課だという。あとは、ここからの眺望を愛で、詩作に耽る毎日だとか。
見せてもらったが、その詩がとても素晴らしかった。
才能に溢れていた。
有名な詩人のものより、新鮮で若々しく、耶津は強く心惹かれる。
その道の達人たちのものより、若々しい感性が、手本にしたく思えるほどだったので、耶津は初対面にも関わらず、弟子入りを申し出た。
彼女はびっくりしていた。弟子入りを請われたことなどないし、第一、そんな巨匠ではない。
世に知られ、認められ、尊敬される、しかるべき師匠に弟子入りするべきだと彼女は言った。
「いえ、達人たちのはまことに素晴らしいですが、何というか古くさいというか、年寄りくさく、若さに欠けます。私は貴女の斬新さに学びたい」
再三耶津が言うので、彼女も折れて、ついには弟子入りを許してくれた。
彼はもうすっかり彼女に夢中になった。
帰る時、途中まで送ってくれた僧侶。僧侶は彼女のことを話してくれた。
「不憫なお方です」
彼女は尼ではないが、ここに預けられているのだという。
名家の令嬢で、大変美しく、また、才媛である。しかし、幼くして、聴覚を失ったのだという。
父親は、そんな彼女をこの寺に押し込めた。
「お父上は、前世の業が強かったのだと仰って。お嬢様も、前世の罪をみ仏の慈悲で許して頂くためにと、わざわざ厳しい修行を身に課していらっしゃって、毎日瀧に打たれて懺悔しておいでなのです」
可哀想なと耶津はますます彼女に惹かれた。
それからしばしば、詩の稽古だと称して、耶津は彼女に会いに行った。彼女と詩の話をするのはとても楽しく、幸せだった。
しかし、科挙に合格し、朝廷の官吏となったために忙しく、頻繁には彼女に会えない。
そんな時には、詩を作って彼女のもとに届けさせる。彼女はそれを添削して、送り返してくれた。
本当に幸せだった。
しかし、初恋の幸せは、長くは続かないのだ。
彼女は名家の出。そして、妙齢だった。
名家の宿命というものである。
名家の男女に恋愛など許されるわけがなかった。結婚は本人の意志などほとんど関係ない。
家のために、ともすれば国益のために、決められた相手と結婚しなければならない。
彼女も。ある日、無理矢理実家に呼び戻された。
しかし、彼女の場合は普通の政略結婚とも違っていた。
名家の右相の令嬢。
右相としては、自分の娘が体に問題があるために嫁にも行けず、尼になったなど、恥ずかしい。しかし、こんな娘を世間に出すのも憚られる。名家に嫁にやっては、恥をかく。
だから、身分の低い男にくれてやろうとした。将来有望な才子だからという、もっともらしい理由をつけて。
自分の娘を、恥ずかしいからと、不釣り合いの男に投げ捨てるように与える。
耶津は彼女の結婚を知って、とてもではないが、受け入れられなかった。何てひどい父親かと腹が立ち。
堪えられなかった彼は、一度、彼女のもとに忍んで行った。
しかし、彼女は父の決めた相手に嫁ぐと決意し、耶津を拒絶したのだった。
人には天より定められた宿命がある。それを受け入れる。宿命に逆らうつもりはないと。それが、名家に生まれた者の掟であり、破れば、とんだ艱難が訪れるだろうと。そして、その掟を守ることが、名家に生まれた者の誇りでもあると。
彼女はそう耶津に訴え、彼を拒んだのだった。
ただ、最後に、勇気がないのだとも言った。声に出して、かすかに、その言葉を。
彼女はこうして嫁いで行った。
しかし、耶津はやはり諦めきれなかった。
何より、相手の男が気になる。
身分低い男。
出世のためなら、手段を選ばない男であるように思えた。
出世できるなら、相手がどんな女だって構わない。名家の娘なのだから。それに、障害のある娘を娶ってくれたと、父親は感謝するだろう。
そんな気持ちで、彼女を心密かに見下しながら、媚びた笑顔を振り撒く。
そのような汚い男に思えてたまらず、耶津は恋狂いしそうであった。
実際、右相の婿となってから、一気に出世したその男。人格者ぶって、人々が集まるのも耶津には気に入らない。人々に振り撒くあの笑顔は、全て偽りの、企みの笑みなのだと。そう思えてならなかった。
耶津は、そんな薄汚い男の妻として仕える彼女を救い出したくて、ある日とうとう彼女を訪ねていた。
彼女はなんと、すっかり痩せ、病に臥していた。
(嗚呼、なんてことだ!思った通り!彼女はあんな男に嫁がされて、こんな目に遭ってしまった!あの男のせいで!)
彼女の不幸が辛すぎて、彼はつい彼女の前に飛び出していた。
嫁いで半年。
こんな僅かな時間で、こんなに病み細ってしまうとは。
耶津に気づいた彼女は、そっと首を横に振った。
最後まで彼女は耶津を拒んだ。
彼女はかすかに口を動かした。声にはならないが、口から漏れた空気は、確かにこう言っていた。
「勇気がありませんでした……」
耶津は寄って、彼女を抱きしめたかった。
しかし、その時、憎っくき男が彼女の病室に現れたのだ。
耶津は物陰に隠れるしかなかった。
夫を見た彼女は、瞼を閉じ、弱々しく息を吐き出した。
夫は彼女をそっと抱きしめる。
「はやくよくなって」
そう言うと、薬湯を飲ませようとした。
しかし、彼女はそれを飲むことなく、そのまま息を引き取った。
彼女は夫の腕の中で逝ってしまった。
夫は妻をぎゅっと抱きしめ、ずっとずっと長い間そうしていた。はじめはかすかに涙して、しまいに慟哭しながら、亡骸を抱きしめていた。
耶津は初めて好きになった女性の最期を、物陰から見た。声を殺して。息をひそめて。
耶津の手紙の内容に、理那は頭を殴られたような衝撃を受けた。
あの耶津に、いつも何かを企んでいそうなあの笑みの裏に、こんな思い出があったとは。
耶津はなお綴る。
「私は理那殿がうらやましかった。憧れだった」
と。
「貴女は彼女に似ている。しかし、貴女は彼女とは違った。勇気があった。そこが眩しかった」
そう綴る耶津。理那は耶津と会って話をした日々を思い出す。
そういえば、あんな笑みを浮かべながらも、瞳はいつも優しかったような。理那にだけ。いや、心海にもか……?
耶津は最後にこう書いていた。
「その眩い貴女が、今、彼女と同じように生きようとしている。よりによって、右相の婿・黄大農卿と結婚しようとしている。家のために。貴女の勇気はどこへ行ったのか?貴女は彼女と同じ道を選ばないで下さい。そして、彼女の夫の妻になったりしないで。貴女のために、手紙を委ねます」
感謝して下さいよと、含み笑いしている耶津の面影が、手紙の上に浮かんだ。
「耶津様!」
理那はますます困惑する。心海宛の手紙を見やり、呟いた。
「勇気が……ありません」




