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出逢い(二)

 理那は思わず、その場に佇んで、見やってしまった。


 邸は周りより、やや高い所に建っている。門の外は階段数段分、低くなっていた。


 門のすぐ下に、数段の階段が設けてある。


 その階段の下。


 先程の客が、転がっていたのである。


 客の男は呻きながらも、身を起こしかけている。俯いているので、額の傷から溢れる血が、頬を伝わず、直接地面を濡らしていた。


 その鼻先に、下りてきた理那は刺繍を施した絹の手拭いを差し出す。


 彼は反射的にそれを受け取っていた。同時に顔を上げる。


「あ……」


 理那と目が合うと、彼は気まずそうに俯いてしまった。


 先程、彼が左相の客間から転がされた時、一瞬理那と目が合っていた。まずい所を、同じ人に二度まで見られては、何とも気恥ずかしい。見知らぬ初対面の相手とはいえ。いや、初対面故にかもしれない。


 俯いた彼の視線は、続いて、彼自身の両手に掴んだ手拭いに行った。絹の金糸の刺繍。真新しい真っ白な手拭いだ。


 はっとして、彼は、


「申し訳ありません!」


とそれを理那の方へ押しやる。


 返却しようとしていることも、彼の気まずさも、理那は察していた。


 理那は素直に手拭いを受け取ると、


「高心海様でしたっけ?」


と、話しかけた。


 さっき、左相が大声でそう呼ぶのを聞いていた。


「……は……はい」


 血が出ています、大丈夫ですかと言おうとして、理那はふと考えた。違う。とっさにそう思った。この男は、そうではない。


「最近、雨が降らないから、土煙が凄くって。顔が真っ黒。男前が台無しですわ」


 理那はつ、と一歩前へ出て、もう一度彼の鼻先に手拭いを差し出した。


 意外な言葉だったか、彼はほんの少し驚いたような表情で、理那を見上げた。


 辺りは理那の言う通り、土煙が舞っている。


 理那はそれを片手で鬱陶しそうに払いながら、いたずらっぽく笑った。


 驚いていた彼だったが、すぐに理那の瞳を見つめながら、にやり。


「男前?」


 言いつつ、彼は手を差し出した。


 理那がその手のひらの上に手拭いを置くと、彼はしっかりそれを握りしめ。


「汚れますよ」


「ええ、どうぞ」


 理那の返答に、くっと笑って、彼はその手拭いで顔を拭い始めた。


(思い通りね)


 理那はそう思った。この心海とかいう初対面の男は、こういう人間だ。


 心海がすっかり拭ってしまうと、そこから、女よりも色白な顔が現れた。文官なのか。生っ白いとも言う。だが、女が嫉妬めくほど肌理がきれいで美肌だ。


 理那は思わず笑い出しそうになった。


「何か?」


「いえ」


 くっと笑いをこらえ、理那はまだ血の止まらぬ彼の額を指差した。


「そこ、それで縛った方が宜しいのでは?」


「そのようですね。しかし、これで縛ると、貴女に返上できませんが」


「結構です。それは差し上げます」


「なるほど。大層高価な物に思えますが、お金持ちには、こんなものの一つや二つ、大したことはありませんか」


「ええ」


 澄ましてそう答えるのが、心海にも愉快と見え、またしてもにたりと笑いながら、彼は手拭いを頭に巻いた。


「これは売れば、大層な金になる。後で洗って、売ることにしますよ」


「それで?お薬が買えますの?失礼ながら、先程、左相とお話しになっているところを立ち聞きしてしまいましたわ。妹君がご病気なのですってね?」


「これは、立ち聞きとは、お育ちのよいお嬢様がはしたない」


 心海はくくとからかったように笑う。すっかり先程までの気まずさや気恥ずかしさは消えていた。全部知られてしまった相手なのだから、もういいやと開き直ったのかもしれない。


「まあ、失礼ね。お困りのようだから、声をかけて差し上げましたのに。知らないわ」


 理那は戯れる。


「ふうん?じゃあ、金を貸して下さるとでも言うんですか?」


 理那はじっと心海の顔を見やってから、


「貸す?ちゃんと返して下さるんでしょうね?」


 すると、彼はからから笑った。


「けちな左相のお知り合いのようで……」


「『貸す』はすなわち『やる』ですからね。金を貸して、返ってきた例がない」


「あはははは!」


「類は友を呼ぶだと思っているでしょう?」


「あはは。いや……」


 心海はそこで急に真顔になった。


「貴女は冗談のきつい御方だが、貴女が左相とは違うことは、よくわかる。貴女は私に恥をかかせたりなさらない。貴女は私に声をかけて下さった。それはご親切からだということは、よくわかっていますよ」


「だったら。私から、お金をお借りになります?お幾ら必要ですの?」


「いや」


 心海は首を横に振った。微笑を頬に浮かべる。


「貴女の仰有る通り、貸した金が返ってくる例はない。それくらい、借りる者の真心は不確かなものです。いや、真心はあっても、返せないこともある。いやいや、そもそも、返せるくらいなら、借りたりしない。返したくとも返せないくらい貧乏だからこそ、無心しなければならないのです。だから……親しい人にしか頼れない。初対面の貴女のご好意を受けるわけには行きません。この手拭いだけ、有難く頂きます」


 困っているだろうに。妹の命がかかっているだろうに。それでも、理那はこの埃だらけの男の意地を知った。


「誇り高い方ですのね。でも、妹君が死んでしまいますよ。今は恥も捨てるべき時でしょう?」


「それで妹が死んでしまうならば……それも天運……」


 先程はまさしく、完全に恥を捨てて左相に無心していたが、彼の誇りが、もはや限界か。


「いいわ。ついてきて下さい。助けて差し上げます」


「え?ですから……」


「貴方の誇りを傷つけない妙案があります。私の知恵ですわ。貴方が私への借り無く、妹君の薬を調達できる方法です」


 くすりと理那は艶やかに笑った。


 理那はずんずん勝手に先を行く。心海は仕方なく、後をついてくる。


「妹君のご病気、医師に診せたことはあります?」


「ええ、一度ね。今流行りの熱病です。薬も一度処方してもらいましたが、それ以上はとても。高価で無理です。しかも、処方された薬だけでは効かなくて」


「どんな薬?」


「小柴胡湯」


「それで治らなかったのですか?他に、どんな薬が必要なのですか?」


「近所に妹と同じ病の人がいて、その人は妹とは別の医者に診せたそうですが、その医者は麻黄湯を処方しているらしいです」


 それを聞いて、急に思い出したように、理那は目の前の辻を左折した。


「ちょっと寄り道します」


 理那が寄ったのは、茶葉を売る店だった。しかも、貴人相手の高級品ばかり扱っているらしい店で、大層繁盛している様子である。


「なんですか?こんな所に」


「ここは異国の珍しい茶も扱っています。こちらへいらして」


 理那はぐいと心海の腕を引っ張った。


「へっ?」


 向かったのは、何故か店先とは正反対。裏の使用人の通用門だった。


 門を幾人もの使用人がせっせと行き来している。


 店で出た不要品や塵などを捨てに行くらしい。


 理那は、平たい木の箱を持った一人の使用人に声をかけた。


「これは、李家のお嬢様!毎度ありがとうございます。今日も茶を買いに来て下さったんですか?」


 どうやら、理那はこの店の常連客で、この使用人とは顔見知りのようだった。


「この店の品はいつも素晴らしいわ。上級品ばかり揃っているし。古い物は一切ないもの」


「そりゃそうですよ。ちょっとでも古くなったら、廃棄してますから。古いったって、そんなに古いわけじゃない。口にしたって体に害はないですよ。我々庶民だったら、有り難く頂いちまいますけどね。高貴な御方の肥えた舌には、不味いんでしょうかねえ。味が落ちるからと、廃棄してるんですよ」


「じゃあ、捨てちゃうの?まだ飲めるのに?」


「はい」


 そこで理那は心海を振り返って、


「そういうことです」


と言った。


 意味がわからず、心海はただ眉根を寄せた。


 理那はくすっと笑って、使用人にまた話しかける。


「ねえ、本当に捨てちゃってるの?」


「いや、実は頂いちゃったりすることもありますよ。勿体無いです。どうせ捨ててしまうものですから、旦那様も文句は言いません」


「じゃあ、それ、くれない?」


 木の箱を見て言う理那に、使用人はとんでもないと、びっくり。


「お嬢様が召し上がるようなものじゃありませんよ」


「いいのよ、多少味が落ちたって、体に害がないなら。ね?」


 箱の中は棗である。


「はあ……まあ、そこまでおっしゃるなら……不味くっても知りませんよ」


「いいわよ。それと、廃棄してしまう桂枝と、麻黄はないかしら?あったら、それも欲しいの」


「はい。ありますけど……」


 使用人は一度店の中へ戻って、再び別の箱を持って戻ってきた。


「どうぞ」


「ありがとう」


 怪訝そうな使用人を尻目に、理那はそれらを拾い集める。絹の袋に入れると、心海に差し出した。


「大棗と麻黄と桂枝が手に入りましたわよ」


 心海も使用人同様、呆気にとられていたが、不意ににたにた笑い出した。


「これは、やられました。大した知恵ですね」


「どう致しまして」


 理那と心海は使用人に礼を言うと、店を後にした。


「あの店は変わった茶も扱っているので、麻黄もあるのですわ」


「薬房に行かなくても、麻黄が手に入るとは。しかも、薬房なら、無料でなんて貰えるわけがない。無料でこれだけの生薬が手に入るとは、いやはや、感服です」


「烏柄杓は畑にでも行けば、雑草ですわ。柴胡や人参も山野を探せばよいでしょう?」


「人参は、探せるかなあ……まあ、なきゃなくてもいいか」

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