プロローグーひかりはゲームの中に入りたいー
朝は静かだった。
スマートスピーカーが流す天気予報と、湯気の立つマグカップの香り。
毎朝6時に起きて、7時には家を出る。
同じルーティン。整った生活。自分でも「ちゃんとしてる」と思う。
会社は8時始業。
早めに出社して、誰もいないオフィスでパソコンを立ち上げるのがひかりの日課だ。
「おはようございます」
「お、今日も早いね」
「まあ、朝が静かなほうが好きなので」
ほんのり微笑むだけで、人当たりの良い“ひかりさん”が完成する。
誰にでも優しく、真面目で、気配りができて、愚痴を言わない。
少しだけミステリアスで、でも嫌味がない。
同期にも後輩にも好かれている。
──ただし、それは「表向き」都内の広告代理店に勤めるOL、木村ひかり(29)。
内心は、常にどこか醒めていた。
この現実という舞台で、自分が何の役を演じているのか、たまに分からなくなる。
昼休みはスマホ片手に、最近ハマっているダークファンタジーRPGの考察動画を見る。
コメント欄で考察を交わす人たちの熱量が、唯一自分を“参加させてくれる”感じがした。
世界観を想像すること、キャラクターになりきること。
そうやって“自分じゃないもの”になる時間だけが、本当の意味で自由だった。
「木村さん、今夜の飲み会どうします?」「あ、大丈夫です…ちょっと体調が…」
「そっかぁ~、じゃあまた今度!」
会議室を出た瞬間、思わず口角が上がる。
体調が悪い? いや、むしろ絶好調。
脳内では、すでにログイン音が鳴っていた。
定時で帰宅。
駅前のスーパーで晩ごはんを買い、家のドアを開ける。
部屋は片付いていて、植物に水をやるのも忘れない。
整った一人暮らしの空間。でも、そのどこにも「他人」は入ってこない。
──そう、ここはひかりだけの王国。
PCを起動する音が響く。モニターが明るくなると、彼女の中の“スイッチ”が切り替わる。
「こんひか〜! 今日もひかりちゃん配信、始まるよ〜っ☆」
配信者ネーム《勇者ひかり⚡》。
ちょっとテンション高めのボイスチェンジャーと、自作のアニメ風アイコン。
異世界ゲーム実況者。登録者数128人、同時接続は良くて10人。それでもいい。
ここでは、自分が「主役」だから。
「マジでここのラスボスさあ、避け不可の即死技ぶっ放してくるからクソなんだって!……おっと、言葉が荒れましたな」
目の前には、天井から垂れ下がる無駄に長い旗。でかすぎる玉座。
そして玉座の先には、ギラギラと赤く輝く目の魔王――
「最終決戦がこんなだったらカッコいいよねー」
・・・・
1時間半の配信が終わり、マイクをオフにする。
テンションの抜けた声が、部屋に落ちる。
「……ふぅ。お疲れ、自分」
お風呂に入り、スキンケアを済ませて、照明を暗くする。
ベッドに入って天井を見つめる時間だけが、なぜかやけに現実的で、孤独で、自由だった。
(このままゲームの中に入れたらいいのに)
(魔王でもラスボスでもいいから、自分が物語の中にいたら)
(……いっそ世界、終わらないかな)
それは願望というより、呪文のようなものだった。
そんな妄想を、もう何年も続けていた。
毎晩思ってしまう。眠りの境目に浮かぶ、静かな願い。
──彼女はまだ知らない。
その夜の夢が、「ただの妄想」では終わらないことを。