1:約束の土曜日
『また明日ね、成海君』
その言葉が忘れられない中、僕は金曜日を迎えた。
遠野さんは普段通りで変わらずに、僕を呼ぶ時も苗字のままだった。
幻聴だったのだろうか。
いや、あんなリアリティのある幻聴があってたまるか。
「ぬぬぬぬぬぬ…!」
「お兄ちゃん、何で唸ってるの」
「すまない、美海。兄ちゃんは今、重要な問題の前に立たされていてな」
「チーズケーキを作ることのどこが重要なの…。作るならパウンドケーキがいい」
「い、いや、今回はチーズケーキだ。兄ちゃんチーズケーキ大好きだからな」
「…生クリームたっぷりのショートケーキが好きじゃん」
「…い、今はチーズケーキの方が好きなんだ」
「本当かなぁ…」
心で反響する名前に振り回されつつ、僕は約束を果たす為、美海と共に材料の買い出しへ来ていた。
近所のスーパーは金曜日になると全品一割引なのだ。
勿論セール品もセール価格から一割引!
お買い得な日を見逃すわけには行かない。
より多くの買い物をこなすために、普段は姉さんと二人で買い出しに出かけるのだが、今日は姉さんがモデルの仕事をしてくると言っていたので人手が足りない。
家の中でゴロゴロしていた美海を捕まえて、買い出しに来たというわけなのだが…。
無理矢理連れてきたせいか、本人は若干ご機嫌斜め。
後でご希望のパウンドケーキも作れるように材料を買おう。
そう思いながら、僕は小麦粉を手に取る。
約束のチーズケーキを作るために。
そして可愛い妹の要望を、叶える為に。
◇◇
晩の内に完成させたチーズケーキは冷蔵庫の中に。
美海は焼きたてが好きだから、パウンドケーキは型に入れた後、冷蔵庫の中へ。
今日のおやつの時間に焼いてやろう。
台所はいつも以上に綺麗にしておいて、朝ご飯は事前に作り終えた。
風呂掃除も洗濯物も終えた。
待ち合わせまで後、一時半。
落ち着かない上に急いている気持ちを静めるため、部屋の掃除も軽く行っておく。
人を家に入れても、問題ないように。
「よし」
「…お兄ちゃん、今日は朝早いね。なんで?」
待ち合わせの駅に向かおうとしたタイミングで、美海が起きてくる。
まだ寝ぼけている美海は何故こんな時間から外出を?と考えているだろう。
それもそうだ。
休みの日。僕の活動時間は、もう少し遅いのだから。
「ちょっとな。今から人が来るから…迎えに行ってくるよ。美海、今日は家にいるのか?」
「ん〜。その予定」
「そ、そうか…じゃ、行ってくるよ」
二人きりじゃなくて、安心したのか。
それとも、二人きりじゃなくて残念なのか…自分の心さえも分からない。
父さんは工房に。姉さんは友達と一日遊びに行く予定。
正直、姉さんがいなくて良かったことに安堵していた。
だからかわからないが、美海のことはそこまで気にしていなかった。
美海は、遠野さんの前で変な事はしないよな…。
大丈夫、だよな…。
不安を抱きつつも、待ち合わせの駅に向かう。
時刻は八時半。
待ち合わせの十時には、早すぎた。
◇◇
駅に到着したのは三十分後。
待ち合わせは改札の前。
わかりやすい位置で呆然と、一時間待つと思うと、浮ついた気持ちが一瞬で冷静になった。
「どうしてこんなに早く…」
流石に待ち合わせ一時間前に来ているのは、気持ち悪いのではないだろうか。
とりあえず、気を紛らわせる為、メッセージを振り返る。
今日作るのは、野菜の炒め物。
そんなもの、教えなくても出来るだろうという気持ちも無いわけではない。
ただ、今回は野菜の切り方をメインに据えている。
簡単だけど、学びはちゃんとある。基礎を積み重ねることができる。
そういうプログラムを組んでみた。
「でも、普通に買うと材料多そうなんだよな…」
野菜は余っても何だし、他に何か作れたらいいのだが。
野菜スープとか…どうだろうか。
材料自体はうちにあった。買い出しは野菜だけにして、他に使うものは我が家の冷蔵庫から出そう。
何度もスマホを出して、時刻を確認する。
まだ、約束の時間は遠い。
ふと、顔を見上げると…改札の奥に見慣れた姿を見た。
長い栗色の髪は緑のリボンで一つ結び。
ふんわりとした七分袖のブラウスに、動きやすいようにパンツスタイル。
おかしいな。ここには窓も何もないから日光が差し込まないのに。
彼女の上に晴れ間があるような気がしてしまった。
彼女も僕の姿に気づいたらしい。
改札を抜けて、小走りに。嬉しそうに駆け寄ってきてくれた。
「おはよ」
「おはよう」
「もう来てたんだね。三十分以上前なのに…」
「う、うん。さっきついたところだけど…遠野さんも早いね」
「うん。本当はもう一つ遅らせてもよかったんだけど…」
遠野さんはにんまりと笑った後、僕にしか聞こえない距離で一言。
「———今日が楽しみで、早く成海君に会いたかったから。早く来ちゃった」
「…ふぇ」
「さ、買い出し行こ!」
「ちょ、遠野さん。さっきのは…」
「質問はお受けしませ〜ん」
「なんで…」
「そこは、ほら。自分で考えてってやつかな」
「…本当に、君ってやつは」
休日にしか見ない遠野さんも、やっぱりズルくって。
けれど、それは嫌とは思えなくて。
むしろどこか期待してしまう、不思議な時間。
彼女と共に並んで、駅を出て…最初の目的地へ向かう。
約束の土曜日が、幕を開けた。




