36:そして私も、気持ちを側に
止む気配がない雨降る中を、小さな折りたたみ傘を差し、二人で歩く。
向かう先は駅の方。
「わざわざありがとうね、楠原君」
「いいって。ま、普通の傘より狭いけど…」
「平気だよ。少なくとも、私は…だけど」
細道を並んで歩く中、傘は何度か傾く。
けれど常に私の方にしっかり傾けられ、傘に覆われていない楠原君の肩は雨でぐっしょりと濡れていた。
自分の傘なんだから、自分でちゃんと使うべきだよ。
私はあくまで「借りている側」
教科書を見せて貰った時も思ったけれど…自分を優先したっていいと思うんだ。
「上着、平気?」
「割と厚手だからか、濡れている感じすらしない」
「そうなんだ…」
「それよりも、遠野さんは?」
「私?」
「濡れてない?」
「ちょっとだけ、でも…大丈夫」
ワイシャツは少しだけ湿っているけれど、想定よりは濡れていない。
別にいい。これで、いい。
こうして帰れることが、重要なのだ。
道中にコンビニがあった。ここで傘を買っていけば、色々な事が解決する。
私は傘を手に入れられる。楠原君は途中で帰れる。
幸いな事に、傘は売り切れていた。
そう思ってしまった自分が、とても汚く感じた。
傘があれば、別れて帰ることになってしまう。
できるだけ、一緒にいたい気持ちは本当だ。
けれど、その為に不幸を願ってしまうのは、最低だなと…思うのだ。
私の欲に影響を受け、遠回りして、寒がりなのに制服を濡らして…時間を浪費させる。
彼には何の得もない。
得られるのは、私のお礼程度。
ほとんど、いや…全く彼に利益はない。
「…ごめんね。迷惑かけて」
「いいって。僕がしたくてやっているから」
「…そ」
その一言だけで済ませるのは、ズルいんじゃないかなぁ…。
損得勘定無し。厚意のみ。
その優しさだけで出来た言葉が、じんわりと溶けていく。
どうしてここまで出来るんだろう。
どうして、ここまでしてくれるんだろう。
純粋に「いい人」だから「優しい人」だからで、片付けていいのだろうか。
私としては、理想通りだから願ったり叶ったりではある。
知るために、もっと一緒にいたい。
その気持ちに偽りはない。
けれど、なぜそう思うのか。
まだその答えには、辿り着けていない。
「ね、楠原君」
「何?」
「こういうこと、他の人にもしてるの?」
「陸には一切したことがない」
鷹峰君にしたことがないと言うことは、これまでもこういうことはしていないこと。
友達作りが苦手。作ろうとせず、鷹峰君以外の友達がいなかった…まさか、こんなところで活きてくるとは思わなかった。
今は、私だけ。
私だけにしてくれている。
その特別な出来事が、嬉しくならない訳がなかった。
「そっかぁ〜…」
頬がいつにもない程、緩んでしまう。
ここまで心を動かされることは、これまでの十六年間、なかったと思う。
記憶にある限り、遡っても…誰かの言動に一喜一憂することなんてなかった。
どうして、こうなったんだろう。
自分の気持ちに振り回されてばかり。
「してたら、マズイ?」
「そんなことないよ。ただ、優しいところを見せるのは、身近な人だけにしておいた方がいいよって…話」
「そうだな。善意の売り歩きは、よくないだろうし」
「そうだよ…優しい人だから、変なことに利用されたりするかも…だからさ」
「確かに。心配ありがとう、遠野さん」
「これぐらい当然だよ。友達、だからね…」
その言葉に違和感を覚える。
震えた唇に、指先を触れさせる。
友達。その言葉はどこまでも心地いいものだと思っていた。
嘘まで吐いて作り上げたその間柄だけど、今は…。
…今は、その言葉で満足できていない気がする。
「ね、腕…疲れてない?」
「これぐらい平気だよ」
「私が持とうか?」
「大丈夫。流石に持たせられないよ」
「でも、入れて貰っている上に、持たせっぱなしって言うのは流石に申し訳ないよ…」
「いいって。気持ちだけで十分」
「でも…」
傘を持つのを変わろうと手を伸ばす。
けれど、彼は傘を高く持ち上げる。
自分は濡れても、私は濡れない位置に傘を持ち上げてでも、やんわりと拒絶する。
「これからまた一時間かけて電車に揺られるんだ。少しでも楽を出来るなら、そうしたほうがいい」
「…じゃあ、お言葉に甘えるね」
「それでいい」
「気遣い上手だね」
「そんなことは一切ない」
「そうなの?」
「…理由がない善意なんて、存在しないから」
不思議な事を言うものだ。
善意に理由はない…か。
その通りかもしれない。
私が彼に見せた優しさも、きっとただの善意でも、厚意でもない。
もっと、薄黒いもの。
気遣うふりをして、彼に接触しようとした美咲を何回止めたっけ。
先に名前を呼んだ彼女に、抱いてはいけない感情だって抱いた。
私は、優しいだけの人間じゃない。
明確な理由を持って、優しいフリをしているだけの、汚い人間だ。
彼が言うような「いい人」では決してない。
じゃあ、その理由は?
突き詰めていけば、答えは見えてくる。
———目的地も、見えてくる。
「もうすぐ、駅に到着するよ」
「あ…」
もう終わる。
心地いい時間が終わる。
誰にも邪魔されず、二人でいられる時間が終わる。
———もっと一緒にいたいのに。
「ついたよ、遠野さん。電車の時間は…」
「———もう少し時間あるから、もう少しだけ…」
私を屋根の中に向かわせる前に、楠原君のブレザーの端を掴む。
引き留めてしまう、時間を、更に使わせる。
「わかった。傘、畳むから少し待っていて」
「ん…」
その我が儘を、受け入れてくれる。
どうしてそこまでしてくれるのだろう。
疑問は降り積もり、限界まで到達する。
底が抜けるのは、もう遠くない。




