35:僕は君に———
「楠原君、あのね」
「うん」
「その、手…」
「…ごめん。握りっぱなしだったね」
「あ…」
名残惜しいが、手を離す時がやってくる。
ゆっくりと手を離し、膝の上へ。
遠野さんも同じように膝元へ手を引っ込める。
…しかし、あれはなんだったのだろうか。
手を離す瞬間、名残惜しそうに彼女は小さく呟いた。
目も物寂しげに細められる。
…さっきの話を聞いた後だと、勘違いしそうになる。
知りたい気持ち、支えたい気持ち。
悪い感情はどこにもない。
だけど、それを意味するものを敷き詰めたら…答えは自然と。
思い浮かんだ答えを、必死に頭から吹き飛ばす。
それこそうぬぼれだ。
たった一ヶ月程度の間柄。
そんな短い期間で好意を抱くのは…変ではないだろうか。
「どうしたの、楠原君…耳元、赤いよ?」
「そう?」
「熱があるのかな。少し、額を借りるね」
「う、う…ん?」
近づいてくるのは、手だと思っていた。
実際に近づいてきたのは遠野さん。少しだけ距離を詰め、中腰に。
遠野さんは自分の前髪を掻き上げた後、僕の前髪も同じように掻き上げ…そのまま自分の額を僕の額へくっつける。
さりげない行為だった。
普段からきっと、こうなのだろう。
「あ、あの…遠野さん…」
目を閉じたくても、閉じられない。
きめ細やかな肌。色白だけどその色に不健康さは感じない。
頬に灯る淡いピンクの差し色。
その上には、彼女の柔らなウェーブを描く茶髪が映る。
そして何よりも特徴的なのは、その緑の瞳。
木漏れ日が差しこんだ深い森の色。
落ち着きを感じさせる、綺麗な色。
ずっと、見ていたい。
「熱は、ないみたい。よかった」
「…うん」
額が離される。
一瞬だけ、遠野さんと視線があった気がしたが、彼女は目を逸らしたまま…熱の有無を教えてくれる。
髪に隠されてわかりにくいが…彼女も、耳が赤いようだ。
雨はまだ止まない。
湿ったどんよりとした空気が、僕らの間にも流れていく。
流石にそれは不味いと思い、話題を切り替えにかかった。
「そ、ういえば…遠野さん」
「なにかな」
「この前、料理…教えて欲しいって言っていたけど、いつにする?」
「そ、うだな…私、全くの初心者だから、ちゃんと、基礎からじっくり教えて欲しくて…」
「月に一度とかの方がいい感じ?」
「そうだね。でも、その…」
「?」
「楠原君がよければ、週に一度とか…」
学校以外の接点が持てる。何となく、嬉しさを感じてしまう。
けれど、不安な事が一つ。
「でも、交通費…馬鹿にならないんじゃ…」
「私、定期あるからさ。こっちに来るのは簡単だよ」
「じゃあ、我が家で週一…それでどう?」
「うん。楠原君の都合に合わせるよ。ダメそうなら、空けていいから」
「うん。じゃあ、毎週土曜日に。今週は、どうしようか」
「せっかくだし、早速お願いしてもいいかな」
「いいよ。でも、どうしてここまで…?」
「それは、そうだね。純粋に料理ができるようになりたいって言うのもあるけど」
「あるけど?」
「…休日も「会いたい」って言ったら、迷惑ですか?」
「っ…」
照れながらも、視線はまっすぐに。
告げられた言葉も正面に。
上目遣いもここでは可愛いよりもズルいが勝っていて。
なんとも言えない気持ちが、心の中を占めてくる。
「…僕は、その、構いませんが」
「ありがとう、ございます」
想定よりも距離が近づく度に、互いに敬語を使わざるを得なくなる。
緊張しているのだろうか。
心臓も、いつもより早く鼓動を刻んでいた。
胸は痛い。けれど、心地がいい。
この前から、この痛みをよく感じる。
遠野さんといる時、彼女の事を考えている時。
その理由は喉元まで、出かかっている気がした。
「買い物も道中で」
「…駅で、合流しませんか?」
「でも、それじゃあ楠原君の手間が」
「重い物買ったりしないといけない時あるだろうし、それに…」
「それ、に?」
「遠野さんが一人でいるところを想像すると、なんというか不安で」
「迷子になるって思われてる?」
「そうじゃなくて、その…変な人に、声をかけられないかとか」
「そっちの心配か…。前に一海さんが変な人に〜って話をして…」
「遠野さん、可愛いから…」
「ふぇ…!?」
「え…?」
遠野さんの顔が茹で蛸の様に赤く染まる。
目を回し、胸に手を当てたまま硬直を続けていた。
僕は今、何を言った?
…何を、言ってしまった?
一瞬の出来事を振り返り、改めて現実を受け入れる。
僕は今、遠野さんに可愛いと口走らなかったか?
「…っ!?」
自覚した瞬間、僕の顔に熱が上がる。
負けず劣らずの赤面を浮かべているだろう。
それほどまで恥ずかしいやらかしをしているのだ。
以前も彼女に「可愛い」と感じた事はある。
けれど、あの時は止めることが出来た。
けれど今は、その止めることが出来た一言が、無意識に出て行ってしまった。
「あ、あの…くすはら、くん」
「ごっ、ごめん!驚かせて!」
「ううん…。だ、大丈夫…そう思ってくれているんだね。嬉しいな」
「なっ…」
照れながらも、嬉しそうに笑う姿。
今まで見たことがない程に瞬いて見えたその表情は、周囲の風景でさえ輝かせた。
雨粒の一つ一つも硝子の破片の様に光を取り込み、煌めきを得る。
彼女の周りが、晴れていると錯覚してしまうほど明るい。
「どうしたの、楠原君」
「…いや、なんでもないんだ」
遠野さんが微笑む度に、胸が高鳴る。
彼女の事を考える度に、心が揺れて…姿を見れば、晴れ間の様に輝きを感じる。
最初は、気になる程度だった。
綺麗な子だと思った。けれど、目を惹く理由はわからなかった。
彼女に話しかけられた。
僕に変化を呼んでくれたのは、彼女の小さな嘘。
そのおかげで、僕のこれまでは全て壊された。
それも何もかも、友達になってくれた君のおかげであることを、僕は断言しよう。
———けれど、少し残念な事がある。
姉さんの言葉が、やっと正しい意味で理解できる。
遠野新菜さん。
———僕はもう、君を「友達」と見ることはできない。
この感情が意味するものを、知ってしまったから。
「遠野さん」
「何?」
「…さっきの言葉、嘘じゃないから」
「…へっ!?」
「さ、今日は帰ろうか。駅まで送るよ。休日のことは、メッセージでやりとりしよう」
「う、うん…!わかった」
不意打ちが多い彼女に、不意打ちをするのは悪いことではないだろう。
遠野さんとなるべく多くの時間、一緒にいたい。
遠野さんが困っていたら、支えたい。
その気持ちは確かなものであり、明確に芽生えた特別な感情。
始まりは、一目惚れかもしれない。
ずっと窓越しから見ていた。
その時点で、彼女へ興味を抱いていたのだろう。
彼女がもたらしてくれたきっかけで、僕は彼女の内面を知った。
一緒にいたいと、願うようになった。
この気持ちは大切にしよう。
そして、叶えられるように…だけど、無理強いはしないように。
僕が一番大事にしたいものは、遠野さんへの恋心ではない。
遠野さんが毎日笑える、彼女の幸福。
それに気づいてしまったのだから。




