34:心の中で、確かにそれは
「気になっていたって…」
以前、遠野さんは硝子を見ていた僕が何を考えているか気になっていたと言っていた。
その話、なのだろうか。
「前、話してくれたこと?」
「うん。本当に、気になっていたの。それで、どう話すかどうか…伺ったんだけど」
「けれど?」
「変な話をするとね、皆に出来ることが、楠原君にはできなかったの」
「それって…」
「さりげなく声をかけるとか…そんな感じ」
声をかけにくい空気は作り上げていただろう。
あの遠野さんでも、声をかけにくい認定をしていたとは…申し訳ない。
「やっぱり、関わりにくそうな…」
「そうじゃなくて!なんとなく、その…話してもいいのかなって思ったり、どう反応されるかが、気になって。その…」
「確かに、陸以外と話すことはなかったし、人物像すら掴めそうにないもんな…」
「そんなところにしておいて」
「う、うん…?」
不思議な言い回しをされるが、それに対する問いをぶつける前に、彼女は話を進めていく。
「…だから、きっかけが欲しかった。君と話すきっかけが、欲しくて…でも、全然来なくって」
「…それは」
「…だから、作ったの」
「えっ」
「…私は、楠原君に一つ嘘を吐いた。教科書、忘れてなんかないの。あの時、ちゃんと鞄にあったの」
震える声で告げられた事実に、僕は息を呑む。
全てが偶然だと思っていた。
けれど、想像以上のことが起きていた。
あの時の、いや…。
僕らが友達になれた出来事でさえ、彼女が作り上げたきっかけだったとは思っていなかったからだ。
実行した彼女の前で言うのもなんだが、僕はわざわざ教科書を忘れてまで関わりを構築したい人ではないだろう。
「なんで、そこまで…」
「わからない。それだけは本当に自分でも答えがでなくって。でも、本当に、楠原君と話すきっかけが欲しくって…でも、教科書を持ち帰ったのだけは、嘘じゃなくて…」
「届けにきて、くれたのも…」
「あの時は若葉と美咲と帰る約束があったから…途中で終わっちゃったけど、休みの日なら、邪魔されることもなく、楠原君と話せるかなと…ごめんね。変だよね。引いたよね…」
「…いや、そんなことはない」
「…楠原君?」
「そこまでさせたのは、流石に申し訳ない」
「…っ。そう、だよね」
「でも、僕は君にそうして貰ったから、今を得た」
不安そうに握りしめられた遠野さんの両手を取り、両手で包み込む。
安心させるように、その緊張をほぐすように。
「君がしてくれた事は大きい。例えそれが一つの嘘から始まったことでも、確かにそれは僕の転機になったんだ」
「…」
「———ありがとう、遠野さん」
「…流石に、そう言われるとは思っていなかったや」
「あの一件はとても大きなきっかけだよ。それを作ってくれた君に感謝をしないでどうするんだ」
「…ん」
「でも、流石にやり過ぎ。忘れ物は成績にも関わるから…こういうのは、流石にダメ」
「そうだね。ダメだね」
まさか、嘘を吐かせていたとは思っていなかった。
そこまでして、僕と関わりを持ちたかった理由は遠野さんにも理解できていないっていうのは、変な話だけど…。
「…でも、びっくりした」
「どうして?」
「流石にそこまでして関わりたいって思っていたなんて言ったら、気持ち悪いって言われるかなって思われるかなって…不安で」
気持ち悪いとは思わない。
ただ、悪いことをしたとは思っている。
僕が普通に接する事ができる存在であったなら、遠野さんに嘘を吐かせることはなかった。
それに、それよりも重要な事がある。
「むしろそこまでさせた理由が分からないことの方が不思議なままだからなぁ…」
「それは、そうだね…」
「それに、遠野さんが僕を気遣う理由も出ていないままだし…」
「それもまだ言葉に出来ないんです…本当にごめんなさい…」
「えぇ…」
敬語になるほど必死に謝罪を述べる。
自分のことですら、不明瞭。
本当に、彼女の心もぐちゃぐちゃなのだろう。
「自分でも不思議なんだけど、もっと知りたいなとか、一緒にいたいなとか、不安そうな時は支えたいなって思うことが、楠原君相手だと特に多くて…」
「なんか不安定だから…?」
「楠原君、例のあれ以外はしっかりしているように見えるけどなぁ…」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけれど…わからないことが多いな」
「ごめん…」
「謝らなくていいって。将来的に言葉に出来ることもあるだろうし、僕はそれを待つよ」
「答えは聞くんだね」
「だって、やっぱり分からないことがあるのは…関係性としては不安だし。疑問に思っているし」
「だよね…」
けれど、僕にも彼女には言っていない悩みがある。
同じなのだ。
遠野さんと同じように、もっと知りたいと思う。
一緒にいたいのもしっくりくるだろう。
彼女と過ごす時間は、楽しいから。
そして最後も同じ。
「遠野さん」
「なあに?」
「答えを探す為に、無理はしないで欲しい」
「…うん。ありがとう、楠原君」
…彼女に、不安な顔はさせたくない。
支えたい気持ちもあるのだろう。
僕ではきっと、力不足でも…出来ることをしたいのだと。
話を聞いて、硝子越しで見ていた彼女と、本当の意味で正面から向き合えたと感じた。
しかし、消えると思っていた心の引っかかりは増えていく。
抱く気持ちは、姉さんや美海に…家族に抱く感覚とは違う。
陸に…親友に抱く気持ちとも違う。
安堵し、頬を緩ませる遠野さんを見ていたら、僕も安心こそするが…やっぱり胸が痛い。
病院に行くような痛みではない。優しい痛み。
この気持ちは一体、何なのだろうか。
彼女の手を包み込んだまま…時が過ぎていく。
柔らかさに宿る、ほのかなぬくもり。
彼女に何か言われるまで———離したく、なかった。




