28:夕暮れの帰り道
楠原君の気分が落ち着いた頃。
そろそろいい時間だし、家に帰ろうかと話をした。
荷物を持って、保健室を出て…玄関へ。
ふと、隣で下足に履き替える楠原君の様子を伺う。
ふらつきもないし、問題なく歩けている。
けれど、念の為。
「歩いて平気?変な感じはしない?」
「平気。具合、大分よくなっているみたいだし」
「寝たからかなぁ」
「だろうな」
顔色も、見る限りとてもいい。
夕日に照らされているから赤く見える…とか、そういうことじゃないといいけれど。
「そういえばこれ。調理実習で作った分。皆で容器に小分けしたの。これ、楠原君の分ね」
「え、いいの?」
「そりゃあ、作った本人が食べなくてどうするんだよって話だよ」
「確かに…じゃあ、いただく」
「ぜひぜひ〜って、私何もしてないのにね」
「何もしていないわけではないだろう。野菜、洗ってくれたし。お漬物だって、切ってくれた」
「楠原君に比べたら〜って話だよ。料理本当に上手だね」
「ありがとう。好きなんだ。作っている間は、余計なことを考えずに済むって言うのもあるけれど…」
「けど?」
「…作った物を、誰かに喜んで貰う姿を見るのが楽しくて」
「硝子細工と一緒だね」
「そうだな」
「私も料理、やろうかな…」
「危ないよ?」
「あ、いや、そうなんだけどさ…」
指先に巻かれた絆創膏が、楠原君の言葉を肯定してくる。
確かに、料理は危ない。それを言ってしまえば、日常生活の至る所に意識していないだけで危険という物は潜んでいると言えるだろう。
あれも危険。これも危険。
それで避けてしまえば、何も出来ないまま…大人になってしまう。
「私だってさ、将来一人暮らしとか考える身なんですよ」
「もう進路のこと考えてるの?」
「まあね。漠然と」
将来のことはまだ漠然。
中学一年生だった私が三年後の私を想像できなかったように。
私だって、三年後の私を想像できやしない。
もしかしたら、進学から就職へ進路を変えるかもしれない。
けれど、どちらにせよ一人立ちの時間は近づいている。
「就職にするか、進学にするかもわからないけど、将来一人暮らしをする可能性だけはどう転んでも大きい訳じゃん?」
「まあ、確かに」
「そんな時の為に、自炊は出来た方がいいと思わない?」
「ごもっとも…」
楠原君とまでは行かないけれど、料理が出来れば食事に困ることはないだろう。
節約にだってなるはずだ。
「でも、私の回りって楠原君ぐらいしか料理上手の人っていないんだよ」
「お母さんは?」
「看護師で、夜勤が多いから…なかなか時間が合わないんだよ」
「なるほど」
「よければ、なんだけどさ…。料理、教えてくれないかなって、思ったりしているんだけど…」
「いいよ。僕に出来る範囲になるけど」
「いいの!?」
自分で聞いて、こうもあっさり受け入れて貰えるとは思わなくて。
嬉しさよりも衝撃の方が勝っていた。
「で、でも私…包丁の扱い、あれだから今日みたいなこと…」
「大丈夫。切らせないように配慮とか考えればいいし…それに」
「それに?」
「最悪、荒療治を…」
「それは身体に負担があるだろうからやめようよ…」
「だな。でも、こういうのをきっかけにして、少しずつ恐怖心を和らげることもできるかなって。遠野さんを巻き込む形に…」
「迷惑はお互い様って言ったでしょ?私は料理を教えて貰う、楠原君は恐怖心の軽減。互いに迷惑をかけあっているから、気にしないでいいの!」
「そっか」
心が落ち着いているのか、年相応の男子高校生らしく笑う姿から目が離せない。
こういう顔もできるんだ。あんな顔もするんだ。
今日だけで、また色々な楠原君を見つけることが出来た。
もっと、一緒にいたら…その分、知れるのだろうか。
「ね、楠原君」
「なに?」
彼の硝子に、夕日が差し込む。
瞬くそれに、自分の意識が釘付けになった瞬間に…何となくだけど、自分の心を理解できた気がする。
———「私は、もっと彼の事が知りたい」と。
その先にある感情はまだ分からない。
けれど、少なくとも…。
私は窓に透き通る貴方を見た。内側を知らない人を気になったから。
私は一つ、嘘を吐いた。教科書を忘れたふりをして、繋がりを得る為に。
私は会いに行った。ただのクラスメイトから、友達になる為に。
私は誘った。できる限り多くの時間を過ごしたいと考えたから。
そして私は、支えたいと願った。
誰よりも繊細で、硝子に透ける細工のような心を持つ貴方を、側で。
「———これからも、よろしくね」
「こちらこそ、よろしく。遠野さん」
色々と言葉が頭の中で巡った。
けれど出てきたのは、当たり障りのない挨拶。
それを伝えた後、それぞれの家がある分かれ道で明日の約束をして、互いに一人となる。
私はスマホを両手で握りしめ、その場に蹲った。
ストラップの硝子が陽光を受け、輝きながら小さく揺れる。
知らない感情は、私の中で着実に芽生えている。
私はまだ、この感情に名前をつけることができない。でも、ひとつだけ確かなことがある。
胸の奥にあるこのじんわりとした気持ちは、楠原君と出会う前にはなかった、特別な感情だと。
それだけは、今の私でも理解することができた。




