33:3月1日
朝陽ヶ丘公園前のとある民家にて。
二人がけのテーブルに、珍しく用意された朝ご飯。
台所には、普段なら寝込んでいる母さんの姿があった。
「浩樹」
「どしたの母さん。今日は起きて平気なの?」
「ええ。見ての通り元気。今日は高校の卒業式行けそう」
「そっか。でも無理しないようにね」
「わかっているわ。でも、多少無理してでも行くわよ?高校最後ぐらいはね」
「…ちゃんと薬持って出かけるんだよ」
「もう。そこまでぬけていないわよ…」
父さん———と言うのもおこがましい男から逃げるように、この空気が澄んでいる田舎町に、この穏やかな環境に越してきて…三年が経過していたらしい。
入学式が楽しかったのは、小学校の時ぐらいだったかな。
あの時はまだ両親も仲がよかった。
母さんの身体は元々弱かったけど、それを受け入れられる余裕があの人にもあって。
生活にも余裕があった。
けれど、それはあっけなく壊れた。
小学校の卒業式はそれどころじゃなくって、中学は録に通えなかった。
壊れる前に買い与えられたノートパソコンだけが、友達で。
現実から逃げるように物語を綴るうちに、本が出た。
母さんは喜んでくれた。だけど、あの人は喜ばなかった。
失敗して挫折したあの人は———成功者を、何よりも憎んでいたから。
元に戻ると信じていた母さんはそこであの人を見限り…こうして逃げてきた。
その直後にあたる高校の入学式は、環境に落ち着くのに必死。
母さんは手続きとかで精神的に負担が多かったのか、具合を悪くしてそのまま入院したっけ。
…まあ、なんだ。
まだ大学の入学式もあるし、順調にいけば卒業式だってある。
決して、最後ではない。
だけど、高校の卒業式というのは一度きり。
母さんがこだわる理由も、理解はできるのだ。
「お父さんと離婚してからもう三年ね。小学校も、中学校も…私達のせいで参加できなかったでしょう?」
「気にしてないよ」
「お母さんは気にしてる。一人息子の大事な節目なんだから」
「そう。でもまだ大学あるよ?」
「大学は制服じゃないもの」
「そうだけどさぁ…」
「それよりも、どうして大学進学決めたの?もう専業作家になろうとか言ってたのに」
「大学生活を体験しておくのも、作家として必要かなってね」
…商業高校を選んだのも、大学に進もうと決めたのも。その選択が挫折した時の逃げ道を作り出してくれると思ったから。
僕はあの人とは違う。ちゃんと挫折した時の逃げ道を構築している。
病弱で録に働けない母さんを支えながら生活を安定させる。
一人で人生を歩くより難しい。
◇◇
卒業生はいつもと同じ時刻。
自由参加の在校生は、いつもより遅い時間。
僕と新菜はいつもとは異なる時間の同じ場所に待ち合わせをした後に、学校へ向かっていた。
今日は陸も一緒だ。
せっかくだから、三人一緒にいこうと話をしたからだ。
「…俺は間に挟まるのが常なのか」
「どうした、陸」
「どうしたの、鷹峰君」
「いや、なんでも…。ところで成海、卒業式って何時から?」
「十時半。体育館だ」
「今は九時五十分か…結構余裕があるね」
「私の電車の都合でね。次のだと普通に遅れちゃうから…」
「ああ…なるほど」
「ごめんね。早い時間にしちゃって」
「気にしないよ。交通機関の都合なら仕方無いことじゃないか。遅刻したわけでもないんだし、謝る必要はないよ」
「素直じゃない…」
「成海には言われたくないね」
「…成海君は言わない方がいいよ。跳ね返ってくる」
「そうか…」
素直じゃなかった陸に呟いた一言に、陸どころか陸もしっかり目を細めてくる。
…そこまで素直ではないだろうか。
校門前には卒業生とその保護者がもうやってきている。
立て看板と共に記念写真を撮る姿を邪魔しないように、校舎の中に入って…そのまま体育館へ。
渡り廊下を歩く中、物陰に隠れるように項垂れている保護者が一人。
どうしたものかと三人顔を見合わせて、僕が代表して声をかけることにしてみた。
「…」
「あの、どうされました?具合でも…」
「あ…いや」
ふと、持ち上げた顔は見覚えのある人と瓜二つ。
流石に目の前の人の方が歳を取っている分…いや、かなり老けているな。
なにかあったのか不安になるぐらい、疲れ切った顔を浮かべている。
あの人の両親に会ったことはないが、父親似と断言できるだろう。
「…室橋先輩の、ご親戚で?」
「室橋…?あ、花織の旧姓か。そうだよな、もう花織と同じ苗字にしてるだろうから…」
「…?」
「ごめんなさい。こっちの話で…ここにいると、聞いてはいたから」
「聞いて、というのは?」
「会いたくないだろうけど、遠くから見るだけでもと思ってね。だから僕と会ったことは、言わないで欲しいな…」
「え…あの…」
室橋先輩によく似た男性は奇妙な事を言いながらそそくさとその場を後にする。
それと入れ替わるように、今度は僕と新菜の姿を見かけた父さんが声をかけてきた。
「おはよう、新菜ちゃん。お、陸!久しぶり!」
「…お久しぶりです」
「陸〜?相変わらず嫌そうな顔して〜!おじさんこと嫌い?」
「…嫌い。離せ。あっちいけ」
嫌がる陸に頬擦りする父さん。
…なあ、陸。君が父さんの事を嫌いな理由って、僕の事云々より、わりとこっちの方が大きいのではないか?
「ところで、さっきの人…室橋君によく似ていたけど」
「ああ、父さんもしかして会ったことある?」
「…いいや。というか…あの人、ここに来たら相当まずいぞ」
「なんで?」
「…夏休みのバイトの時、お母さんにも連絡を取ったんだ。何か気をつけることはあるか…そういうのを聞きたくてな。勿論、新菜ちゃんにも同じように」
おそらく、僕の事があるからだ。
些細な事でも何があるか分からない。
それが他の人にも当てはまる可能性があるからこその連絡だ。
事実、新菜にも些細なところの問題がある。
そういう面倒な事を自分の子供だけじゃなくて他人相手にも出来るところが、父さんの尊敬できる部分だったりするんだよな…。
…本人には言わないけど。
それよりも、室橋先輩のことだ。
先程の人物…おそらく室橋先輩のお父さんだろうけど、何がまずいのだろうか。
「名前は確か…苗字が結構特徴的で…」
「どうでもいいから早く離してくれません?暑いんですけど」
「ああ。そうだ。神楽坂。神楽坂孝浩だ」
「…おじさん?」
抗議ではなく、驚き。
父さんの腕の中で、陸が唯一目を見開く。
縁というものは、不思議なもの。
無関係に見えて、知らないところで繋がっている。




