Fragments5:楠原一海の大事な弟
物心ついた時には、既に私の隣には小さな弟がいた。
あの子はいつもぼんやりしていた。
なにもせずに、ただぼんやりと窓の外を眺めるだけ。
おもちゃは遊ばない。ぬいぐるみだって興味を示さない。絵本なんて読みやしない。
子供が好きそうなビデオを流したって、成海の興味は常に外。
だからと言って外に出るのは嫌で、遊びに行こうと誘われたら泣いて抵抗していた。
お父さんはとても心配していた。
お母さんは「私もそうだったから、そういうものよ」なんて言うけれど、お父さんはいつも不安そうに顔をしかめていた。
お父さんにそんな顔をさせる成海が、大嫌いだった。
だけど、成海は私の話にも耳を傾けない。
言葉を交わすこともない。一言も喋れないから。
いっぱい話かけても、返事一つしやしない。
毎日起きて、ご飯を食べて…好きなことして良いよって言われたら、窓辺に腰掛けるだけ。
ご飯の時間にはお父さんかお母さんが手を引きに来る。
その後も、寝るまで同じように窓の外を見る。
私の弟は、虚ろな目で何も変わらない外を見る。
「ね、成海」
「…」
「何見てるの?」
「…」
「お外、遊びに行こ」
「…」
首を振る。言葉は理解しているらしい。
だけど、話さない。
成海に倣って、とりあえず私も呆然と外を眺めてみた。
何も変わらない外。
何時間見続けたって、時々車が通るぐらいで…風景に変わりは無かった。
「ねえ、これ面白い?」
「…」
成海は一度だけ、小さく頷いた。
最初は変な子だと思っていた。
好きな事をしていいよと言われても、何もしなかった。
ただぼおっとしているのではなかった。
成海は自分の意志で、好きな事をしていただけなのだ。
その日、お父さんにさりげなく教えた。
成海は窓から外を見るのが好きなんだよ、と。
でも、お外に行くのは違うんだよ。見るのが好きなの、と。
お父さんもやっぱり私と同じ思い違いをしていたらしい。
その日から、お父さんは無理矢理成海を外に連れ出そうとはしなくなった。
ただ、一緒に、外を窓から見るようになった。
「な、成海。今日は何を見ているんだ?」
「…うみ」
「へぇ、海のどこが好きなんだ?」
「あおくて、きらきら。ぼく、あおすき」
「そっかそっか。お父さんも海が好きなんだ〜。特に波が好きでなぁ」
「なみ?」
「ああ。ここからじゃ遠くて、波が見えないな。実は海は動いているんだぞ」
「うごく?」
「そう。明日、外に出よう。海を見に行こう」
「…ん」
少しずつ、繊細なあの子の心に触れるように、お父さんは言葉で歩み寄りを見せた。
私は何もせず、一緒の部屋で静かに過ごすだけ。
お父さんを取られて不満だとか、そういう気持ちはなかった。
分かって貰ってよかったね。そんな気持ちでいたと思う。
成海も次第に話すようになって、興味があることを見に、お父さんと出かける時間が増えた。
あの時は、初めて一緒に海へ出かけていた時だ。
「成海〜。海だぞ〜」
「なみ!」
「ああ。お父さんと一緒に近づいてみよう。一海はどうする?」
「私は…」
別に成海みたいに海が初めてということはない。
海水浴だってさせてもらっている。今更海にはしゃぐことはない。
だけど…。
「ねーちゃ」
「…なに、成海」
「いっしょ」
「…」
「ねーちゃ、いつもいっしょ、だから…」
「そうね。いつも一緒だもんね」
「!」
「一緒に行きましょう」
一歳だけしか歳が離れていない、小さな弟。
あの子は何も話さないだけで、いつも私が一緒にいたことを理解していた。
言葉がなくなって、ちゃんと反応は示していた。
小さな手を繋いで、お父さんと一緒に成海の手を引いた。
初めての海に、押し寄せる波にはしゃぐあの子の顔は一生忘れない。
私があの子を、大事な弟だと認識できた日を、忘れることはない。
◇◇
それからしばらくして、美海が産まれた。
私も成海も、物心ついた後、初めて見た赤ちゃんに…妹に興味を抱く。
ふにゃふにゃでもちもち。
布団の上でぐにゃぐにゃ動く美海を、暇さえあれば一緒に見に行っていた。
「おねーちゃん」
「なに、成海」
「小さいね、美海」
「そうね。でも、私達だって昔はこうだったのよ」
「へぇ…」
「成海はもう美海のお兄ちゃんなんだから、私みたいにならなくっちゃ」
「おねーちゃんみたいに?」
「そう。お兄ちゃんとお姉ちゃんは一緒なの。私がお姉ちゃんとして成海と一緒にいるみたいに、今度は成海がお兄ちゃんとして美海と一緒にいなきゃね」
「でも、そうしたらおねーちゃんと一緒じゃなくなる…」
「バカね。私は美海のお姉ちゃんでもあるのよ」
「…」
「だから、これからは三人一緒ってことよ」
「そっかぁ」
安堵したように微笑んだ成海は美海の小さな手に指先を伸ばす。
差しのばされたそれを、颯爽と動いた美海が口に含んでしまったことを二人の隠し事にしたのは、もう十二年前の話になるのね。
それから私達は少しずつ大きくなった。
家族以外と関わろうとしなかった成海は、幼稚園に進んだぐらいで友達が沢山できはじめた。
何事にも恐れずに挑戦をしているらしい。
あの子の周りには、人が絶えなかった。
誰隔てなく話かけて、一緒に遊んで。
行事も全力で楽しんで、お遊戯会の演劇で主役だってやったっけ。
小学校に上がった後もその性格は健在だった。
入学式の翌日。成海は初めてできた友達を家に連れ帰ってきた。
「お姉ちゃん」
「成海。その子誰?」
「陸.友達」
「…こんにちは」
白髪の男の子。鷹峰陸。あの子の一生の親友になる男の子。
沢山いた友達の中でも、陸はひときわ特別だった。
いつも一緒にいて、登下校も一緒。
成海から出てくる話題のほとんどが、陸と一緒の話題だった。
誰も何も言わない。本人達も無自覚だったけれど、二人の関係は特別だったのだろう。
だからこそ、今でも続いているし…。
うちのお母さんが亡くなって、心に傷を負った成海から、離れないでずっと支えてくれた存在になってくれたのだろう。
逐一「今日の成海」と報告を送ってくれたのは非常に助かっていた。
不安だった。また陸に起こしたようなことを…誰かにしてしまったらと考えたら。
あの時は陸だったから丸く収まったのだ。
陸じゃなかったら、こうはいかない。
お母さんが亡くなって、叔父さんに心ない言葉を投げかけられた。
そしてその問題が白日の下にさらされた翌日以降、成海は幼少期と同じように周囲との関わりを拒絶するようになった。
明るかった性格は鳴りを潜め、いつも俯きがちで…一歩を踏み出すことを恐れるようになった。
何があるかわからないから、と…授業や行事参加にも制限が出て、遠足や修学旅行…校外学習は勿論、運動会なんかも参加できなかった。
カウンセラーの先生にお世話になり、保健室登校に切り替わったり…家の中も大変だった。
それでもお父さんは成海を支えると、必死に仕事と家庭を両立しながら成海にとっての最善を模索し続けた。
私と美海は何もできなかったけれど、側で寄り添うことぐらいはできたから…成海の側にできるだけいるように心がけた。
硝子細工を成海と一緒に始めたのだってそう。
興味なんて微塵もなかった。
どちらかといえば、嫌いだった。
私達を見てくれないお母さんが、唯一見ていたものだから。
大嫌いなお母さんが、好き好んでいたものだから。
けれど、硝子細工に打ち込んでいるときのあの子は、昔の様に眩く笑っていた。
熱があの子の心を溶かし、傷を埋め立ててくれる。
あの子の心を癒やすためには、これが最適だとわかっていたから…。
“一緒”にすることを選んだのだ。
それから小学校を卒業して、中学校へ。
保健室登校は終わったけれど、体育や学校行事に参加できない制限は続いた。
この辺りになってから、成海は人に迷惑をかけないように振る舞うことを意識し始めた。
少なくとも成績面で心配はさせないように、勉強に打ち込んだ。
県内有数の進学校の推薦だって取れた。無遅刻無欠席だけでも取れたことに衝撃を覚えたが、勉強に打ち込みたい者だけが集まる…そんな高校だったからこそ、取れたのかもしれない。
せっかくだ。こんな進学校に同じ中学から進学できるのは陸ぐらいだろう。
新しい環境でやってみないか?お父さんも私もそう提案したけれど、成海は「近くがいい」の一点張りで、浜波商業高校への進学を決めた。
私と一緒の理由で進路を決めないで欲しかった。
けれど、成海が決めたのなら、私はその背を押すしかなかった。
そうして、あの子は私の後輩として浜波商業高校へと入学を果たした。
幸いにして、浜波商業の校長はお父さんの同級生。
話はスムーズに通ってくれた。
入学以降も心配で、理由をつけては何度も教室を覗きに行った。
適当に理由をつけて、登校だけは一緒にした。
下校だけは、先約がいたから無理だったけどね。
だけど、貴方のおかげで変われたのよ。
周囲と距離を取って、作品は自分ではなくお母さんの影追いだった成海に、自分を提示してくれて…ありがとうね。新菜ちゃん。
でも、変われたのは成海だけ。
新菜ちゃんが現れて、理解を示してくれる友達…足立さん、吹上さん、森園君と関わるようになって…成海はたくさん変わることができた。
私?私は残念ながら、過保護な姉をまだまだやめられそうにないの。
あの子に手を差し伸べてくれた貴方達にそれぞれお礼を言いに行きたいからここに来たっていったら、気持ち悪いでしょう?
弟に怒られても進路を変えて、あの子の作品を大衆に届ける仕事をしようと…進路を定めたのだって、普通から見たらおかしいとしか思えないわ。
過保護を通り過ぎた愛情。それは親心?姉弟愛?
新菜ちゃんが抱いているそれとは絶対に違うと断言はできる。流石にそれはあり得ない。弟を男としては見られない。
それに、成海が新菜ちゃんと仲良くしていても嫉妬なんてしないもの。
その代わり、自分の手から離れてしまった寂しさは感じてしまうけれど…これはここだけの話にしておいて頂戴。
あの子が自分の人生を定めても、私が私の人生を定めても…一緒に働く道は途切れない。
途切れないようにしなければならない。
私は楠原一海。あの子のお姉ちゃん。
お姉ちゃんとして出来ることは、もう全て終わっているけれど…最後にもう一つだけ。
その名の通り—————海より大きな偉業を成し遂げる瞬間を。
どうか側で見させて頂戴———。




