17:それぞれの夜
二月十三日の夜。
甘い香りがリビングの中に立ちこんだ。
明日の準備を、今日のうちに済ませておく為だ。
「成海、夜にお菓子作るのやめなさいよ。太るから」
「匂いで太るなんて冗談だろ。室橋先輩の小説で読んだのか?」
「…フィクションに影響されたりとかしないし」
「素直に食べたくなるって言えばいいのに。もしゃもしゃ」
「そうだぞ一海。我慢は逆にストレスだ。食べたいなら…んぐ。食べちゃいな。もぐもぐ」
準備をいくら済ませても、完成した品の一部は父さんと美海に捕食される。
…姉さんほど過敏になれとは言わないが、太るぞこいつら。
「父さんも美海も、晩ご飯食べた後によく食べられるわね。成海、小さいの頂戴」
「そういうと思って、豆乳で作った焼き菓子を少々。試作品だから、美味くできているかはわからないけれど」
「…できる弟は好きよ。でもなんで?」
「体重を気にする彼女と姉にも、お菓子を楽しんで欲しい心遣い」
「全く…ん。甘さ控えめだけど、美味しいわ」
「よかった」
「お兄ちゃん、私にも頂戴頂戴」
「美海は食べ過ぎだぞ。卒業式用に出した服、着られなくなっていいのか?」
「その時は私に合わせたものを買って貰うまでよ」
「家計に優しくないな…」
「あ、でもね。可愛いから、お姉ちゃんのお下がりを着たいのは本当だよ。でも体格違うからさぁ〜。どうかわかんないじゃん」
「だったらお菓子控えるとか、多少の努力ぐらいしなさいよ…」
「お兄ちゃんのお菓子が美味しいから無理でーす」
「美海も作れるものばかりだぞ」
「…じゃあ私も作ろっかな。料理は嫌だけど」
「「大して変わらないだろ」」
でもまあ、少しでも美海のやる気が出てきてくれたことに喜ぶべきか。
「いやぁ。成海のお菓子美味しいなぁ…硝子工房を存続できなかったら、お菓子工房に鞍替えするのもアリだな」
「あ、それアリかも。お父さん天才じゃん」
「「父さんが持ち出す話は倒産。縁起でもないな…」」
「お兄ちゃんもお姉ちゃんもダジャレのつもりか知らないけど全然美味くないし寒…あ、ちょ、お兄ちゃん。お皿下げないで」
「一海さんや、それ俺に食べさし…強奪しないで…」
「「二人揃って口が軽すぎる。そんな口に甘やかしはしない!」」
「「そんなぁ!?」」
悲痛な声を上げる美海と父さんを背に、僕は菓子の量産を、姉さんは台所に近寄らせないように門番的な事をして過ごす。
今晩も、楠原家は賑やかだ。
「成海、スマホ鳴ってる」
「誰だろ…あ、若葉さんだ」
「クラスメイト?」
「友達」
「いつから?」
「新菜と一緒にいたから…五月」
「…あの調理実習も一緒だったの?」
「一緒だったけど」
「…そ」
新菜以外の女子ともこうしてメッセージを取り合っているのかとからかわれるかと思ったら、案外そうではないらしい。
嬉しそうに口元を緩ませた姉さんは、何かを思い出したように僕の方へ振り返る。
その時には、表情は普段通り。
「友達、大事にしなさいよ」
「そのつもりだけど….?」
姉さんから手渡されたスマホの通知には若葉さんからのメッセージが表示されている。
家の電子レンジの写真付きだ。
◇◇
このレンジでオーブン機能が使えるのは分かったけど、予熱ってどうするの?
成海にメッセージを送り、助けを求める。
メッセージを送ったのはついさっきだけど、返信はとっても早かった。
『黒皿を入れた状態でオーブンのボタンを押したら、温度が設定できないか?』
言われた通りに黒皿を入れ、オーブンのボタンを押す。
でも、成海の言うとおり温度の設定なんて出てこない。
ずっと、百の表示が出たまま。やっぱりこれ、エラーか何かじゃ…。
「百の表示が点滅してるだけだけど…温度調整って」
『矢印矢印』
「あ、そっか」
オーブンのボタンの下にある矢印ボタンを押して、表示を変えていく。
楠原家で試作品を作ったときと同じ温度に設定すると、電子レンジの中が光り出す。
「無事に予熱開始したっぽ」
『指定温度になれば、完成した時みたいに音で知らせてくれるから。その後、生地を入れて時間をセットしたら問題ないよ』
「助かる」
『いえいえ。そっちは順調?』
「問題なく。強いて言うなら、弟共が」
『そっちも大変だな。うちは妹だけじゃなくて、父さんまでついてきている』
「大変そ〜」
お父さんがいたら、そんな感じだったのかな。
うちのお父さんは、弟二人が産まれた直後ぐらいに死んでいる。
事故だったらしい。
それからお母さんは女手一つで私達を育ててくれている。
だけど時々、こうして夜、家に帰らなかったりする。
仕事は昼のみ。夜の仕事は一切無い。
…彼氏がいるとは言っていたし、そういうことなのだろうと最近は理解している。
弟達も私も、もうお母さんがいなくて寂しいとかそういう気持ちは無い。
だけど、気になることは順調に増えている。
例えば、好きな人が出来たら…私もお母さんみたいに、ずっと好きな人に寄り添っていたいとか思うのだろうか、とか。
幸いにして、ずっと側にいたいとは思わなかったけど…好きになったと自覚した時点で、誰かに取られたくない気持ちは芽生えている。
『わーかば。一人か?一人っぽいな。ま、二年三年ばっかだし、仕方無いか。ほら、俺の仕事手伝いに来てくれよ。力仕事だけど、気まずいよりはマシだろ?』
『また飯一人で食ってんのかよ…。一人で食うぐらいなら俺のところ来いよ…。え、いなかったから一人で食べてた?それはすまん。次はもっと早く来る』
『若葉〜。鬼から「宿題どうなってんだ」って電話来てるから、ついでにわからないところ教えて貰おうぜ〜。別に巻き込んでるわけじゃないからな〜』
『仕事は大変だっただろうけど、俺は若葉と夏休み過ごせて楽しかったぞ。また、来年も頼みたいぐらいだ』
先輩だらけで気まずさを覚えていた私の手を引いて、バイト生活に色をつけ、ずっと気にかけてくれていた渉。
また頼みたい。体裁でも…言われた言葉は忘れられないし、鵜呑みにしてしまう。
『若葉。ちょっと頼み、あるんだけど』
『何さ、改まって。渉らしくもない』
『あー…いや、いつも帰ってる船、減便して。バス通学に切り替えたわけね。で、最寄りのターミナルまで行くの、七時に出るバスで。それまで、時間つぶしに付き合ってくれないかと…』
『それなら、新菜と成海と一緒に…』
『流石にあの二人の間に挟まるのは悪いだろ』
『それもそっか。じゃ、どこ行く?』
『若葉が、好きなところとか?』
『ゲーセンとか期待されてる…?あんまお金ないし、趣味ってあんま無いんだよね。黙って公園の鳩眺めてる程度』
『じゃあそれでいい。バス来るまで鳩見てようぜ』
『それでいいの!?』
お金がないから、鳩眺めるだけだなんて変な事にも付き合ってくれる変わった人。
森園渉は普通に優しい人間なんだと思う。
成り行きで関わった成海の一件だって「ご飯食べるんで巻き込まれます」とか言ってくる奴だし。
「…ただの友達程度なら、残念だけど」
少しは期待しているから、こうして挑むんだ。
温度は上等。後はこれを焼き上げるだけ。
焦げ付かないように、じっくりと。
◇◇
一方、遠野家。
袋詰めまで終え、明日の準備を整えた私は冷蔵庫の前で一息吐く。
そんな私の背後に、お父さんが立った。
何か、言いたいことがある様子だ。
「新菜」
「なぁに。お父さん」
「明日は、バレンタインだな…」
「そうだね」
「成海君に渡すお菓子を、作っているのかな」
「そうだよ?」
「そうか…」
「ダメよ、お父さん。邪魔したら…」
「あ、いや。邪魔というわけではないのだが…」
「勿論、お父さんとお母さんの分もあるよ〜?」
「あら。嬉しいわ。仕事に行く前に頂くわね」
「…僕もそれは嬉しいよ。後、これ!」
お父さんが差し出したのは、高級店のチョコレート。
ブルイヤール・ネージュ…毎日行列が出来て、なかなか買えないと噂の代物だ。
もしかして私の———。
「それ、成海君に…僕からだと」
「え」
「いっぱいお食べと…。後、出来たら文通して欲しいなとも…」
「う、うん…わかったけど、文通はやめようよ。お父さんちょっとキモい」
「そうか?」
「メッセのアカウント教える程度にしておくから…」
…しかしまあ、なんだ。
このチョコ、娘の分じゃないの?
まあいいや。お父さんも成海君と接点を持ちたいということだと思いたいし。
とりあえず、受け取っておくし、渡しもする。
その後、お父さんは笑顔のお母さんから部屋に連れて行かれた。
いつもの流れなら、多分お説教を受けている頃だと思う。
そうだよね。娘に渡すならともかく、娘の彼氏に自分が買ってきたチョコ渡させるとかおかしいにも程があるもんね。
お父さん、何考えているんだか…。




