46:遠野家と楠原家
あれからしばらくして、完全に目が覚めた僕は、新菜に連れられ、洗面台で顔を洗っていた。
冷たい水が意識を律する。
自分自身、朝が非常に弱いことは自覚していた。
姉さんからも「寝ぼけている時間が長い」と小言を食らうぐらいには、長いらしい。
そんな僕が今日、やらかしたのは…彼女の胸へ顔を埋めようとしたこと。
なんならもう埋まっていた。
「…ごめん、新菜」
「いいからいいから…。朝、弱いの?」
「そんなところ…」
濡れた顔をタオルで拭こうとすると、新菜がさりげなく顔にタオルを当てて拭ってくれる。
「低血圧、とか?」
「原因を探ったことはなくてさ…」
「あぁ…なるほど。対策はどんな感じ?」
「行動する一時間前に起きる、かな。一時間もしたら、普段通りになるから…」
「確かに、今日も大体一時間だね。大変だねぇ」
「慣れたら割とどうにか。早起きしてる気分にもなるし」
「意識は起きていないけど?」
「そんなところ」
それから部屋に戻り、寝間着から普段着へ。
荷物を一式持ってきていた新菜を先に着替えさせ、その後に僕が着替えを行う。
新菜は戻る服が制服しかないので制服を着用していたが…。
「足、出してるの…凄く寒そう」
「事実寒いよ…」
「姉さんにズボン貸して貰えるように言おうか?」
「そうしようかなぁ…あ、でも…お母さん達、着替え持って来てくれるらしいから。それまで我慢しようかな」
「無理はしないように」
「ありがと」
「…カーディガン、着とく?」
「お言葉に甘えようかな」
部屋着のカーディガンを手渡し、彼女に羽織って貰う。
セーターにカーディガンと不格好だが、寒さを感じるよりはマシだ。
「ふへへ…」
「どうした?」
「彼シャツの前に、彼カーディガンだと思いまして〜」
「…ぶかぶかでよければ、いつでも貸しますが?」
「ぶかぶかだからいいんです。ね、朝ご飯、何作ろっか」
「…簡単なのにしようかな。ご飯は昨日仕掛けたし、味噌汁作って…残りのひじきと切り干し大根、ほうれん草の白和えも使ってしまおうか」
「…味噌汁作ってる時点で、簡単のハードルを破壊してるよ、成海君」
「…そうか?」
「ホント、料理上手だよね。お母さん」
「僕は新菜のお母さんじゃない」
「知ってる知ってる。彼氏さんですもんね〜」
「…わかってるだろ」
「ん。あ、今日ねお母さんも来てくれるんだ。後で紹介させて」
ああ…麻紀さんも来られるんだ。メッセージや電話では何回もやりとりさせて貰っているけれど、お会いするのは初めてだからな。ちゃんと挨拶を…。
ふと、新菜の言葉を振り返る。
彼女は今、奇妙な接続詞を使わなかったか?
「…「も」?」
「うん。お父さんも来てくれるの。珍しく二人とも休みみたいで…」
…新菜の、お父さん。
連絡すらやりとりをしたことがない、彼女のお父さんとの対面する時は、いつの間に用意をされていたらしい。
「おはよう、父さん、姉さん、美海」
「おはよう成海。今日は…あれ、なんで台所に」
「はよ。なんで台所直行してんの?軽く食べると思って、いつも通りミカン剝いておいたのに」
「ごめん今日はいいやありがとう」
リビングに入り、待っていた三人におはようを告げながら台所へ。
新菜と二人並んで、朝ご飯の準備に早速取りかかる。
「お父さんの事、気になる?そこまで緊張しなくていいんだよ?」
「でも、やっぱり、父親目線で「娘の彼氏」ってどう思われるのか…」
「俺はなんとも思わないぞ、息子の彼女」
「じゃあ姉さんが彼氏連れてきたらどう思う」
「許さん。家に現れたら一発殴る」
「ほらみろ」
「室橋君を連れてきたら庭に埋める」
「浩樹だけ専用コース用意されているのね…私が見ていないところで何やらかしてくれてくれているのよ…」
姉さんがご飯をよそい、完成した味噌汁を僕がそれぞれの器の中に。
その間、新菜は冷蔵庫の中から余り物を出して食卓へ運んでくれる。
「てかさ、お客様に働かせたらダメでしょ」
「一宿一飯の恩義みたいな感じなので、気にしないで」
「新菜ちゃんの厚意に甘えようと思う…」
「新菜さんありがとう。お兄ちゃんホントいい人と付き合えたよね。なんで?」
「成海君が誠実でいい人だからかな」
「新菜…っ!」
そういうのは、家族の前で言わないで欲しい。
照れくさい空気を感じ取ったのか、姉さんと目があう。
「仕方が無いわね」と言うように目を伏せた後…姉さんが空気を変える為、話題を切り替えてくれる。
…助かるよ、姉さん。
「んなことより、厚意に甘えるな!お父さんは風呂掃除。美海は後で洗濯物ね。全員休みなんだから、普段は私と成海が分担してる家事、全員でやるわよ!」
「「う゛ぇー」」
美海と父さんがそれぞれ汚い声を上げる。
…本当にさ、新菜の前でそんなことするのやめてくれないか。
楠原家全員こんな感じだと思われるのは適わない。
しかし、新菜は隣で小さく笑うだけ。
こんな羞恥だらけの家庭環境、どこが面白いんだ…。
「てかさ、お兄ちゃん、なんで私に彼氏ができる前提の話しないの?」
「まだ男の子を遊んでいる美海には遠いと思うから」
「ふーんだ。私だっていけいけ彼氏、将来作っちゃうもんね」
「イケイケとか死語でしょ。どこで覚えてきたのよ」
「どこの馬の骨だ。ぶっ殺す」
「美海、彼氏とか早いから…大人になってからにしなさい」
「お父さん、口を塞ぐわよ。過激な事言わないで」
「成海君、まるでお母さんだよ…」
賑やかな食卓。少ないけれど朝ご飯を並べ、談笑を続けながら食事を摂る。
ご飯を終えたら、それぞれが分担した家事に取りかかる。
「成海君、台拭き終わったよ」
「ありがとう。ごめんね、手伝わせて」
「ううん。なんか、家事をこうして分担して取り組むの、家族の一員って感じで楽しいなって」
「そんなもの?」
「うちでは、こんな風に分担とかしないし…いる人がそれぞれするみたいな感じだからさ」
家庭環境が違えば、こんなことも楽しく思えるのか。
こう、些細な事を楽しめるのは…新菜の良いところだと思う。
…そういう僕の「当たり前」は、彼女にとって「憧れ」だったりするのだろうか。
…それを、贈ることができたらな。
将来に繋がる気持ちの芽生えを感じた朝九時。
楠原硝子工房の駐車場に、車がやってきた。
自宅の方に回った来客者二人は、楠原家のインターホンを鳴らす。
「ごめん、新菜。お客様…誰か見てくれる?もしかしたら」
「うちの両親かもね。待っていて」
新菜にモニターを見て貰う。
『遠野と申します。娘を迎えに伺いました』
「お父さんとお母さんだ。出迎えてくるね」
「ああ。よろしく頼む。ああ、新菜」
「なぁに?」
「外、冷えているし…今から私服に着替えるんだろう?リビングに通して、待って貰うようにしよう。着替えは…美海の部屋がいいかも。自分で暖房消さないからいつもつけっぱなしなんだ」
「了解。後で美海ちゃんに確認とるね。ありがとう、成海君」
「これぐらいは」
玄関先に向かった新菜を見送り、僕は棚からお茶の準備をする。
その時の僕は気がつかない。
モニター越しに玄関へ伝わった声があった事。
それを聞いた麻紀さんは微笑みを浮かべていたが…その隣に立つ新菜のお父さんが凄い形相をしていた事に。




