名は体を表す、名を捨てよ
友人Mに捧ぐ
「名は体を表す」
名は何にも変え難い貴重なものだ。名付けることは命を吹き込むことと同義である。名はいつも遅れてやってくる。先行するは得体の知れないもの。それに際して名前を付ける、見つける、貼り付ける、掘り出す、引っ張り出す。どんな仕方でも構わないが、兎に角手当たり次第に試して行くのだ。ブリコラージュ。しっくり来ないのならばしっくりくるまで。鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。寝ぼけた文字、間に合わせの単語、継ぎ接ぎの文節、突貫工事の文脈。有り合わせのもので何とかするしかないのだ。今のところ。
正確に言えばこんなスマートな仕方ではない。もっとカオスで、もっと不確かなものだ。一寸先も見えない暗闇で箱根越え。そして、名前を付け終わった後に気づくのだ。ああ、この感触が。これが名前を付けるということか。何とも言えない感覚。さっぱりとしていて、尚且つほのかに後ろ暗いあの後味。砂浜にこぼしたブルーハワイ。七日目の蝉。襖の奥のツル。引っこ抜けた大きなカブ。ここにテレパシーがあったならなぁ。これほど切望するのも珍しいが、この瞬間ぐらいはあっても困らないものだ。名は美しいといつでも手放しに賞賛できるほど敬意を払っている訳ではないが、風鈴の音色があぜ道を伝い駅に届く間くらいは浸っていたいものだ。
「名を捨てよ」
それでもなお名は捨てねばならん。ならんと言ったらならんのだ。握手、戴冠の儀、砂漠、独楽回し、冷蔵庫、飛脚、水車小屋。どこまで行ってもついて回るというのに?故に。そうであるが故に。我々は反抗するしかないのだ。江戸の大火にむくいんがために。崩れた木々は、散乱する灰は今か今かと待ち望んでいる。花という花が咲いてる。落ちた花びらをひとつひとつ丁寧にかき集めたら水に浮かべよう。小さな通り雨に一泡吹かせられるだろうか。終極の語彙。止まることは踊ること。忘れることは悼むこと。眠れぬことは歌うこと。名を。相応しい名を捧げよう。仄暗い日々に。土砂降りの雨に。轟々と燃え盛る大火に。一回きりの祝祭日に。