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今井教授の研究室を退出して、車に乗り込んだ荒井が今井教授と会ったことによって分かったことと言えば、阿部が城南大学の工学部に在籍していたこととナノテクノジーとやらで、物の性質を変化させる研究をしていたことくらいであった。その研究内容について、専門の今井教授が切々と説明してくれたものの、物理学については高校生の頃から不得意としている荒井には殆ど理解が覚束ない状態であった。仮に、荒井が理解できていたとしても今回の射殺事件との繋がりが見え来てないというのは正直なところである。
荒井の勤務形態が夜勤となるまでの間、城南大学を訪れて卒業名簿に阿部正一郎の名前を見付けることは大して時間の掛かるものではなかったし、阿部が城南大学を卒業後に防衛機器研究所へ就職していることまで調べることができた。ただし、判明したことだけで射殺事件の全容を窺い知るまでには至っておらず、更に加賀の容態にも変化がなく、以前として意識不明で昏睡状態が続いているようであり面会謝絶のままであった。
夜勤にシフトした荒井は、日中の時間を自由に使える状態となったが勤務時間に寝不足等で支障を及ぼすわけにもいかず、射殺事件の調査は一時休止のような状態となってしまった。
そんな状態のある夜、出動要請もなくデスクワークをしている荒井が、書類作成のために資料を作ろうと赤のボールペンを取り出して、資料に赤線を記入していると誤って関係のない箇所へ赤いラインを記入してしまった。
「チッ、間違っちまった」
眠い目を擦りながら、机の引出しから修正ペンを取り出そうと引出しの中にある修正ペンに手を掛けた瞬間
「そう言えば、このボールペンは消せるタイプだから修正ペンで消す必要がなかったな」
苦笑いを浮かべながら、ボールペンのペン先とは反対側に付いている半透明の白いキャップで、間違えた赤いラインを擦り始めると先程まで赤いラインが書かれていた箇所は徐々に消えていき、すっかりと赤いラインが消えた後は綺麗に元の状態へと戻っている。
「俺が警察官になった頃は修正液か砂消しゴムしかなくて、修正液だと余計な箇所に垂らしてしまって消す必要がない所まで消してしまったり、砂消しを使うと消した所の紙が毛羽だって周囲の文字が薄くなってしまったもんだけど、今じゃプラスチックのキャップで擦るだけで綺麗に消えちまう。こんなに綺麗に消える原理も物理学なんだろうなぁ」
そこまで言い終えた荒井の表情が徐々に鋭さを増してきた。事務机の一番広い引出しを開けると、一番手前の左側に黒いメモリーカードが1枚置かれている。これは、署長室で証拠物件を全て防衛省へ引き渡した際に鑑識主任が隠していた現場写真のデータが記録されているメモリーカードで、この不可解な事件を調べるつもりと語った荒井へ餞別代りにと託された物だ。
そのメモリーカードを取り出して、今使っている荒井のパソコンの脇にあるスロットへメモリーカードを差し込むと、パソコン画面からエクスプローラーを開いて左側に表示されているメモリーカードをタップする。
パソコン画面には、あの時の現場の風景や遺体の部分接写等が数多く写されている。それらの画像を次々と眺めている荒井の脳裏に、ある事が浮かび上がってきた。その考えは、ある意味では荒唐無稽であり飛躍の度が激しいかもしれないが、その考えが仮に当たっているとすれば、この奇妙な事件に対して納得のできる説明が付くように思えて仕方ない。
しかし、高校時代から物理学を苦手としている荒井には、その考えというか発想が現実的であるのかまでを判断することができないでいる。そこで、改めて今井教授の元を訪れて専門家の見解を聞いてみたいと切に考えていた。
荒井は、勤務シフトが日勤に変わるまでの間を悶々とした思いで過ごしていた。共に事件を調べ始めた新聞記者の加賀は、今もベッドの上で意識が戻らず安静状態となったままで回復が望める進展が見込めないのだが、担当医師の話では命の危険だけは回避できそうな状況であると聞いている。ただし、加賀が意識を回復させたとしても最悪の可能性として記憶障害が残り、場合によっては記憶喪失といったケースが懸念されるとの事でもあった。だが、荒井としては加賀が記憶喪失となったとしても加賀が記憶喪失となった原因とも言える事件の真相を教えてやりたいと思っている。確かに、事件の調査に乗り出した加賀に気を付けて行動するように忠告を与えていたが、調査対象が強大な存在で冷徹な意思を持っているとすれば、一般民間人である新聞記者の加賀が標的とされた場合には、その魔の手から逃れることは至難なことであるとも言える。
なればこそ、加賀が意識を回復した暁には事実を知って欲しいし、彼には知る権利があると荒井には思えて仕方ないのだが、それを加賀が記事にするのは、また別の問題ではあるのだが・・・。
荒井の勤務シフトが日勤に変更となりはしたが、簡単に今井教授と会うためのアポイントを取る事は容易でなかった。元々、専門分野においては日本国内のみならず世界的にも一流の頭脳であり、単なる一介の地方公務員である警察官が簡単にアポイントを取れるわけがない。しかしながら、前回のようにダメ元といった軽い気持ちで取り組んでいるのではなく、自らの中に浮かんだ想像が正解なのかを確かめたい一心であることと、それによって不可解な事件の核心に迫れるかもしれないという期待を秘めて諦めることなくアポイントを取るための電話を掛け続けていた。
荒井が数十回以上もの電話を掛け続けた事で、大学の事務職員も荒井の熱意というか荒井の事を哀れに思われたのかは不明だが、再び今井教授と面会する機会を得ることができた。
今井教授の研究室で、再び面会する荒井は
「お久しぶりです。前回は、いや今回も大変お忙しいなかで、お時間を頂きありがとうございます」
深々と頭を下げる荒井に対して
「いやいや、どうか表を上げてください。しかし、荒井さんは随分と熱心なんですねぇ」
決して嫌味のある言い方ではなく、半ば関心している風の教授の言葉に
「熱心だなどと、今井先生から言われると恥ずかしい限りですが、先生のお知恵をお借りして事件の真実を知りたいと思っているだけの話です」
荒井は、半分は照れながらも本音を伝えると
「いや、その真実を知りたいという気持ちが大事なんですよ。僕等だって、色々な事柄について深く知りたり、地球上のあらゆる事象の真実が知りたくて研究をしているのですからねぇ。で、本日は何を知りたくて私の所へ来られました?」
「先生に、そう言って頂くと助かりますが、今日も前回の続きと言いますか。半分以上は、私の想像と言うか妄想のような話なのですが」
「ほう、それで荒井さんは、どの様な妄想に取り憑かれましたましたか?」
今井教授の表情は、教えを乞う弟子に向けられる師匠のような柔和な顔で荒井を見詰める。
「私の話し方が、先生に上手く伝われば良いのですが、阿部正一郎という城南大学に在籍していた学生が、ナノテクノロジーで物質の特性を変化させる事を研究していたとのお話しを伺いましたが、その阿部は大学を卒業後に防衛機器研究所という防衛省の外郭団体に就職していたのです。そして就職後も学生時代の研究を継続して一定の成果を上げたとして弾丸の素材となる物質を開発し、その素材は弾丸にできるくらいですから一定程度以上の硬度を持ち、銃器から発射された後には風の影響を受け難くするために相当程度の重さが必要になります。しかし、その素材を使った弾丸が、ガラスやコンクリート等の固さがある物と衝突した際には、その衝撃で固かった弾丸が、柔らかい物質に、例えばゲル状と言えばよろしいのでしょうか?そのような特性に変化して弾けるといったような事は理論上可能なのでしょうか?」
荒井が勢い良く説明するのを柔和な表情で聞いていた今井教授は
「なるほど、確かに荒井さんが仰ったことは阿部君の研究を継続していれば実現不可能な事ではないと思いますよ。流石に、一塊になった弾丸のマテリアルを特性変化でもって弾けさせるのは難しいとは思いますが、弾丸のコア部分に火薬を挿入しておき、その外側の金属が特性変化を起こす際に発熱させるようにすれば、その高温で火薬が起爆させられる温度帯まで引き上げらればば不可能な話ではないと思いますねぇ」
今井教授の言葉を聞いた荒井は、自らの頭に浮かんだ想像が間違いではなかったという思いで興奮気味であったが
「ところで、荒井さん。貴方の話を伺っていると阿部君は、そのようなマテリアルの開発に成功したんですか?そして、そのことが事件と繋がってしまったのでしょか?いや、だいぶ立ち入った事かもしれませんが」
今井教授の表情は、いつの間にか悲しげなものに変わっていた。確かに、自らの専門分野の研究が弾丸という殺人のための道具に利用され、仮に事件を起こしているのであれば決して嬉しい事ではない。
荒井は、姿勢を正すと
「先生に色々とご教授頂きましたので申し上げますが、今から申し上げる事については他言無用として頂けすでしょうか?」
「お話しの内容から察するに、そうでしょうね」
今井教授の表情からは、先程までの柔和なものや悲しげなものは消え去り真剣なものに変わっていたのを感じた荒井は
「実を言いますと、先生に伺っていた阿部正一郎は、暫く前に射殺された遺体となって発見されました。しかし、その遺体は先程伺ったような事がなければ、あり得ない損傷を受けていたのです。簡単に説明すると、遺体はマンションの部屋の窓ガラス付近に横たわっていたのですが、窓のガラスには弾丸が貫通したと思われる孔が1つなのですが、阿部の遺体は散弾銃で撃たれたように無数の弾丸を浴びたような状態で即死だったと思われるのです」
荒井は、小声で今井教授に説明すると
「成る程、そういう事だったんですねぇ。まったく、痛ましい事です」
「ええ」
今井教授と荒井が居る研究室の空気が重くなる雰囲気のなかで、今井教授は続け様に
「今、思うと阿部君は本学の学生ではありませんでしたから、私も差し出がましく忠告できなかったのですが、あの頃から阿部君には強い功名心があって純粋に学問を突き詰めるというよりは、この技術を確立して一攫千金を狙うような雰囲気がありました。だから、研究者たるもの純粋に科学と向き合わないと、何かの弾みに科学に足元を掬われるよと忠告してあげた事があったのですが」
専門分野を探求する研究者として忸怩たる思いが発露したような今井教授の言葉を聞いた荒井は
「そうでしたか。阿部も先生の言葉を真正面から受け止めていれば、あんな目に合わなくても済んだんでしょうね」
荒井も、若気の至りで功名心に取り付かれるのを決して悪い事だと言う気はないが、人生の先達者からの忠告を聞く耳を持たずに突き進んでしまえば、何時かは階段を踏み外して人生を棒に振る若者を多く見てきただけに教授の言葉の重みに理解できる部分が多かった。
今回も今井教授との面会時間は1時間という約束であった。しかし、その時間も気が付けば時間切れとなってしまったので、荒井は今井教授に礼を述べると教授の研究室を退出した。
今井教授の研究室から警察署へ戻り、その日は大した事件もなく退庁時間を迎えた荒井が、帰宅の途に着くと再び背後に尾行の影を感じていた。特に、今日は今井教授との面会によって荒井が抱いている想像が概ね間違ってはいないだろうとの思いもあったためか、執拗に付き纏う尾行に対して苛立ちを感じていた。
そのため、夕闇が濃くなり薄暗く人の往来が少ない路地に差し掛かった荒井は、背後の尾行が着けているのを確かめたうえで突然、何時もとは違う狭い脇道へ走り出した。脇道に荒井が入り込むと直ぐに右腰のベルトに吊るしている黒い革製のホルスターから三段式の特殊警棒を右手に握って取り出すと、右手首のスナップを使って特殊警棒を伸ばして近くの物陰に身を隠した。
尾行者の革靴が走っている音が聞こえ、狭い脇道まで来たと思われると、荒井の姿が見えなくなっていることに気付くと尾行者は
「チッ、見失ったか。何処に消えたんだ?」
小声で罵るように独り言を呟きながら、数十歩を小走りしながら脇道に入り込むと荒井が身を隠している所を通り過ぎて行く。尾行者が目の前を通り過ぎるを待っていた荒井が立ち上がって尾行者の背後から
「警官の俺に何の御用かな?少なくとも尾行される謂れはないが」
冷静さを装い荒井が声を掛けると、声を掛けられた尾行者は一瞬身体をビクッとさせて荒井の方へ振り向くと
「別に、あんたを尾行していたわけでは・・・」
抑揚のない小声で答えながら、左手がジャケットの左腰の辺りへ伸びているのが荒井には見て取れた。その尾行者の左手には、米国の制服警察官が所持しているようなテーザー銃が握られているのが目視できた荒井は、何ら躊躇することなく右手に握った特殊警棒で尾行者の左手首を目掛けて振り落とす。
剣道の有段者である荒井の一撃は、鋭く尾行者の左手首に命中すると尾行者が手にしていたテーザー銃が地面に叩き落とされ、荒井が多少の手加減を加えて叩き込んだ小手であったが、尾行者には相当の打撃だったようで右手で左手首を押さえながら痛みに耐えているようであった。地面に落とされたテーザー銃を左手で拾い上げた荒井が
「俺の尾行をしていないと言いながら、こんな玩具を向けてくるとは穏やかじゃねぇな。それに、善良なる一般市民が持ち歩くような代物でもねぇし、こりゃテーザー銃じゃねぇのか?」
尾行者への視線を外すことなく荒井が問い掛けると
「確かに、それはテーザー銃だ。俺は防衛省の者で、あんたを尾行していた事は認めるよ」
それを耳にした荒井が
「それじゃ、俺を尾行した目的などをじっくりと聞かせてもらうか」
荒井は蹲っている尾行者を見下ろすように立ったままで声を掛ける。