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川崎新報の新聞記者である加賀智は、事件担当として5年以上は県警記者クラブに在籍しているが、今朝方に飛び込んできた射殺事件についての第一報が県警広報課から記者クラブに入ってこない事に違和感を覚えていた。
加賀のネットワークでは、昼前には現場検証が終っており通常ならば捜査本部が立ち上がりそうな気配がするものであるが、県警内は至って静かなままである。更に、顔馴染みとなっている広報室の婦人警官に聞いてみても「担当部署から、そのような情報が入っておりませんよ」という木で鼻をくくったような通り一遍の答えしか返ってこない。本来ならば、銃器を使用した射殺遺体が発見されているのだから、県警本部内でも大騒ぎの状態になる筈である。
翌日の朝刊に記事を間に合わせるのであれば、そろそろ県警の広報室からの情報が提供されなければ間に合わないので、加賀は独自取材を行おうと事件のあった所轄の警察署へ行ってみることにした。
警察署の駐車場に新聞社の車を停めて、署内の受付に向かった加賀は新聞社の身分証を受付の警察官に示しながら
「あの、川崎新報の加賀といいますが、こちらの署で捜査本部等が立ち上がっておりませんか?」
と問い掛けるが
「はぁ、うちの署では捜査本部が立ち上がったようなことはありませんよ。その情報は、何処からお知りなりましたか?」
受付の警察官は、少々不審そうな表情で加賀を見ながら逆に問い掛けてきた。
「ああ、そうですか。それじゃ、ガセネタだったのかなぁ」
加賀は右手で後頭部を掻きながら、受付の警察官の前で恍けてみせた。
「そうですね。何処からお聞きになったのか知りませんが、そのような事実はありませんので、お疲れ様です」
受付の警察官は、内心で「ガセネタに振り回される可哀そうな新聞記者」のように感じたのか、半ば憐れむような表情で加賀を見ながら話す。
確かに、捜査本部が立ち上がっているのであれば目に見えることはないものの、一種の緊張感が署内に漂うものであるが、こうして数分間は受付の前にいるが捜査員が慌ただしく出入りしているような光景は一度もない。
仕方がないので加賀は、別の切り口で受付の警察官に
「ところで今日の午前中に、こちらの管内で事件の現場検証が行われたと思いますが、どのような事件だったのでしょう?」
と受付の警察官に問い掛けると
「ああ、その件でしたら悪戯だったようで、特に現場検証等は行われておりませんが」
受付の警察官は事も無げに答えた。
「ああ、悪戯だったんですか」
加賀が言うと
「ええ、だって出動した署員達は、戻ってくるなり一様に首を捻って、一体どうゆう事なんだと言いながら署に戻ってきましたから」
受付の警察官が説明するのを聞いた加賀は
「大変だったですねぇ。それで、その悪戯通報があった住所をよろしければお教え頂けますでしょうか?」
と問い掛けると受付の警察官は丁寧に住所を教えてくれたので、加賀は自らの手帳に書き記す。住所を書き終えた加賀が
「どうも、お世話様でした」
一礼して警察署を引き上げようと正面の玄関口へ向かうと、正面玄関口に荒井警部補の姿を見付けた。加賀は、これまで何度か事件取材で荒井警部補とは顔馴染みになっていたこともあったので
「荒井さん、お久しぶりです」
と荒井警部補に声を掛けると
「おう、久しぶりだな」
荒井も右手を上げて応えた。
「今日は、何かの取材か?」
荒井が加賀に問い掛ける。
「いやぁ、取材という程のことではないんですが、そうだ。荒井さん、ちょっといいですか?」
加賀は、警察署建物の外にある喫煙エリアの方を指差して誘うと
「あぁ、別に構わんよ」
喫煙者である荒井と加賀は、揃って喫煙エリアに向かった。
それぞれが煙草のパッケージを取り出して、1本を口に咥えて100円ライターから火を移して一服吸うと加賀が
「そう言えば、荒井さんも射殺事件の現場に出動されたんですか?何か、悪戯だったという風に聞いていましたが」
何気無さそうを装って荒井に聞くと
「悪戯?お前、それを何処から聞いた?」
怪訝そうな表情で加賀を見詰めながら荒井が尋ねると
「いや、だって受付の警察官が・・・」
加賀が、そこまで言い掛けると
「そうか、じゃ、あまり喋らんほうがいいかもしれねぇが。ここからは、未だオフレコということにして貰えるか?」
沈鬱な表情に変わった荒井が言うので
「ええ、私も掴んでいるのが、今日の午前中にこちらの警察署管内で射殺遺体現場の現場検証が行われたようだといった程度しか知りませんし、これまで荒井さんからは色々と情報を教えて貰った恩義もありますので、荒井さんからOKが出るまで記事とかにはしませんよ」
加賀は駆け引きなしで荒井に伝える。それを聞いた荒井が
「俺も未だ充分に把握できていないんだが、まず射殺遺体現場の現場検証が行われたのは事実だ。少なくとも悪戯なんかじゃない」
その荒井の応えに
「じゃ、何だって悪戯なんて」
という的を得た加賀の質問に
「だから、俺も詳細が分かっていないんだよ。それに、このヤマに関しての捜査権も俺等にはない」
「はぁ?だって、事件現場は荒井さん所の管轄じゃありませんか?」
「確かに、そうだよ。でも、現場検証中に上の方から捜査権が米国国防総省と防衛省に移管されたので捜査中止の命令が出て、更には押収した証拠物件は全て防衛省に移管されてしまったんだよ。よって、俺等には捜査する手段はないという状態だ」
荒井から説明を聞いた加賀は
「どうして、日本の刑事事件に米国国防総省と防衛省が割り込んでくるんですか?」
煙草を吸うのも忘れて荒井を問い詰めるが
「俺等のような現場にいる人間に、そんな細かい説明をしてくれるわけねぇだろう。状況がまるっきり分からずに、ただ上から捜査終結と言われて納得してねぇんだから」
煙草の先で垂れ下がってきた灰を落としながら応える荒井に
「それで、荒井さんはいいんですか?訳も分からずに上からの命令で諦めるんですか?」
加賀が自分で吸っていた煙草を揉み消すと荒井に問い掛ける。
「いいわけねぇだろう。しかし、捜査権がない状況で調べるとしても俺個人の時間を使って地道に調べるしか方法はねぇし、仮に何かが分かったとしても犯人を逮捕できるわけでもねぇ、起訴だってできねぇけどな。だから、最初にオフレコにしてくれって言ったんだ」
荒井も吸っていた煙草を消すと苦笑いを浮かべて言った。
「分かりました。この件は当分の間、オフレコとして俺も独自に調べてみます」
「おう、頼んだぜ。もし、何か分かったら互いに情報交換だからな。まぁ、捜査権がない状況での捜査だから時効はねぇし、気長に調べるしかねぇが」
と荒井は言って右手を上げると署内に戻って行こうとする背後から
「ちょっと、荒井さん。それなら、せめて被害者の名前とか教え下さいよ」
「おう、そうだったな。被害者の名前は阿部正一郎、住所は遺体現場になっているよ。現場の住所は」
と荒井が言い掛けると
「住所だけは、受付の警官から聞いてました。それ以外の情報は無いんですか?」
「だから、言ったろう。捜査中止となってからは一切の捜査はご法度になっているし、証拠物件も詳細な分析をしないうちに防衛省に持って行かれたんだ、これ以上の情報はねぇよ」
荒井がお手上げのポーズをして応えるのを聞いた加賀は、荒井の話に嘘はないと確信して
「分かりました。それじゃ、俺は俺の独自取材ということで調べてみます。もし、何か分かったら、前に伺った携帯番号に電話します」
それだけを言うと、警察署の駐車場へ停めてある車に乗り込んで警察署をあとにした。
荒井の今週の退庁時刻は17時なのだが、夜勤の課員達が出勤してくる16時50分になる頃に、全員が揃った課員に刑事課長から
「全員が集まったので一言だけ話をするが、本日の午前中に現場検証で出動した件については、その捜査権が米国国防総省と防衛省に委譲されたことに伴い、署長からの命令で我々は当該事件についての関わりがない事となった。ついては、この件については一切の他言無用とするので各自、注意するように以上」
と訓示が行われた。これで、この件については完全に箝口令が敷かれたことになる。
それを聞いた荒井は、現場検証の出動については悪戯であったとする話であったり、現場にあった遺体についても鑑識のワゴン車に収容していたのを現場で防衛省の車に移したり、更には押収した証拠物件も全て防衛省に移管する事態となった事実を加味すると、まるで事件そのものを揉み消すような意志が感じられる。仮に、米国国防総省や防衛省が事件を捜査して犯人を突き止めたとしても米軍の軍事法廷等で裁判が行われるだけで日本の司法が犯人を裁くことはないだろう。
実際に、事件現場に警察が出動して事件性があることが明白な状態だったにも関わらず捜査ができない理不尽な状況は、戦後直後に戦勝国である米国の管理下だった頃なら分からなくもないが、すっかり独立国家として法治国家でもある日本において、明らかに異常な事態であると言える。そう考えた荒井は、改めて独自に捜査を行って異常事態の根源を明らかにしたいという思いを確かにした。
課長からの訓示の後、夜勤組に事務の引継ぎを終えた荒井が退庁して帰途につくため、署員専用の出入口へ向かうと背後から声を掛けられた。振り向いてみると目の前には鑑識主任が私服に着替えた姿で歩いてきた。
荒井と鑑識主任は、肩を並べて警察署を出ると鑑識主任が小声で
「おめぇのところも、例の件について課長から訓示があったのか?」
と聞いてきた。
「あぁ、あったよ」
荒井は、気の無さそうな感じで答えると
「でっ、おめぇはどうするつもりだ?」
鑑識主任も荒井の方へ視線を向けることもなく問い掛ける。
「んっ、分からねぇ事を放置しておくのは性に合わねぇからな。少しばかり自分で調べてみるさぁ」
それを聞いた鑑識主任は、着ていたブルゾンの右ポケットに手を突っ込むと
「そんじゃ、おめぇに餞別をやるわぁ」
と言って、右手から1枚の黒いメモリーカードを差し出した。
「これは?」
目を丸くしたような表情の荒井に
「現場検証した時の写真データだ。課長からは、簡易な報告書を防衛省に渡すように言われていたが、データまでは渡せとは言われてなかったからなぁ。これは、オリジナルのデータをコピーした物だよ。どうせ、明日以降に防衛省から写真データも渡せと言ってくるだろうから、オリジナルは俺の机の引き出しに仕舞ってあるが、あめぇが独自に調べるとなれば何もねぇよりはマシだろう」
鑑識主任が苦笑いしながら言って、メモリーカードを荒井に示す。
荒井は、僅かに口元に笑みを浮かべると
「かたじけねぇな」
メモリーカードを受け取った荒井が、右手に持ったメモリーカードを目の前にすると軽くお辞儀をして、自分の着ているコートのポケットに仕舞った。
それから数日後、荒井は手始めに被害者である阿部正一郎の遺体があったマンションの部屋について登記簿等を自前で取り寄せて調べてみると、部屋は阿部の所有でなく賃貸であることが分かった。
荒井は、所有者に連絡を取ってみると賃貸に関しては不動産管理会社に任せているとの回答で、所有者から教えられた不動産管理会社へアポイントを取付け出掛けると担当者に会うことができた。そこで、部屋の借り受けに関する申込書を見せて貰うことができたのだが、賃借人は阿部ではなく「公益財団法人 防衛機器研究所」と記されていた。
このことから、阿部正一郎という被害者は防衛機器研究所の職員ということになるが、荒井は直ぐに防衛機器研究所へ連絡を入れることはせずに、この団体について調べてみたが、この防衛機器研究所は防衛省の外郭団体で、各種防衛機器の調査研究を行っており、特に兵器類の詳細データは防衛省へ提供されているようであった。しかし、その程度の内容はインターネットで検索すれば直ぐに判明するのだが、防衛機器研究所が発刊している書籍の類については一般には一切公表されていないのである。
荒井が、そこまで調べ上げてから改めて防衛機器研究所へ電話を掛けて、阿部のことを尋ねると
「当研究所に、そのような人物は在籍しておりません」
という木で鼻を括ったような回答しか得られなかった。
「しかし、そちらの研究所が賃貸借契約をされているマンションの部屋に、阿部正一郎という方が住まわれていたようですが?」
と荒井も食い下がってみたが
「当研究所が、職員用の社宅として賃貸借契約をしたのは間違いありませんが、その部屋を阿部正一郎という方に使わせている事実はありません」
という回答しか得ることができず、手繰り寄せた糸を切られたような感じで落胆した荒井であったが、在籍さえしていない人物に社宅用の賃貸契約をした部屋を貸し与えること自体は不自然過ぎるので、更に追及するための情報が必要であると思った荒井は、記者の加賀に携帯電話で連絡を取ってみた。
加賀も色々と取材という名目で調べていたようであったが、思った以上に手掛かりが少ないこともあり難航していると嘆いていたが、明日の午後3時に情報交換ということでコーヒーショップで会うこととなった。
加賀とのアポイントを取った夕方、退庁時間となった荒井が私服に着替えて警察署を出ると、確証はないが何者かに尾行されている気配を感じた。刑事である自分が狙われるとすれば、身分証や拳銃といった物を強奪する可能性が考えられるが、身分証は退庁時に事務机の引出しに仕舞っているので身に付けていないし、拳銃に至っては携行許可がない限り警察署の拳銃保管室に仕舞われており、容易に持ち出すことはできない。また、これまでの事件捜査のなかで逆恨みにより襲われる可能性も無い訳ではないが、わざわざ荒井を尾行してまで襲撃してくるような手合いに心当たりがない。結局、自宅に着くまでに襲われることはなかったものの終始、背後から跡を付けられている感じが消えることはなかった。