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黄石公

老人の去るのをポカ~んとした顔で見送った青年は、はたと気がつくと、再び橋の下に戻って来た。


司馬信は再び寝転んで笹の葉を口に咥えながら月を愛でている。


青年はそんな司馬信に近づくと、傍に座って改めて礼を述べた。


「先程は助かりました。良かったら貴殿の名前をお聞かせいただきたい!」


その姿勢はとても真面目で、口許から溢れ出る言葉からは尊意が感じられた。


流石の司馬信もそのまま寝転んでいる訳にもいかずに起き上がると、胡座(あぐら)をかくや『参ったな…』という呈で頭を掻いた。


そして「私は夏信(かしん)と言う。宜しく♪」と言うと、手を差し出して握手を求めた。


青年は「私は張良と申します。御挨拶が遅れてすみません…」そう言いながら両手を司馬信の手に添えると尊意を以て挨拶を返した。


張良は相手に名を問う事に夢中で、自分の紹介が後手に回った事を恥じている様で、かなり恥ずかしそうに(ほほ)朱色(しゅいろ)に染めている。


元々女人の様な顔立ちをしているものだから、(はた)から見ると、真の女性の様にそれは見えた。


司馬信は同じ顔立ちでも、既に一国の王であるため威厳を以て其れを見ている。


ある意味観察する事が癖になっているのだと言って良い。


彼らはこの中華ではあくまでも傍観者なのだから。


そして彼が名乗った『夏信』という名前も偽りではなかった。


彼は公式には『司馬信』であるが、一般の対応をする際には、『夏信』と名乗る事にしている。


西夏国の『夏』の字を(かしら)に付けるのである。


これはそもそも昔からのしきたりであり、それは西夏国が中華の歴史の始まりと言っても過言ではないあの()の末裔だったからに(ほか)()らない。


つまり今はかなり遠方に国を構える彼らも元はといえば、中華の支配者だった頃もあったという事なのだった。


「災難でしたな…」


夏信はそう言うと、張良に(ねぎら)いを見せた。


「いえいえ…大した事では在りませぬ。」


張良はそう言うとフッと笑みを浮かべて、


「たいそう厚かましい爺さんでしたけどね♪」


と言って夏信に目配せした。


「そうだな♪」


夏信もそう言うと想い出した様に快活に笑った。


そして二人は改めてまじまじと互いの顔を見つめた。


成る程…よく似ている。


夏信も張良も互いに相手を他人の様な気がしなくなっていた。


そこで張良は夏信に対して問う事にした。


老人の言葉が頭に残って離れないのだが、自分はどうするべきだろうか?…と。


すると夏信は「考える迄も無かろう♪」そう言って、もう少しあの老人に付き合ってみてはどうか?と勧めた。


張良もまた同じ考えだったので、「そうします!」と言って決意した様である。


張良はしばらく夏信と連れ立って寝転びながら、彼と一緒に月を愛でる事にした。


何とも風流の分かる御仁なのだな…張良はそう想った。


やがて月が去り、明け方が近づいて来ると、夏信はフラッと立ち上がるや「ではな…」と言って引き上げるようだ。


張良は慌てて身体を起こすと立ち上がり、彼の背中に問うた。


「また会えますか?」


すると夏信は片手を挙げる様な仕草をしてこう応えた。


「私は此れでここには用は無くなった。何れかの日に縁があれば、また会おう♪」


そう言って振り向く事無く去って行ったのである。


張良は『清々しい風の様な御仁であったな…』そう想いながら、彼の背中を見送ったのだった。


此れが司馬信と張良の馴れ初めである。


司馬信が『此れでここに用は無くなった…』


そう言ったのは、張良その人に会うためであった。


先に述べた様に、司馬信にはあらゆる所から情報が入って来る…その中で最近気になる事を言う人がいた。


「貴公によく似た人物がいる…」


そこでわざわざ出向いて確かめに来たという訳だった。


司馬信としては、自分が間違えられた人物の顔をひと目拝んでやろうと想っても不思議は無い。


何しろ誤解とはいえ、捕縛の憂き目にあったのだ。


『それにしても似ていたな…これでは間違えられても仕方が無い…』


司馬信はそう想いながら、苦笑した。


『しかしなかなかの人物で良かった…』


自分が嫌疑を掛けられたせいで以降、捕縛の手が止まった経緯があるだけに、生かした輩が悪人では困る…そう想いながら今の今まで心に(わだかま)りを抱いていた司馬信は、此れで安心したかの様に快活に笑った。


『……』


さて一方の張良の方はそんな事とは露知らず、老人に付き合う事に決めたものの、実際にはそれからが大変だった…。


急遽、下邳から出られなくなったため、その日のうちに出戻りとなる…。


勢いよく旅立った手前、再び自宅に戻る事になって、恥ずかしいったら無かったが、約束の日までまだ5日もあるので、宿泊しながら待つ訳にもいかない。


仕方なく戻ってみたのだが、割とすんなり皆が受け入れてくれたので結果オーライというべきだった。


そして張良本人はまだ知らないが、事実、此れで正解というべき事態になる。


皆さんも厚かましい(じじい)…もといお爺さんとお付き合いする時には、余裕を以て相対する事を切にお勧めする次第である。


さて…その日から再び皆が喜んで子供を寄越したので、また寺子屋を急遽再開して忙しい毎日を送る事になった。


張良は約束の日を待ちながらこうして日々を過ごす事になるのだが、以前と違う事があるとするなら、時折、頭に想い描く夏信の顔と、その口許から溢れ出てきた言葉の数々であった。


『今度はいつ会えるのだろう…』


張良はそう想いながら、まるで一目惚れした女人を想い浮かべる様に頬を朱色に染めるのであった。


さてそんなこんなで約束の日がやって来た。


5日後の朝の事である。


張良は老人との約束通り早朝に行くためにはと、彼にしては珍しく早起きすると、日が出る前から出立して、約束の場所で日が出る頃合いを見計らう事にした。


余り早過ぎると、相手は年寄りだ…こちらが待つ分には構わぬだろうが、性急過ぎると想われなくも無い。


張良なりに忖度(そんたく)した結果であった。


そもそも、よくよく考えてみると、『早朝』とはかなり曖昧(あいまい)な約束の時間である。


ところが、いざ現地に到着してみると、既に老人は来ていて、在ろう事か、出会い(がしら)に一喝された。


「あれだけ約束したのに、寒い中、此れだけ年寄りを待たせるとは何事だ。立ち去れい!」


老人は張良の顔を根目付ける様に睨むと、「5日後の早朝にまた来い!」そう言い残すや踵を返してとっとと歩き去ってしまった。


張良としては何が何だか判らない…唖然と見送るほか無く、しばらく茫然自失という有り様であった。


張良は仕方なくそのまま家路に着く事になった。


そういう有り様であったから、次の5日間が経つ間に、「もう辞めようか?」とも考えた。


しかしながら、その度に、『考える迄も無い』『付きやってやれば良かろう!』そう夏信に言われた事を思い出す。


そもそも自分が彼に相談したのだ…。


次に会う時には、彼に恥ずかしくない報告をせねば成らぬ…。


無論そんな事は考慮するまでも無く、張良の自由なのだが、彼はそう考えない。


そもそも『約束』では無いが、老人を待たせた事実も消す事は出来ないのだから、もう一度だけ彼は付き合う事にした。


そして次はもっと早くに家を出る事にした。


待ち合わせの場所に、ちょうど鶏が鳴く時刻に到着する様に、出掛けたのである。


流石に計った様に到着したらしく、彼が着くや否や鶏がけたたましく朝を告げた。


正に『してやったり!』という所だろうか?


ところがである…。


彼の御老人は既に来ていた。


そして再び厳しい口調で一喝された。


「また遅れるとは何事だ!話に成らん!お前は一体どういう了見なのだ!馬鹿もんが!即刻、立ち去れい!」


そう張良を叱りつけると、こう言い放った。


「此れが最期だ!もう一度だけ、チャンスをやるからあと5日したらまた来い!もっと早く来い!」


老人は言いたい事を一方的に言い残すや、再び踵を返すととっとと去って行くのだった。


『やってられん!』


張良は今回こそは流石に頭に来てそう想った。


もう付き合ってなるものか…と。


ところが、何か夏信に笑われいる様な気がするのだ。


無論それは張良がそう想うだけの事なのだが、彼にしてみれば、かなり悔しい。


そう考えると意地でもやり抜いてやる!と心に誓うのだった。


そして約束の日の前夜…張良は性急だろうがもはや構わんと、夜中から出掛けて行って老人を待った。


流石に前日なのだから老人もまだ来ていない。


張良は寒さに凍えながらも彼を待った…。


寒さが辛い時には、あの清々しい夏信の顔を想い出し、その言葉を呟きながらなぞった。


すると、気のせいかも知れないが身体から力が満ち溢れて来るのが判った。


すると、そろそろ(やみ)(とばり)が明けようか…というタイミングで、彼の老人がやって来た。


御老人は張良が既に来ている事に気がつくと、白い顎髭(あごひげ)をしごきながら、満面の笑みで顔をクシャクシャにして快活に笑った。


かなりご満悦の様である。


そして(おもむろ)に「こうでなくてはならん!」と言って、ほくそ笑んだ。


そして「よくぞ堪えられましたな…その謙虚さこそが宝ですぞ♪」そう言うや、張良に一編の書物を手渡した。


表紙には『六韜(りくとう)』と書いてある。


いわゆる『太公望兵法書』と言われるものである。


御老人は「これを詠めば王者の師と為れよう。10年経ったら興隆し、13年後にお前は儂に会うだろう。済北の穀城山の麓にある黄石が儂なのだ!」そう言い残すと、張良が書物に目をやったほんのひとときの間に煙の如く消え去ってしまっていたのである。


その後、張良は不思議に思いながらもこの書を繰り返し誦読した。


『あの御老人は黄石様だったか…いったいどうして私を試されたのだろう…私に何をさせたいのだろう…』


張良はそう想いながら、夏信が引き合わせてくれたこの縁を大切にしようと心に誓った。


『もしかすると、私はこの世の中で為す事が在るのかも知れない…』


だんだんとそう前向きに想う様に成って行ったのであった。


そして六韜を完全に読み終えて理解出来た時には、自分の遣るべき道が(ほの)かに見えて来ていた。


後に黄石公の予言はすべて的中し、張良は劉邦の天下統一に寄与した。


そして、穀城の黄石を得て、これを祀ったという。


『……』


この話しには実は後日談がある。


張良は人ゆえに知るところでは無いが、こんな事があった。


蛇足に為るかも知れないが、読者の皆様にはお伝えしておく事にする。


司馬信は再び商売を営みながら、ある時、たまたま穀城山の麓に辿り着いた。


すると彼はいつもの様にひとりで山の麓に横になりながら、両手を枕にして寝転んだ。


涼しい風が気持ち良かったせいか、彼は不覚にも寝入ってしまった。


しばらくすると、誰かが彼を呼んでいる気がする。


彼はやおら起き上がると咄嗟に振り向いていた。


するとそこには白い顎髭をしごきながら、微笑んでいる爺様が佇んでいる。


爺様は司馬信を上から見下ろしながら、


『黄石じゃ♪司馬信殿はお主かのぅ~♪』


と言って然も愉しそうに顔をクシャクシャにしながら快活に笑った。


『何だ…あんたか…で張良殿には太公望の書物を渡せたのかね?』


そう言って快活に笑い返した。


黄石公は然も驚いたと言わんばかりに司馬信を見つめてポカンと(ほう)けている。


『私が人だから、油断したかね?生憎(あいにく)だな…残念ながら神仙の如きは貴方(そなた)のみに(あら)ずさ♪私の師は左慈なのでね♪』


そう言うや再び快活に笑った。


黄石公は、これは一本取られたわい!…そういった呈でほくそ笑むと、『これは参った…あやつも良い弟子を持った者だ…左慈に宜しく言ってくれ!』


そう言い残すと煙の様に消え去った。


目が覚めるとまだ涼しい風が顔に当たって気持ちが良い…。


司馬信は想い出し笑いをすると呟いた。


『師匠…御同輩にお会いしましたぞ♪』


そして再び笑みを浮かべながら、あの日出会った張良という青年の事を思い出すのだった。

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