漁尚の神仙
ある月夜の晩の事である。
司馬信は下邳の郊外にある橋の袂で月を愛でながら寝転んでいた。
口には笹の葉を咥えて、両手を枕にしながら悠長なものである。
先に述べた様にこの人は一応王様なのであるが、余り体裁には拘らない。
西夏国と言うのは一大商業国家であって、この時代、中華では、商人の身分は庶民より低くみられる世の中だったから、商業国家などというものは先例が無かった。
しかしながら、物を売り買いしなければ、人は生きてはいけないのだから、正に先見の明があったというべきであろう。
西夏国は中華を商売の源としているので、キャラバン隊を組んで各地を放浪しており、商売を通じてあらゆる情報を掴んでいた。
しかも商人御一行様だから比較的怪しまれずにあちらこちらを徘徊出来るというメリットもあったのである。
そして彼らは表向きは商人だが、実際にはバリバリの軍隊組織でもあるので、それを知らない野盗などが不意をついて襲い掛かろうものなら大変な事になる。
そして此れが面白いほど無知な事に実際、度々襲って来ていた。
無論どうなるかは決まっていて、悲惨な程に返り討ちにあって、谷から落とされる者、川や池に沈められる者、山中で屍を晒す者など多数見受けられた。
やがて彼らが通る進路からは野盗や追い剥ぎ、人買いなどは根絶されてしまった。
盗賊の方でも金の装束に身を纏った商人集団には気をつけろ!…死にたくなかったらけして近づくな!と御触れが出るくらい恐れられる様になっていた。
西夏国は商業国家であると共に軍事大国でもあったのである。
それはギリシアのポリスの中でも軍事国家として有名なあのスパルタにも劣らない軍事に特化した国であり、西夏国の人々は上から下まで皆軍事教練を受けたバリバリの傭兵集団でもあった。
そんな連中が商人として、物の売り買いを行っているのだから、ある意味怖いもの無しというべきだろう。
司馬信はそんな連中を連れて各地を巡る商人頭の様なものだが、時には本領を発揮して、軍を組織すると、まっしぐらに目的を完遂するという力量を発揮したのである。
まぁそんな事は殆どの人間が知らないし、知られてもいけない。
ある意味、内政干渉になってしまうので、行動は常に暗黙の中でのみ行われて、その実績すらも表には出ないし、誰にも称賛もされないという身の上なのであった。
たまたま秦国とは通商条約を結んでいた事もあり、始皇帝・嬴政や一部の将軍に知られて居たが、その秦も崩壊に向けて転げ落ちているし、彼らを知る人々も既に亡くなっているので、今はもはや誰も知らない存在と言えた。
司馬信が橋の袂で悠長な気分で月を愛でていると、橋の欄干から一足の靴が落ちて来て、彼の顔に当たりそうになったので、反射的にそれを叩いた。
すると靴は川の岸辺の泥の中にジャブンと落ちてしまった。
司馬信はいくら自分の身を守るためとは言え、酷い事をしてしまったと少し焦ってしまい身体を起こすとそれを拾おうと立ち上がった。
すると上の方から何やら騒がしい声が聞こえてきて、慌てて立ち止まると、ひとりの老人らしき男の声が、もうひとりの若い男の声に何かを命じている。
『こいつは面白い事になって来た…』
そう感じた司馬信は、橋の下の陰にいるため、今ならまだ存在を勘づかれて居ないと考えて、隠れて傍観を決め込む事にした。
耳にした内容は簡単に説明するとこんな感じである。
ある若い青年が橋を渡ろうと通り掛かろうとした際に、それを見ていた老人が急に何を想ったのか、自分の靴を橋の下に放り投げて、その青年に向かって「おい若いの、下に降りて儂の靴を取ってこい!」と酷い事を言いつけた。
青年は一瞬ムッとはしたものの、よく観ると相手はかなり御高齢の老人である。
自分は先を急ぐ身でも無いし、だったら親切にしてやろうと考えを改めて、ここは我慢と靴を拾ってやる事にした…という事なのだった。
青年はやがて橋の下に降りて来て、辺りをくまなく探している。
月夜の晩だから、明かりには事欠かないが、泥の中に落ち込んでいるので、なかなかに靴は見つからない。
橋の上からは容赦なく老人の罵倒が堕ちて来る。
「何をしている!まだか!」
青年は「はい!今すぐ!」と答えながらも、肝心の靴が見当たらないので困っていた。
『やれやれとんだ災難だな…』
顔にはそう書いてあった…。
司馬信は隠れてニコニコしながら事の成り行きを眺めて居たが、流石に青年が気の毒になって来た。
そこでそ~っと彼に近づくと前屈みになって靴を探している青年の肩をチョンチョンと指先でつついた。
一瞬何の前触れも無く、肩をこずかれた青年の方は堪らない。
直ぐ様振り向くと、司馬信の存在に気がついて、大声を挙げそうになった。
司馬信は慌てて青年の口を塞ぐと、「シッ!」と言って黙らせる。
そして彼に判る様に指先で靴の在りかを教えてやったのだ。
元々利発な青年は直ぐに司馬信の意図に気がついて、相槌を打つや頭をペコリと下げる。
司馬信は青年の口を塞いでいた手を話すや再び「シッ!」と言って自分の存在を隠すように伝えた。
青年は靴を泥の中から拾うと、川の水で泥を落として叩くと、お礼を述べに司馬信の前にやって来た。
するとたまたま月夜の悪戯なのだろうか…ちょうど良い具合に月の光が二人の顔を照らして、互いの顔を照らし出した。
互いに想わず相手の顔を観る形になるのだが、その瞬間、二人とも時間がまるで止まってしまったかの様に驚き合うのだった…。
二人とも女人の様に美しく、可憐な顔をしていて、背格好も同じなら、顔もほぼ瓜二つと言っても過言ではなかったのである。
これには二人とも驚きを通り越して、驚愕してしまった。
想わず声を上げそうになり、互いに慌てて自分の口を塞ぐ。
そして二人ともまるで鏡でも観るようにジィ~っと相手の顔をガン見するのであった。
するとそこにまた老人の「まだか!」という罵倒の声が降って来たので、青年は仕方なく目配せすると、靴を持って橋の上に戻って行った。
司馬信はこの摩訶不思議な出来事に、しばらく唖然として居たが、上でまた二人が揉めているので、耳を棲ました。
どうやら老人は足を突き出すなり「儂にその靴を履かせよ!」と言いつけているようだ。
『やれやれ…かなり頭のぶっ飛んだ爺の様だな…』
司馬信は呆れてしまった。
しかしながら、青年は怒ってはいるだろうに、そんな事はおくびにも出さず、「既に拾って来てやったんだから…」と考えたらしく、跪いて老人に靴を履かせてやった様だった。
老人はそれで満足したらしく、満面の笑顔で微笑むと只の一言「ありがとよ!」と言って、その場を去ろうとしたものの、何かを思いついたらしく、踵を返すと戻って来て、青年に声をかけた。
「お若いの、お主はなかなか見込みがあるぞ!見たところお主は修行に出るところなのだろう?何なら礼に儂がとっておきの教えを取らせてやるがどうするかね?興味があるなら5日後の早朝に、再びここで会おうぞ♪ではな…」
そう一方的に言い放つとやおら再び踵を返して去って行ったのだった。