晴耕雨読
張良は逃げに逃げた…。
様々な偽名を使いながら、旅を続けた。
そして徐州の下邳までやって来るとようやく安心して、当地にたくさん居た任侠の徒に紛れ込む事に成功した。
彼はそこで任侠の徒に自分の修めた礼の学問を教えた。
此れからの任侠の徒もこれくらいは理解しておかないと世情に通じ、力を蓄える事は出来ないと言って、皆に快く教えてやったのである。
始めは半信半疑だった者も、だんだんと知恵がついて来ると、此れに感謝して、張良の事を先生と呼んで、自分の子供にも教えてくれる様にと、毎日の様に日参する様になった。
そのため張良はそんな人々からお礼にと食べ物や日用品を折に触れて貰えたので、生活に事欠かなく為っていた。
自分の自宅の庭には簡単な庵を結んで、そこを仮の寺子屋として使いながら、彼らの子供たちを集めては教えを説いた。
しばらくはそんな日々が続いた。
そんな中でも張良は自分の出自を忘れた事は無く、何れは天下に出て、韓の再興を計ろうと考えていたのである。
ところがある日の事、自分の脹ら脛に脂肪がつき始めた事に気がついた。
張良はフ~と嘆息すると我が身を哭いた。
髀肉之嘆である。
張良はこのままではいけないと、そろそろ身を処して、再び旅立とうと想うようになった。
そんな時に、夜陰に紛れて家に逃げ込んで来た者がいた。
その者は項伯と名乗り、つまらぬ誤解から人を殺めた門で追われているという。
聞いてみると些末な理由から疑いを掛けられて、抵抗した挙げ句に相手が死んでしまったという事だった。
張良は元から正義感が強く、任侠の徒となってからは、人の情けにも通じていたので、気の毒なこの男を助けてやらなければと人情に篤い男気で匿う事にした。
表向きは張良の博徒となった項伯は姿、形を替えて彼を手伝いながら礼を教える日々を過ごした。
彼は戦国時代の楚の大将軍・項燕の子供で学は修めていたので、張良と直ぐに意気投合して、しばらくは逃亡生活から解放されて、逃亡の身である似た者同士として、この生活を愉しむ様になったのである。
ある日の事、長雨の悪戯から、目的地にたどり着けない人足の一行が居た。
秦の法では期日までにたどり着けないと罰を受ける。
しかも最悪の場合は死罪になるので、一行の中に居た陳勝と呉広という人たちは、同じ死ぬならば、過酷な秦の政に反旗を翻して、一か八か反乱を起こす事にした。
各地ではこの頃、始皇帝の過酷な政策に理解が出来ずに我慢しながら鬱積を溜めていた人々が多く居たので、皆これを契機に反秦の気運が高まっていた。
始皇帝の政策は、労苦を共にし、それに馴れ親しんだ秦の民には受け入れられていたが、全く環境の違う王政の民であった各地の人々からしてみれば、急な環境の変化と慣れない過酷な法に依って、困る人がたくさん居たのである。
段階的に時間をかけた慰撫に依るならば、もしかしたら、仕方がないにしても受け入れられたかも知れなかったが、性急な政治改革を促進して、それを押しつける様に行き渡らせた秦の天下は、各地の人々を反徒に変えてしまったという事なのだろう。
時代は既に二世皇帝・ 胡亥の御代になって居て、秦の中核を担っていた将軍たちは既に亡く、この反乱を抑えるのに時間を無駄に費やしたために、反乱は各地で激しく燃え上がってしまったのである。
項伯はそんな中、張良に一緒に我々も決起して、反乱に参加しようと提案した。
項伯は兄弟の項梁から声を掛けられていて、それに参加する事を決意していたのである。
そんな項伯を羨ましいと想いながらも、張良はまだその時では無いと感じていたので、一旦その話は断わる事にした。
そして今までの共有出来た時間に対して礼を述べた上で、項伯を喜んで見送ってやる事にした。
何れは自分も加わるからと約束をした上で、温かく彼を送り出す事にしたのである。
項伯はこうして張良の元を去って行った。
張良もこれを契機に再び行動を開始して、旅に出る決意をしたのである。
まだまだ自分には学ばねば成らぬ事があると理解していた張良は旅の中で自分を高める事にした…そういう事なのだろう。
任侠の徒の中には彼と行動を共にしたいと同行を申し出る人たちが続出したが、張良はそれを断わり、ひとり旅立つ事にしたのであった。
何れは事を起こす日が必ず来るから、そうしたら迎えに来ると約束をして、彼らを納得させた上で別れを告げた。
張良の心の中には秘めたる決意があって、この時より燻り続けたその火がジワジワと身体の中で燃え広がるのを自覚して居たのであった。