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目の前の美しい赤毛の女性がにっこりと微笑む。
麗しのリリース・マグダリアン伯爵令嬢様だ。
彼女は何度も言うけど、モーガン伯爵様の婚約者候補の筆頭令嬢だ。
……あぁ、笑顔が怖い。
彼女にしてみれば、自分の婚約者候補が、いきなり現れた田舎貴族の娘と婚約するかもしれないという状況なのだ。
今まで婚約者候補と言われた自分を差し置いて。
私みたいな田舎貴族の、しかも階級も低い小娘にはわからないけれど、多分、物凄く怒っているんではないだろうか。
彼女が一歩こちらに足を踏み出す。
びくっ、と肩を震わせた私の手を彼女はしっかりと握った。
「…よくやった、アンデルセン嬢!」
「ひぇっ!」
思わず口から悲鳴が出る。
っていうか、口調、男の子みたいなんですね…意外…。
「あー、そんなびびんなくても…取って食いやしないよ」
ひらひらとマグダリアン伯爵令嬢様は手を振る。
仕草も男前。
「…リリース、取って食いそうなんだよ。お前は」
マグダリアン伯爵令嬢様を止めるようにヘーゼル・レーニン伯爵子息様が彼女を私から引き離してくれる。
「……あの、お、お初にお目にかかります…でしょうか?マグダリアン伯爵令嬢様におかれましてはご機嫌麗しく…」
「そんな挨拶はいらん。ついでに敬称も敬語もいらん。長い!」
…食いぎみで反論、キター!
ひぇぇぇぇ!噂と違うー!
「…リリース、アンデルセン嬢が怖がってるから」
「アンデルセン嬢ー?なんだその呼び方は?普段はエマエマ言ってるくせに、本人の前じゃ呼べないのか、この腰抜け!」
私を庇ってくれたであろうモーガン伯爵様の胸ぐらを掴み、マグダリアン伯爵令嬢様は更にいい募る。
「大体お前は昔っから意気地がないんだ!もっと積極的に行けよ!男のくせにウジウジするな!」
ガクガクと掴んだ胸元を揺する度に、モーガン伯爵様からは鳥の呻き声に似た悲鳴が漏れる。
「わぁ!あ、あの…えぇと、えぇと…リ、リリース様!」
「様はいらん!」
「ひぇっ!はい!」
勢いよく振り返られて、ジロリと睨まれたら、他の返事なんてできない。
えぇ…?でもこの方、『純情可憐な深窓の伯爵令嬢』じゃなかった?
これじゃ、『見た目は乙女、中身は漢!名探偵…』…じゃなかった。
ふざけてる場合じゃない。
でも社交界デビューしたばかりの私でも知ってる彼女の噂に、こんな男らしい表現はなかった筈なのに。
知らぬ間にまじまじと見つめていたらしい。
彼女は顔をしかめ、唇をへの字に曲げてモーガン伯爵様から私に向き直った。
「噂と違って残念だったな、エマ」
はん!と鼻で笑い、リリース様は私に顔を近付ける。
「でも、これから親しくするんだから慣れろよ?」
「…わぁ…」
美麗な顔が近付いて思わずうっとりしてしまう。
中身は想像もしなかったけれど、その見た目は噂通りの美女だ。
白い肌に、濡れたような黒い猫目で見つめられたら誰だってポーッとしてしまう。
「『わぁ』じゃない。…おいこれ、わかってるのかな?」
リリース様が最後はモーガン伯爵様とレーニン伯爵子息様に向かって言う。
モーガン伯爵様がリリース様の視線を受けて困ったように頬をかいた。
「…いや、まだ何も説明してないんだ」
「……はぁ!?ばっか、お前!説明してやんなきゃ可哀想だろ!」
「可哀想?何故?」
「馬鹿が!急にこんなとこ連れて来られて、その上自分に求婚してきた男との噂のあった女といきなり会うなんて…!そりゃビビりもするわ!」
リリース様はモーガン伯爵様からくるりと私へ顔を向ける。
そして申し訳なさそうにオロオロして私の手を握った。
「ごめんな。説明もしないで…てっきりあの馬鹿が説明してるとばかり…。その、私はこの馬鹿の婚約者候補って言われてるけど、実際はそんなことなくてだな…だからつまり、エマは堂々と婚約してくれていいわけで…」
「リリース、落ち着け。順を追って説明するから、まずは座ってお茶でも飲んでもらえ」
レーニン伯爵子息様はリリース様を私から引き剥がし、私に近くのソファーを示したのだった。