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52話 ずっと持っていた


 ■ ■ ■


「はい、これ」

 病室に来るなり、健太郎は強張った顔で紙袋を押しつけてきた。


「おお、ありがとな」

 明充は礼を言い、紙袋の重さを確かめた。中身はなんだろう。また着替えや洗面道具なんかを持って来てくれたのだろうか。それにしては、重さがある。

 不思議に思いながら、中を覗く。

「あっ!」

 袋の中には大きめの保存容器が一つ、おさめられていた。


 はやる手つきで、明充は蓋を開いた。期待した通り、ぎっしりとりんごが詰められていた。

 昨日と同じく表面は薄茶に変色しているが、甘く爽やかな香りに食欲が刺激される。

「これ、もしかして健太郎が切って来てくれたのか?」


 健太郎は伏し目になり、こくりとうなずいた。

「昨日のりんごもか?」と尋ねると、健太郎は「うん」と小さく言って視線を上げた。


 りんごを口に運ぶ。しゃりしゃりと涼やかな音がした。


「兄ちゃん、りんご好きだろ?」

 健太郎が言った。


「ああ。よく覚えてたなそんなこと」


「あの、さ……」

 健太郎はそこで忙しなく視線を左右に動かした。「どうした?」と明充は首を傾げた。

「あの、えーっと……ごめんなさい」

 消え入りそうな声で言うと、健太郎は頭を下げた。


 弟から唐突に謝られ、明充は面食らった。


「りんご、切るの下手でごめんなさい。なんで俺が切るといつも茶色くなっちゃうんだろう」

 健太郎は悔しそうに下唇を噛む。


「……切った後で、塩水に浸けるんだよ。そうするとりんごが変色しないんだ」

「わかった。やってみる」

「後、全然下手じゃねえよ、りんご切るの。お前、包丁使えたんだな」

「ちょっと前から練習してたから」

「なあ、昨日持って来てくれたタオル、あれ畳んだの健太郎か?」


「そうだけど」

 答えた瞬間、健太郎が身構えたのがわかった。兄からだめ出しされると思ったのだろう。


「お前、俺と同じ畳み方するのな」

 明充は言った。


「それはだって、兄ちゃんがやってるのずっと見てたから。畳んで、最後ころころって丸めるんだろ」


 明充は胸の内に、ちくちくとした痛みが走るのを感じた。

 以前から、健太郎には家事を手伝おうとする素振りが見られた。ほとんど失敗してばかりで、逆にこちらの負担を増やす結果になることもあったが、健太郎なりに少しでも兄の力になろうと気を回してくれているのが伝わってきた。

 しかしそのことに、明充は気づかないふりを続けてきた。健太郎が手を出すと、逐一文句をつけた。

 気分を害した健太郎が反抗的になって手を焼かせるたび、明充は仄暗い優越感を味わった。

 兄としての自分には、価値がある。

 自分がいないと、弟たちは何もできない。

 そうして弟たちの世話で忙殺されている間は、言い訳が立つ。

 同級生の輪にうまく入れないこと、下がり続ける成績、なんの楽しみのない毎日――全部、家族のせい。

 決して自分がだめなわけじゃない、家族の負担が大きいせいで何もかもうまくいかないんだ。

 そう言い聞かせて、明充は現実から目を逸らしてきたのだった。


 金輪際、こんな卑怯なやり方はやめよう。

 明充は心に誓う。

 健太郎はこんなにも、自分を見てくれている。支えようとしてくれている。

 健太郎の気持ちを、これ以上踏みにじってはいけない。


「これからは兄ちゃん、健太郎に甘えてもいいか」

 そう言うと、健太郎は一瞬、驚いた顔になった。だがすぐにはにかんで、

「当たり前じゃん。俺、兄ちゃんの力になるよ」

 胸を張った。


「またりんご切って来てくれるか」

「いいよ。また持って来るよ」


 胸の痛みは消えない。八つ当たりのように健太郎へ接してきたことを、明充は深く後悔している。

 これからは、きちんと弟を認めよう。

 そう思うと同時に、使命感のようなものがわき上がってきた。

 絶対、家族の待つ家に帰る。

 絶望している暇はない。自分が今すべきことはくよくよ悩むことじゃない。手術でも訓練でも、いくらだって耐えてやる。


(脚が動かないとわかったときは、もっと長く引きずるかと思ったけど……)


 明充の心は驚くほど前向きだった。

 呪いは発動し、脚の感覚は奪われた。走ることを絶たれた。陸上は、唯一自分が誇れるものだった。

 すべてどうでもいい。入院直後はそう思いもした。

 しかし今は、腹の底から力がみなぎってくるのを感じる。

 力の源は、家族だ。

 長年しがみついていたものをなくしたことで、明充は家族という存在の大きさを再認識できたのだった。


 敬太と祥吾から、呪いが発動する可能性について聞かされたとき、自分には奪われて困るようなものなど何もないと答えた。

 自分で気づいていなかっただけで、本当はずっと持っていた。

(俺が絶対に奪われたくないと思うもの、それは――家族だ)

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