41話 昔あるところに…
「昭和二十八年、視影に住む娘、恵津子がひとりの男性と恋に落ちたの。しかし男性には、恵津子より先に結婚を約束した人がいた」
「婚約者」
「そうよ。婚約者の女性は恵津子と男性の仲を知り、激怒した。間もなく、恵津子は視影で孤立するようになった。婚約者の女性は視影で広く力を持つ、地主の娘だったのよ。それで周りも気を遣って、恵津子と関わり合いになるのを避けたの。男性も怖気づいて、婚約者の女性の元へ戻ってしまった。恵津子は捨てられ、その後すぐ視影住民たちから迫害を受けるようになったの」
「ひどい話だ」
「ええ、そうね。だけど恵津子の不幸はこれだけで終わらない。恵津子はあるとき、実の弟から毒を盛られるの。弟は地主から金を握らされ、姉を陥れたのよ。恵津子は毒を飲み、三日三晩苦しんだ。美しかった肌はただれ、歯は次々と抜け落ちた。三日目には、足の先が腐りはじめた」
辺見は息を呑んだ。話の内容もだが、何より万里子の鬼気迫る語り口に圧倒された。
「こうして世にもおぞましい姿となった恵津子は、山の中腹にある神社まで這っていった。その日、神社では男性と婚約者の結婚の儀が執り行われていた。恵津子はその場で呪詛を吐くと、山の奥深くへと消えた」
そこで万里子は言葉を切った。
辺見はすっかり万里子の話に聞き入っていた。
「それで、恵津子さんは?」
息継ぎをするように、続きを促す。
「その日以降、恵津子が住民の前に現れることはなかった。恵津子が消えて間もなく、視影では災厄がはじまった」
「災厄?」
「まずは恵津子を裏切った男性が、不可解な死を遂げる。続いて男性の親族、地主の家にも不幸が続く。視影住民たちは噂するようになった。これは恵津子の呪いではないのか。恵津子は自分を虐げた者たちに、災いをもたらしているんじゃないか。災厄は視影全体に広がった。住民は怯えた。次は自分の番だ。恵津子を村八分へと追いやった自分たちにも、いつか災いが降りかかるはずだ。翌年、この惨状に耐えかねた視影の重鎮らは、恵津子の魂を鎮めるため、儀式を執り行うことを決めたの」
「その儀式を任されたのが、俺の大伯母さんてわけか」
「そうね。そして儀式の最中に、行方がわからなくなった」
万里子はなぜだか愉快そうに口元を歪めた。
「つまり、儀式は正しく執り行われなかった」
「え?」
「だってそうでしょう? 巫女が途中で消えたのだから」
「ああ」
辺見はそこで初めて気がついた。
「てことは、現在の視影がこんななのは、災厄が止まらなかったせいで?」
「いいえ、災厄はちゃんと止まったわ。儀式は完了しなかったけれど、災いをおさめるのに充分効果はあったの。地主の娘が凄惨な死を迎えたのを最後に、視影で不幸は起こらなくなった」
「じゃあ何か別の理由で過疎化が進んだ結果か」
「ええ」と万里子が顎を引く。
「視影に不幸が続くようになって、近隣住民は不審に思ったそうよ。何か良くない病気が視影に蔓延しているんじゃないかって。視影住民と接触したら、病気をうつされるんじゃないかって噂が立ったの。恵津子を村八分にした視影住民は今度、自分たちが近隣から迫害されるようになったのね。それでほとんどの人はひっそりと視影を出て、別の場所へ逃げたみたい」
「そうか……」
辺見は神妙な顔でうなずいた。狭いコミュニティの中で一度でも異物扱いを受ければ、元に戻るのは難しい。噂の届かぬ遠い土地に移り住むか、辛抱強く時間が解決してくれるのを待つか。より苦境を強いられるのは、果たしてどちらを選んだ場合だろうか。多くの人が、遠くの地へ移る選択をしたというのは理解できる気がした。早く確実に、自分たちに向けられる偏見の目から解放されたかったのだろう。
「残念ながら、巫女の行方は誰にもわからなかった」
万里子はそこで唇を結んだ。
冷たい風が吹いて、辺見は身震いした。夢から覚めたような心持ちで、辺りを見回した。日が暮れかかっている。
「話を聞かせてくれてありがとう」
立ち上がり、両手で尻の辺りを払う。わずかに土埃が舞った。
「そろそろホテルに戻るよ。曽根さんも遅くならないうちに帰ったほうがいい」
「ねえ辺見さん? 大伯母さんを探す手立ては他にあるの?」
万里子は座ったまま、優雅に問いかけてきた。
「さあね」
六十八年も前の出来事とはいえ、根気よく探せば、大伯母が行方不明になった事情を知る人に出会えるはずだ。そう考えて視影まで来た。だが万里子によれば、現在の視影は無人であり、かつての住民たちは皆ちりじりになっているという。この状況から、元視影住民を探し出すのは困難だろう。
さて、今後はどう捜索すべきか。
「視影にはもう来ない? 辺見さんはいつ家に帰るの?」
続けて万里子が問いかけてくる。
「いつとは決めてなかったけど、ここに手がかりがないとわかったからね、明日にでも帰るよ」
「ねえ、もう少しだけ滞在できないかしら?」
「なんで?」
「予感がするの。近いうち、辺見さんの前には協力者が現れるわ」
ふふっと、辺見は息をもらした。
「何それ。曽根さん、さては予知能力者?」
「あ、本気にしてないわね。いい? 今わたしが言ったのは、絶対に現実に起きる出来事よ」
「はは、そうだね」
もしかしたら万里子は、自分を引き留めようとしているのかもしれない。ひとりでこんな場所にやってくるような子だ。学校でいじめられている気配もする。
(寂しい子なのかもしれない……)
偶然出会った話し相手を、今日限りで失うのが惜しいのだろう。そう思うと、途端に万里子の発言がいじらしく感じられた。大伯母の話題になった辺りから、態度がおかしくなったのも、彼女が必死に自分の気を引こうとしていたのだと考えれば、納得できる。
「じゃあひとまず、明日はまだここにいるよ」
「良かった」
万里子は安堵の表情を見せた。幼く無防備で、中学生らしい顔だった。
ふと、辺見の中にいたずら心が芽生える。
「さて、予知能力者さんに一つ、予知をしてもらおうかな?」
にやりと笑って言った。
「俺の大伯母さんは現在、どこにいるのでしょうか?」
果たして彼女はどう答えるだろう。
狼狽えて、返事に窮するだろうか。あるいはもったいぶって、それらしい答えを口にするのか。
どちらにしても、必死に背伸びする姿が垣間見えて、可愛らしいに違いない。
しかし万里子の答えは、辺見が想像したものと違った。
万里子は体をひねると、冷静な顔で背後にそびえる山を指し示した。
「大伯母さんは、あそこにいるんじゃないかしら?」