海坊主
その日、海はベタ凪で、じっとりと湿気た空気が、喜一の汗ばんだ肌に纏わりついていた。
喜一はこの村一番の漁師で、年の頃は五十を少し過ぎたあたり、まだまだ働き盛りと言える。
その日、海中に網を仕掛け終えたのは夕闇が迫る頃で、海は、既に墨を流したような暗い色へと変わっていた。
「何年漁師をやっていても気持ちのええもんじゃねえ」
喜一はそのどんよりとした暗い海を眺め、ぶるっと身震いした。
網を入れてしまえば、後は待つだけである。
喜一は狭い船室に横たわると、すぐにいびきをかき始めた。
どれぐらい眠っていただろうか……
やけに胸が苦しく、嫌な汗がじわりじわりと湧いてくる。
喜一はうなされ、ほとほとと船室の窓を叩く音で薄っすらと目を開けた。
そこには、暗い海に溶け込むような漆黒の顔に、真っ赤に光る目をした、得体の知れないものが立っており、どこを見ているのか分からぬ目で、喜一の顔を見下ろすように覗き込んでいた。
喜一は慄きながらも、とっさにこの地の漁師に伝わる護符を掴み、その化け物に向かって投げつけた。
すると、その化け物は断末魔の叫びをあげ、ばしゃりと漆黒の海に飛び込むと、そのまま溶けるように消えたのだった。
あれは古くから言い伝えられる海坊主だったと、後に喜一は仲間たちに語ったと言う……