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俺は勇者じゃない。  作者: joblessman
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外伝 海の向こう

ーーーー

 悔しさが大きくあった。セリーナに、フェルナンド公爵に、カリサに、そして、故郷に、背中を向けて走ることしかできない、悔しさであった。どこまでも走った。この先に何かあるのか、希望は、そんなこと、セバスティアヌスの思考には微塵も存在していなかった。走ることに疑問を持たなかった。走ることしかできない故の思考の放棄ともとれた。しかし、だからこそ、極限の疲れの中にあるはずなのに、足先の感覚がなくなっているのに、走ることができた。脳みそがなくなったように、ただただ走った。先に悲鳴を上げたのは体だった。意図もせず、かくんと膝が折れた。ロゼを大事に抱え、はたと右膝をついた。じんわりと、砂の地面に付いた膝が冷たくなっていく。

 冷たい。

 海の間は、暗闇にいるほどに影は深く、濃い。足先は麻痺したように感覚がない。指先はかじかんでいる。が、それでも未だ、セバスティアヌスは寒いと感じることがなかった。ただただ、自身の体が冷たいという事実のみが、その理解のみが、セバスティアヌスにあった。腕の中の子を見た。震えている、赤毛の子を。

 この子は、寒かろう。

 とロゼをぎゅっと抱きしめる。温かいな、とロゼの温もりを、小さな、微かな温もりを、腕に、胸に感じた。そのときから、セバスティアンスは寒いという意識を取り戻し、底冷えする体が大きく波打つように震えた。寒さの次に、足に、体に、疲れを感じた。すると、ぶわりと、行き場のなくなったあらゆる感情が、どうしようもなくなり、涙として溢れ出た。大粒の、歪な、美しい涙は、海の間にあってはとても小さく、ぽつりとしかしいくつもいくつも止めどなく落ちた。

 両膝をつく。

 もう、走れなかった。

 両側に屹立していた海の壁から、ぽたりぽたりと雫が落ちてきた。ゆっくりと、水がセバスティアヌスの方まで流れてくる。冷たい、どこまでも冷たい水が。セバスティアヌスは、流れてくる海水に身を預けた。涙は枯れ果て、何も考えることができなかった。ただ、ロゼだけは大事に抱えていた。セバスティアヌスの最後の思考が、そこに顕現していた。

 ロゼ。寒かろう。

ーーー

 まどろみの中にあった。恐怖も痛みも超えて海に身を任せるのは、至高の幸せであった。それは、命の放出であった。唾を、汗を、精液を発するがごとく、セバスティアヌスは命を放出せんとしていた。その極楽に、安息に、快楽に心が堕ちようとしていたそのとき、彼の背中にごつりと何かがぶつかった。それは彼にとっては不快極まりないものであった。と同時に、海が冷たくなった。息が苦しい。死への快楽から引き戻されると、再び恐怖と痛みの畏れが現れた。痛い。苦しい。怖い。目に光が差し込んだ。空気が皮膚に触れる。口の中に酸素が入ってくる。水を吐き出すと、セバスティアヌスは目を開いた。太陽がこれでもかと眩しかった。それは、抗いようのない、生への喜びであった。皮膚が、脳が、心臓が、どうしようもなく生への喜びに震えるのであった。

腕には、赤毛の子があった。ロゼ。冷たくも、しかしほのかに温かみがあった。ぎゅっと抱きしめる。生きている。その奇跡の生には、セリーナの残存した最後の意志があった。空気が、酸素が、これほどまでに美味しいか。背中に触れるごつごつとした痛みは、ずっとあった。海より浮上した、自らの下にいる生き物を確認する活力は、セバスティアヌスには残っていたかった。ただ仰向けに、眩しい太陽と腕の中のロゼの温もりを感じながら、再び目を瞑った。

ーーー


 声がした。朴訥とした低い声だった。何を言っているかはわからない。

 ゆっくりと、セバスティアヌスは目を開く。

 ぼんやりとした視界に、赤い髪の毛が見えた。


「大丈夫か?」


 声の主は、その赤い髪の毛の主は、言った。

 セバスティアヌスの視界が明瞭になっていく。

 背中にごつごつとした痛みはない。柔らかなベッドが、これでもかと沈む。

 短髪の赤い髪に、皺の深い男がベッドのそばに立っていた。


「これを飲め」 


 と水をセバスティアヌスの口元へと持っていく。声は朴訥と、淡々としながらも温かみがあった。筋骨は隆々と、その目は切れ長ながらも目尻が丸く穏やかだが、引き締まったその顔つきは精悍と言って他ならない。

 水をごくりと飲んだ。

 小さくむせ込む。

 背中をさする男の手は、大きく温かい。


「ロ、ロゼは」


 と腕のなかにいないロゼを思う。

 体を起こそうにも、うまく動かない。

 隣の部屋から赤子の泣き声が響く。


「大丈夫だ。お手伝いさんが隣で見てくれている」


 お手伝いさんというなんともかわいらしい言い方が、この精悍とした男には似つかわしくなく、セバスティアヌスは少しのおかしみを感じた。


「大丈夫でしたか、旦那様」


 その膨よかな、お手伝いさんとやらが、ロゼを抱いて現れた。ロゼの泣き声が大きくなる。 

 セバスティアヌスは、ロゼを彼女から受け取る。

 ロゼは、泣くのをやめなかった。セバスティアヌスの腕のなかで泣いていた。

 セバスティアヌスはふらりと立ち上がり、ゆりかごのように腕を小さく揺らす。

 まだ首が据わっていない。慎重に、しっかりと頭を支えながら、小さく、誰かの見よう見まねであるが、しかし、なぜか脳裏には、ロゼを抱くカリサの姿があった。

 やがてロゼは泣き止んだ。すやすやと、かわいらしくも小さな寝息を立てて。

 優しくロゼを見つめながら、ベッドに寝かせる。


「飲むか」


 その赤髪の男の手に、コップがあった。セバスティアヌスはそれを受け取ると、ごくごくと飲んだ。

 水が体内に染み込んでいく。

 生きている。

 生きているのか。

 ロゼを見る。

 日の光が、窓から差し込んでいた。

 生きている。 

 生きているんだ。

 セバスティアヌスは、涙を流した。

 何度目かの涙であった。

 もう枯れたと思った涙であった。

 しかし、涌き出る泉のごとく、涙は溢れ出た。

 膝を折り、窓に向かって、懺悔するように、謝るように、窓の向こうの、海に、さらに向こうの、故国に向かって、項垂れた。


 ひとときののち、赤い髪の男が言った。


「心配している。顔を見せてやるといい」


 テラスに出ると、浜風が悲しいほど爽やかにそよいだ。

 海の浅瀬に、大きな平べったい生き物が二匹、三匹と泳いでいた。

 海のなかで、死へと向かっていたあのとき助けてくれた生き物。背中のごつごつとしたイボがそれであった。


「あれは」


「海ねっぽう。プリランテでは神聖な生き物として崇められている。ダマスケナでは畏れられていると昔聞いたな」


 男の話に、セバスティアヌスは火蜥蜴のことを思い出した。火を体から放ち、海より現れた巨大な蜥蜴。その昔ダマスケナを荒らしに荒らしたと言われる怪物であり、それ以来火の魔法は禁忌とされた。その正体が海ねっぽうと呼ばれる、ロゼを、自身を助けてくれた生き物であることに、セバスティアヌスは不思議な感慨を覚えた。そして当然の疑問が沸く。


「ここは」


「プリランテだ」


「あなたは」


「ディオール。ディオール・レバントだ」


 ディオールは、やはり朴訥と言った。そして、なにか懐かしむように、セバスティアヌスを見て訊ねる。


「名前は?」


「セバスティアヌス。セバスティアヌス・アレバロ」


 そう答えると、ディオールは、やはり何かを懐かしむように、海の向こうを見た。

 セバスティアヌスの故国、ダマスケナの方を。

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