外伝 朝陽
目を開いたセリーナの目は、なにかに取り付かれたように白く、そしてにやりと笑った。
『海神』
海が、轟々と音を立て浜に打ち寄せる。
「おいおい。お前、セリーナよお」
とキリオスは、その大波を見上げ頬の傷を掻きながら
「小さい傷だったな、こりゃ」
と諦めたように言った。
とてつもなく大きな波が打ち寄せる。
浜が、なくなる。その向こうにあった、セリーナとフェルナンド公爵の小さな別荘も大波に飲まれ跡形もなくなった。兵士たちもまた、無惨にも大波に飲まれ命を落とした。海の一部が海上に丸みを帯びて突き出ていた。セリーナがその海水の中にいた。白目を剥き、口角が上がっていた。その思い出に詰まった別荘の破壊に、息絶える兵士たちに、なんら感傷はなかった。ただ、土地が壊れていく。ただ、あらゆる物を破壊することができる。その力に溺れていた。
空に羽ばたく音があった。
「おいおい。こりゃどうにもならんぞ」
茶色いマントの老人ダンは、リピッドデッドの足に捕まりながら言った。
「助かったぜ、ダン爺。これほどとはな」
とリピッドデッドに襟首を掴まれたキリオスが、眼下をしげしげと見た。波が寄せる寸でのところでリピッドデッドに拾われたのだ。
「こ、こりゃ、おろせ!ひいいいい」
その隣で、これまたリピッドデッドに襟首を掴まれた女が不格好に暴れている。アルル・ピネットであった。
「あのよお、アーズ。ボスなんだからよお、多少はしっかりしてくれよな」
とキリオスが頭を掻く。
「う、うるさい!下ろせ、ダン!」
「いや、下ろせちゅうたってなあ」
とダンは下を見る。眼下はやはり海である。
「あ、あいつはなんだ、キリオス!聞いてないぞ!ダラディオスよりも何倍も強いじゃないか!」
アルル・ピネットは、その責任をキリオスに向ける。
「ダマスケナの怪人セリーナ。プリランテもハマナスも、ダラディオスとセリーナがいたからこのちっぽけな島国に手を出せなかったが、俺の頬に傷をつけたのは、兄貴のほうじゃねえ。あいつだ。しかし、こんな魔法は初めて見るぜ。海の力を限りなく取り込んでやがる。こんなちっぽけな傷で済んでラッキーだったな、俺も。はっはっは」
とキリオスは頬傷を掻きながら笑った。
「わ、笑ってる場合か!」
アルル・ピネットが叫んだそのとき、セリーナがその白目を上空にいる彼らに向ける。
『流』
と唱えると、さきほどよりも何倍も強い力を持った水が、アルル・ピネットに向かって発射される。
「う、うわああああああ」
アルル・ピネットは体をばたつかせる。
リピッドデッドが、堪え兼ねてアルル・ピネットを離すと
「うぎゃああああ」
とアルル・ピネットは海へと落ちていく。
セリーナの放った海水が空を切る。
「やべえぞ、ダン爺!」
キリオスに言われ、ダンはすぐさま髪の毛をぷつりと抜くと、手を下に向け『リピッド・デッド』と唱えた。その手より、赤黒い影が現れる。他のリピッドデッドよりも3倍ほどの大きさがある。
「原種か」
キリオスの問いに
「第二世代じゃ。わしはもうほぼ魔力ないぞ」
とダン爺は、はっと疲れたように肩を落とした。
その大きなリピッドデッドは、すぐさま急降下し、海水に落ちる寸でのところでアルル・ピネットを拾い上げる。そのまま未だ陸地が健在の高所へと彼女を送ると、再び大空へと羽ばたく。
「数分持つか」
とキリオスは、アルル・ピネットのそばに着地しながら言った。
「第二世代でなんとかなるか!原種を出せ!ダン!」
息巻くアルル・ピネットに、キリオスの後ろから着地するダンは言う。
「原種とキリオスが共闘してどっこいどっこいじゃろ、あれ。それに、原種が死ぬとあとあと大変じゃ。あと、わしの魔力も空に近い」
「魔力ならやる」
「いや、その前に」
と再びダンは髪の毛をぷつりと抜くと、地面に手をつく。
赤い瘴気を纏う人影が、その手の先より現れる。
「こいつを試そう」
「うふふふふ、よいな。よい案よ、ダン」
とアルル・ピネットは、邪悪に笑った。
キリオスは、ダンの薄い頭皮を見て言う。
「引退も近いな、ダン爺」
「そこは諸行無常よ」
ダンはこっくりと頷いた。
第二世代。繁殖に成功したモンスターのなかで、原種が第一世代とするなら、その血を最も色濃く受けとった子どもをそう呼んだ。第四世代より以降は大きさも力も均質になる。そのため、第三世代まではより強いモンスターとして扱われる。普通のリピッドデッドよりも大きく力の強い第二世代のリピッドデッドが、セリーナの周りを飛びながら攻撃の機会を伺っていた。
リピッドデッドの、その大きく鋭い嘴が、上空からセリーナを襲う。
セリーナが、そのリピッドデッドを見上げ、にこりと笑う。リピッドデッドの嘴がセリーナに突き刺さる。が、ぐにゃりと海水が変形すると、その嘴の力の向きが斜めへと逸らされる。海水に包まれ、苦しむリビッドデッド。
「やべえな」
とキリオスが大斧を振り下ろし、斬撃を放つ。アルル・ピネットの力を借りた、凄まじい破壊力の斬撃。それは、リピッドデッドを包んでいた海水を弾くと、その先のセリーナに向かう。
『海融』
とセリーナが唱える。
すぱりと割れるセリーナの体。しかし、海に融けると、再び体が形作られ、海水をまとい現れる。
「実態はあるのか?」
ダンの問いに
「わかんねえが、あの魔法を使うってことは俺の斬撃は当たれば効くんだろう。やべえ、こっちにくるぞ!」
キリオスは、セリーナを見て言った。
セリーナは、高所にいる彼らを視認すると、
『海神』
と左手を払った。
大きな波が、陸地へ襲う。
その波の勢いで、岩肌がえぐれる。
何一つ流しさる大波であった。
だが、その大波の被害をさけ、浜を、浜であった場所を、悠然と歩く男の影があった。
男が避けたのではない。波が、海水が、男を避けるようにして流れていく。
男は、その懐かしき浜辺を歩いた。赤い瘴気を纏ったまま。
ーーーー
力の欲に溺れたセリーナは、自ら溺れることを選択したセリーナは、その欲のままに、力を使った。理性はなくなり、人が死ぬことに、地形が変わることに、そこに現れる快楽をただただ貪った。
『海神』
と左手を払う。
大波が、陸にいる破壊の対象を襲う。
放ちながらに、波を操りながらに、破壊の欲に任せながらに、セリーナに残ったほんの少しの、残りかすほどの自我が、敏感にその男の存在を感じ取った。その瞬間、海水にセリーナの意志が宿った。波は歩いてくるその男を避けた。白目を剥き、破壊の欲に溺れながらも、しかしセリーナは、その男だけは、傷つけることはなかった。
それは、「愛」であった。
波が引いていく。浜辺が現れる。柔らかい光が海の彼方からさすと、男に影ができた。この場所で、二人で何度も見た光。幾度もこの場所で二人は愛を囁き、唇を重ね、愛し合った。幾度もこの場所で二人は朝を迎えた。かけがえのない、大切な場所。かけがえのない、どこまでも愛した、男。
セリーナの自我は、意志は、未だに薄弱であった。しかし、それでも、その男を見ていた。その男に、近づいていく。そして、何かに抵抗するように、
「あ、あん、た」
と言うと、海水がほどけるようにセリーナの体から離れた。そのときようやく、セリーナははっきりと意志を取り戻し、男を明確に見た。その、赤い瘴気を纏うフェルナンド公爵を。
フェルナンド公爵は、ゆっくりとセリーナに近づき、ナイフを刺した。
セリーナは、口から血を吐き出すと、フェルナンド公爵に体を預けるようにして、倒れた。
海水は、穏やかに引いていた。
公爵の瞳から、涙がこぼれた。
朝陽は、感慨もなくその涙を反射した。
二人が何度も見た朝陽は、いつもと変わらず、そこにあった。




