外伝① 小さく温かい
セバスティアヌスは、雨の中を走った。ずぶ濡れの衣服は鉛のように重く、彼の体力を奪った。走りながらに、彼の脳内に、カリサの死に際の光景がフラッシュバックする。
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激しい雨。煤で汚れ、もつれた赤い髪。微かに動く右手。セバスティアヌスの方へと伸びている。力を振り絞って顔を上げ、そしてにこりと笑った。振り下ろされる大斧。頭が飛んだ。血が吹き出る。
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カリサは、死んだんだ。
山火事のなか、倒れいく家屋から助け出した。公爵邸の庭で、花に水を遣る。小麦色に焼けた肌、すらりと伸びた足、影のない真っすぐな瞳。太陽の下、凛と輝いている。土で手を汚しながら、喜々として畑に手を入れる。夕日の落ちる海岸に、吸込まれるほど真っすぐな目で、そこにいた。物憂げに窓辺にいる。俺は手を伸ばし、彼女を笑顔にすると誓った。何度でも、何度でも。目の前に、ずっと、近くに、一生、君がそばにいてさえくれたら、それで。
再び、セバスティアヌスの脳内に、カリサの死に際の光景がフラッシュバックする。
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激しい雨。煤汚れ、もつれた赤い髪。微かに動く右手。セバスティアヌスの方へと伸びている。力を振り絞って顔を上げ、そしてにこりと笑った。振り下ろされる大斧。頭が飛んだ。血が吹き出る。
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腹の底から、行き場のなくなった塊が逆流してくる。セバスティアヌスは立ち止まり、嗚咽した。しかし、何もでてこなかった。何度もえづく。内蔵がでてこんばかりに、えづいた。だが、やはり何も出てこない。ただただ延々とある嘔気が、彼を苦しめる。
冷たい雨水が、髪の毛を、頬を伝い、口元へと入っていく。一滴、二滴と。それをごくりと飲み込むと、セバスティアヌスは、朦朧としながらも、なんとか歩き出した。
広場を抜けると、セバスティアヌスの馬があった。呼吸荒くなんとか乗り、馬を走らせる。都を抜ける。フェルナンド公爵の手紙にあった、西にある別荘へと向かう。
馬上のセバスティアヌスは、フェルナンド公爵のことを思った。俺に手紙を遣り、セリーナおばさんとともにロゼを守る手はずを整え、そして捕まったに違いない。若いときからいつも気にかけてくれていた。カリサのこともそうだ。山火事のあと、二つ返事でカリサを保護してくれた。実直で、豪快で、優しくて。公爵は、都のどこかに捕まっているに違いない。俺はその都に背を向けて馬を走らせている。公爵にも、カリサにも背を向けて、俺は、俺は。
カリサの死が、公爵への慚愧の念が、無力で未熟で愚かな己への自責が、彼を苦しめる。大地は仄暗く、轟々と空が轟く。雨脚は未だに強く、セバスティアヌスを追ってくる。
怒りだった。
アルルピネットへの。大斧の男への。そして、なにより己への。
沸き上がる怒りが、セバスティアヌスに活力を齎した。手綱をこれでもかと強く握った。噛みちぎらんばかりに歯を噛んだ。ついには、大声で叫んだ。耐えきれなくなり、どうしようもなく、体の底から、これでもかと、叫んだ。肺がせり上がったように近かった。呼吸が荒れる。短く、浅く。
ーーー「ロゼ」
カリサの、お腹の大きくなった、母の顔になったカリサの、声がした。それは、今のセバスティアヌスに、呪いのように響いた。
俺は、死んではいけないんだ。
セバスティアヌスは、頭を大きく振ると、深く呼吸する。
しかし雨粒は、すぐに前髪から幾度も垂れる。
しかし肺は未だに近く、息は擦り切れたように浅い。
なにもかもを振り切れなかった。開き直ることもできないほどの傷は、ただただそこにあるのを認めるほか仕様がなかった。セバスティアヌスは、苦しみの中、馬を走らせるほかなかった。
雨音は小さく、雨は弱くなっていた。
岸壁と岸壁に挟まれた小さな浜があった。その浜より少し上ったところに、小さな別荘があった。親しいものしか知らない、フェルナンド公爵夫妻の秘密の別荘であった。
カーテンは閉まっているが、中から微かに光が漏れ出ていた。
馬からおり、別荘に入る。
天井から吊るされたランプが眩しかった。
そのランプのもと、小綺麗にあるソファーやテーブルのそばに、セリーナが立っていた。
「よく。よく来たね、セバスティアヌス」
セリーナの声は、憂いに満ちていた。
「抱いておやり」
と腕にあった赤子をセバスティアヌスの方へと寄せた。
セバスティアヌスは、その赤子を見て、赤子を抱いて、立ちすくんだ。
「カリサと同じ」
とことばを落とした。
赤子の、爛々と明るい赤い髪の毛が、ランプの光に照らされていた。
腕の中にある、小さな赤子。眠っている。温かい。
セバスティアヌスの胸の内に、高まるものがあった。得もしれない、初めて感じる、温かみ。
「あんたと、カリサの、子どもだよ」
はっとセバスティアヌスは、セリーナを見た。いつも気丈なセリーナが、声を震わせ、そしてその瞳からは大粒の涙が流れ落ちていた。
「カリサと、俺のーーーー」
セバスティアヌスは膝まづくと、涙をこぼした。小さく呻き声をあげながら、しかし大粒の涙はとどまることを知らなかった。
二人は、泣いた。悲しみと、喜びと、苦しみと、冷たく、温かく、渦巻く感情の高まるままに、しかしその涙のきっかけとなったのは、その小さくも温かい赤子であった。




