外伝① 幸いの雨
セバスティアヌスは、力なく頭を垂れ、あらゆるものを口から吐き出した。
もう、何も、残っていなかった。
群衆の唸り声。アルルピネットの高笑い。大斧の男は退屈そうにセバスティアヌスを見ていた。吐瀉物をこれでもかと吐き出すと、セバスティアヌスには、何も残っていなかった。力なく、地面に倒れた。
つたつたと、雨が強くなる。
「カリサ...遅かったか」
と女の声が、セバスティアヌスの背後からした。ことばには、自責と無念の感がこもっていた。その声は、セバスティアヌスがよく知っているものであった。しかし、セバスティアヌスにはもう、振り返る力は残っていなかった。
周囲で、雨粒が弾ける。
地面にぶつかり弾けたのではない。雨粒が、空中で、それも小さな爆発のように、弾けた。
セバスティアヌスの周囲にいた兵士たちが、その爆発に退く。
大斧の男が、にやりと笑い大斧を振り下ろした。
斬撃がセバスティアヌスに向かって飛んでくる。
そのとき、セバスティアヌスの前に影ができると、
『水流』
とその影が水の壁で斬撃を止めた。いや、斬撃を受け流した。大斧の男の斬撃は、あらぬ方向へと飛んでいった。
「大丈夫かい、セバスティアヌス」
その影の正体。セバスティアヌスの良く知る人。フェルナンド公爵夫人であり、セバスティアヌスの父ダラディオスの妹でもある、セリーナ・アレバロであった。
「セリーナあ、老けたもんだなあ!」
大斧の男が、興奮気味に言った。
「キリオス、ハマナスの利かん坊が、とうとう国を追いやられたか」
セリーナは冷静に、大斧の男、キリオスを見た。
「ちげえよ、俺が、あのつまらねえ国を、捨てたんだ!」
キリオスは、セリーナに大斧を振り下ろす。
「くっ」
とセリーナは逃げるように後ろへ避ける。
「ふん、なんだ、お前分身か」
とキリオスはセリーナに興味がなくなったように、大斧を下げた。
雨は一層激しくなる。そのいくらかの雨が、セリーナの魔法によってセバスティアヌスとセリーナの周囲に壁をつくるように落ちる。音が、視界が、周囲から閉ざされる。セバスティアヌスの視界には、ずぶぬれのセリーナがあるのみであった。
「行くよ、あいつの気が変わらないうちに」
とセリーナは言いながらに、
『水流・線』
と一本の水を放つ。舞台の下、群衆を押しのけ、一直線に伸びる水の線が現れた。
セリーナのことばに、セバスティアヌスが顔を上げることはなかった。
ただただうなだれているセバスティアヌスに、セリーナは語気を荒げ言う。
「セバスティアヌス!子どもはまだ生きているんだ!」
はっと、セバスティアヌスの顔が上がる。セリーナが思いっきり腕を引っ張ると、彼はようやく背中を伸ばした。
カリサと、俺の、子どもが。
「あんただけが悲しいんじゃない!私も、捕まったあの人も、カリサは、私たちの子どもでもあったんだ!」
セリーナは、なおも語気強く言った。
激しい雨の中、セバスティアヌスは膝をついたまま、セリーナを睨む。
「では、では、なぜ、なぜカリサを助けてくれなかったのですか!?俺なんかはどうでも良かったのに。叔母さんはこの国一の魔法使いで、なぜ」
ぴしゃりと、セリーナの手がセバスティアヌスの頬を打った。
「助けたかったに決まってる!あの子が、カリサが、あんたたちの子どもを、私たちの孫を、守ってくれって!」
そしてセリーナは俯き、その頬を雨で、涙で濡らしながら、ぽつりとことばをこぼす。
「私も、体一つの、人間なんだ」
そのとき、斬撃が水の壁を割り、そしてセリーナの体をも襲った。
セリーナの体がまっぷたつに割れ、ぱしゃりと水に変化していく。
「立て、セバスティアヌス!カリサの残した物を、守るんだ!」
そう言い残し、セリーナの体は、滝のように落ちる雨とともに流れていった。
水の壁がなくなる。
「セリーナの本体はどこだあ?アレバロ家の落ちこぼれ君」
とキリオスが近づいてくる。
「早く終らせろ、キリオス」
アルルピネットのことばに「へいへい、アーズはせっかちだぜ」とキリオスは大斧を構える。
雨がセバスティアヌスを打つ。
偉大な父ダラディオスは死んだ。セリーナおばさんはもうここにいない。フェルナンド公爵は捕まった。
ーーー「立て、セバスティアヌス!カリサとあんたの子を、守るんだ!」
セバスティアヌスのなかで、セリーナのことばが頭に反芻していた。
カリサ。
ーーー「昨日決めたの。この子の名前。このダマスケナの土地で、真っすぐに、情熱的に、元気な子に育ってほしい」
「腑抜けた顔しやがって」
とキリオスが大斧を振り上げ
「死ね」
と振り下ろす。
ーーー「ロゼ」
カリサの大きなお腹が、そして温かくも美しい声が、セバスティアヌスのなかにあった。
セバスティアヌスは、剣を握った。表を上げた。
俺はまだ
「死ねないんだ!」
剣に風を纏わせ、力強くも冷静に、セバスティアヌスはキリオスの大斧を受けた。いや、受け流した。風で微かに力の流れを変え、なんとか左へ大斧を弾いたのだ。それでもセバスティアヌスの両手には、びりびりとしびれがきた。
後ろへ下がり、群衆を見た。滝のような雨は、幸いにも彼らの興奮を冷ましていた。未だに群衆から立ちのぼる赤い瘴気は、まだアルルピネットの支配のなかにいることを示していた。セリーナが群衆を割るようにつくった水の道が、小さくはなっていたが、それは線として残っていた。セバスティアヌスは、『風塵』と風を自らの周囲に発生させると、走った。その細い線を。群衆を寄せ付けないように。
ぶわりと、背後から圧があった。
来る。大斧の斬撃が。
セバスティアヌスは、振り返ることをしなかった。間に合わないと悟り、その運命を天に任せたのだ。しかし、斬撃はセバスティアヌスのもとへは届かなかった。セバスティアヌスは、大いなる安堵と、神の気まぐれに感謝しながらも、次にはロゼのことを思い、走った。
やはり、振り返ることはなかった。
ーーー
広場の雨が落ち着く。
「ふん、アーズ、お前の魔法も、完璧じゃねえんだな」
と大斧に付いた血を払いながら、キリオスは言った。
「その名はやめな。くそっ」
とアルルピネットは、まだ温もりの残る真新しい死体を蹴飛ばした。
キリオスの大斧によってまっ二つになった、兵士の死体であった。セバスティアヌスの隊にいた、おしゃべりで、気のいい若者であった。




