外伝① 続き 大斧は無慈悲にも
「すまない、みんな」
ぽつりとことばを落とし、セバスティアヌスは馬を走らせた。そのぽつりと落としたことばが、セバスティアヌスの中に最後に残っていた公人としての責任であった。
ーーーカリサ。カリサ。無事であってくれ。生きて。
馬をひたすらに走らせる。
焦り、苛立、怒り、渦巻く感情の中にあって、ことを冷静に分析する自分があった。黒い炎。しかし、一線は退いているものの、あの父親が火事から逃げられないということがあるか、とセバスティアヌスは思った。
セバスティアヌスの家系であるアレバロ家は、代々傑出した武官を出しており、父親のダラディオスもまたその一人であった。アレバロ家は魔法にも優れており、ダラディオス・アレバロの妹セリーナ・アレバロ、つまりフェルナンド公爵夫人もまた、ダマスケナ第一の魔法の使い手として知られていた。四半世紀前に起きたハマナスとの海戦以降も、そもそもモンスターの去来することもなかった平和なダマスケナだが、その海上戦、ならびに防衛戦で英雄級の武勲を上げたのが父親のダラディオス、そしてセリーナであり、未だに二人はその強靭さと力を保っていた。セバスティアヌス自身は、器用貧乏なところがあった。早くに亡くなった母親に似たのか、線が細く、10代のうちは父親の家系ほどは期待されていなかったが、それでも世代では抜きん出た力を持っていた。強靭で強大で逞しい父と叔母に葛藤を抱いた時期もあるほどに、セバスティアヌスにとって父親のダラディオスは大きな、そして強力な存在であった。だからこそ、自宅の火事から逃げ出せなかったことに、疑念が沸いた。例えカリサの魔力が暴発したとしても、父親なら逃げ出せたはずだ。
ーーー女占い師と、深い陰謀
フェルナンド公の手紙にあることばを思い出し、セバスティアヌスは歯ぎしりした。こんな非常事態に都にいれなかった自分。いや、そもそもこの長い任務も陰謀のなかのうちの一つなのだろうか、と。公人としての自己はやはりとうに消えていた。父親の死の衝撃もあった。だが、なによりもカリサの無事を祈るように思った。
セバスティアヌスは、フェルナンド公の忠告に反して都に向かっていた。カリサはどこに捕まっている。まずは情報が欲しい。向かう先は、都のなかでも閑静な場所にあるフェルナンド公爵の邸宅であった。
街を迂回するように馬を走らせる。
つと、街の中心にある広場が気になり馬を止める。人だかりが遠目にでも見える。
予感。
それも悪い予感である。しかしそんなすぐに、という疑念もあった。とにかく、セバスティアヌスは行き先を変え、馬を広場へと走らせた。
段々と人通りが増えていく。一様に興奮しているように見える。セバスティアヌスは馬を下りると、フードを深く被り走る。
広場の端までやって来た。やはり人はごった返している。
「、、様がやってこられるぞ」
「ようやくだ、お目にかかれる」
などと人々は話している。
広場の正面に、一段高い舞台があった。今までなかったもので、人々はその舞台をなんとなしに注目していた。なぜあんなものが、と。セバスティアヌスは、自身の予感に苦しんだ。焦燥感が、苛立が、沸き上がる。
そのとき、中央通より歓声が起こった。
「アルル・ピネットのお通りだ!」
誰かが叫んだ。
中央通から御輿が現れた。
セバスティアヌスには、遠目で誰が乗っているのかがわからない。しかし、アルルという名前。まさか、いや、やはり。
御輿が入ってくると、歓声は波のように広がり、広場全体が異様な興奮に包まれる。
「アルル・ピネットのお通りだ!アルル・ピネットのお通りだ!花も枯れるほどの美しさ。空気も汚れる美しさ!」
「アルル・ピネットのお通りだ!空気も汚れる美しさ!」
「アルル・ピネットのお通りだ!頭を垂れろ、顔を見るなよ、美しすぎて、目が死ぬぞ!」
誰かが言ったそのセリフを、そして誰かが口々に言い出す。
セバスティアヌスは、群衆をかき分け、御輿に近づいてく。ふと気づく。
赤い瘴気だった。御輿が通ったそばから、群衆から赤い瘴気が漂っていくのだ。
御輿は中央広場の舞台までやってくる。
女が御輿に乗っていた。セバスティアヌスは、その女を愕然と見ていた。浜辺であった、市場であった、あの、女だった。すらりと伸びた背筋。吸込まれそうな大きな黒目。そして、赤い瘴気が、明確に、その女から発せられている。
後悔が、悔いが、セバスティアヌスを苦しめる。
あの、女が、やはり。
「アルルピネットのお通りだ!」
誰かの声が伝染し、そして赤い瘴気もまた伝染するように広がり、広場全体から、群衆一帯から瘴気が発せられていた。それはまさに、一塊の狂気であった。
女、アルルピネッドは、満足げに頷くと、笑った。高笑いだ。邪悪な、微塵の善もない、悪魔のような高笑い。だが、最早誰もその悪に気づけるものはいない。誰もがその悪魔に熱中し、惑わされ、そして崇拝していた。
アルルピネッドは、叫ぶ。
「連れておいで!」
赤い瘴気を発した屈強な兵士が、襤褸切れを着た女を引きずるように連れてくる。
セバスティアヌスの、最愛の人。
予感は、的中した。
「カリサ!」
セバスティアヌスは叫んだ。しかしその叫び声は、群衆の興奮にもみ消された。
「この薄汚い顔!」
とアルルピネットはカリサのあごを掴み、群衆に向ける。カリサの顔は、煤で汚れていた。頬は痩け、目に色はない。襤褸切れから露出した皮膚には、鞭で打たれた痕があった。
「この薄汚い髪!」
と今度は髪の毛を引っ張った。爛々と明るい赤い髪の毛は、やはり煤で汚れ、もつれていた。
「この女は、国を燃やす火の悪魔だ!」
アルルピネットのことばに、群衆はより一層の興奮で反応する。どこからか放たれた「殺せ」ということばに、一帯となって皆が続く。
「殺せ殺せ殺せ殺せ」
アルルピネットは満足げに笑うと、剣を持った男が現れた。
「カリサ!」
セバスティアヌスは一人、舞台へともみくちゃになりながらも進んだ。
人を押しのけ、倒し、とにかく前へ。一刻も早く。
「邪魔だ!どけえ!」
カリサ!
カリサ!
痛いだろう、辛いだろう。なぜ、そんなにも汚れている。そんなにも痣だらけで、俯いて、顔を上げない。君は、真っすぐで、強くて、俺の太陽なのに。誰が、こんなことを。なぜ。違う。なぜ俺は、君のとなりにいない。なぜ、俺は君のとなりにいない。なんで、俺は君の隣にいてやれないんだ!なんで、俺は、何度でも君を笑顔にすると約束したのに、くそ、俺は、くそ!
カリサ、カリサ、カリサ!
「カリサ!」
セバスティアヌスは剣を抜いた。
彼の周囲に風が舞った。
群衆に小さな隙間ができる。
セバスティアヌスは、とうとう舞台の前までやって来た。
「はははは、遅かったわねえ」
とアルルピネットは指を弾いた。
兵士が続々と現れると、セバスティアヌスの壁になる。セバスティアヌスの知っている顔が何人もいた。意地の悪かった上官、慕ってくれた若い兵士、切磋琢磨した同僚、その誰もに、赤い瘴気が漂い、そして充血した目はうつろに感じた。
しかし、セバスティアヌスの剣に、躊躇いはなかった。
兵士たちと剣がぶつかる。
『風塵』
セバスティアヌスが、剣を交えながらに唱えた。
彼の周囲に強い風が起こると、兵士たちが小さく仰け反った。その隙に、セバスティアヌスは剣を走らせた。日々鍛錬をともにした仲間に向けて。セバスティアヌスに、加減を加える余裕はなかった。致命傷かどうか、わからないままに、仲間を切った。重なる罪に、セバスティアヌスは一瞬の苦悩を持った。いや、一瞬とも言えない、思考とまでも言えない、感覚的な苦悩であった。
ーーーカリサは、カリサは無事か
とその心はやはり常にカリサの身を按じ、そちらに視線を向けるのであった。
兵士の一陣をセバスティアヌスは一人で突破した。
舞台に上がる。
「カリサ!」
セバスティアヌスの声に、カリサがびくりと体を反応させる。
処刑人の剣が上がる。
セバスティアヌスは、剣を斜めに一度振り、唱えた。
『風刃』
風の刃がその処刑人に向かうと、処刑人はその刃に倒れた。
そのとき、舞台の脇から大柄な男がのっそりと上がってきた。
セバスティアヌスは気にせず、再び剣を振り、唱えた。
『風刃』
アルルピネットに向かって、風の刃が飛ぶ。
アルルピネットは動かない。
刃が、届く。と思われたそのとき、大柄な男が、その大きな斧で、セバスティアヌスが放った刃を叩ききった。
セバスティアヌスは、ぎろりとその大柄な男を睨んだ。この男のみ、赤い瘴気が漂っていない。ダマスケナの人ではないな、とセバスティアヌスは直感的に思った。皺が深い。一回り年上か。しかしその筋肉は隆々で、大斧を片手で振り回している。右の頬に深い古傷があった。男はそのほほ傷に触れ、にやりと笑い、言う。
「古傷がうずく。お前、アレバロ家のものだろう?」
セバスティアヌスは答えず、剣を構え男に向かっていく。
一度、二度と打ち合う。
セバスティアヌスの目の端には、力なくうなだれているカリサがあった。
あと少しで、この男さえ倒せれば、君の手を握ることができる。
ーーーカリサ!
「うおおおおおおおお!」
セバスティアヌスは、剣を振り下ろす。
男は、つまらなさそうな顔で、セバスティアヌスの剣を大斧で弾き、
「お前、アレバロ家のものにしては」
とだるそうに大斧を振り上げる。
セバスティアヌスは、距離をあけ、剣を一直線に男に向けると集中する。
そして、放つ。
『風哮』
鋭い風がセバスティアヌスの剣先から放たれると、一直線に男に向かっていく。
「よえええなああああ!」
と男は途端に語調を上げると、大斧を鋭く縦に振り、セバスティアヌスの風をいとも簡単に切った。それだけではない。その男の振った大斧の斬撃が、そのままセバスティアヌスに向かってくる。それは、セバスティアヌスが使ったような風の魔法ではない。ただ、男が大斧を振り下ろした余波による斬撃が、距離の離れたセバスティアスヌにまで飛んできたのだ。その余波ですら、凄まじい力を持ってセバスティアヌスを襲った。
「くっ」
と剣でそれを受けるが、その凄まじい力にセバスティアヌスは後ろに飛ばされる。
「なっ!」
背後から腕を掴まれる。赤い瘴気を纏ったダマスケナの兵士たちが、セバスティアヌスをがんじがらめに捕まえた。
「や、やめろ!」
セバスティアヌスの声は、届かない。
大斧の男は、不敵な笑みを浮かべながらカリサの方へ歩いていく。
「やめろ!頼む、やめてくれ!」
セバスティアヌスの懇願するような声は、虚しくも舞台上に響いた。
アルルピネットが高笑いに言う。
「いつの時代も、虫の声は心地いいねえ」
男が、にやりと笑いながら、大斧を振り上げる。
「カリサ!」
セバスティアヌスの声に、カリサがびくりと顔を上げた。
大きな雲が、太陽を隠した。
ぽつりぽつりと、雨が落ちてきた。
カリサの右手が微かに動くと、セバスティアヌスの方へと伸びた。
「カリサ!」
セバスティアヌスは、喉がすり切れるほどの声で叫んだ。
カリサ。
カリサ。
俺は、その右手を。カリサ。君が何度俯いても、君が何度落ち込んでも、君の手を引っ張って、その暗闇から助ける。そう誓ったんだ。そしたら君は、まぶしいような笑顔で笑いかけてくれる。カリサ。俺が、君を何度でも助けると誓ったんだ。
セバスティアヌスは、兵士の腕を振りほどき、右手をカリサのほうへと伸ばした。決して届かない、右手を。
カリサが、それを見て、カリサが、にこりと笑った。
笑わなくていい。
辛いんだろう。
痛いんだろう。
苦しいんだろう。
カリサ。
カリサ。
俺のために、笑わなくて、いいんだ。
大斧が、振り下ろされる。
ぽとりと、頭が落ちた。
赤い血が、吹き出た。
雨が、少しづつ強くなった。
「カリサああああああ!」
喉がすり切れるほど、セバスティアヌスは叫んだ。それがセバスティアヌスの、最後の魂であった。
群衆の狂気、群がる兵士、アルルピネットの高笑いと、大斧の男は見下ろすようにセバスティアヌスを見、そしてカリサの頭は、ことりと転がっていた。
セバスティアヌスは、力なく頭を垂れ、あらゆるものを口から吐き出した。
もう、何も、残っていなかった。




