外伝①セバスティアヌスの過去ーーカリサとの恋
さて、運命の出会いから1年が経ったのであるが、あれほど運命を感じたセバスティアヌスだが、二人の仲に大きな進展があったわけではない。だからフェルナンド公爵夫妻はやきもきし、こうして二人っきりになれるよう気を利かせた。それがわかっているからこそ、二人は緊張のなかに、距離を詰められないでいた。
セバスティアヌスは、すでに20をいくつか超えた年で、女の経験がないわけではない。しかし、本当の恋に落ちたのはこれが初めてではないかと思うほど、彼はカリサの前になると、無垢で純情で奥手な思春期の少年に戻ってしまうのであった。
今日こそは、声をかけよう。
セバスティアヌスは、テラスから庭先に出た。
奇麗な色とりどりの花が咲いていた。
しかし、セバスティアヌスには、そのなかに立つカリサの方が何倍も綺麗に見えた。
「き、奇麗なお花ですね」
セバスティアヌスは、声をうわずらせ、言った。
「奥様が、お花が好きで」
カリサもまた、少しぎこちなく返した。
太陽は優しく二人を照らす。
セバスティアヌスの気持ちは、しかし焦っていた。話を、何か、話をしないと。
「こ、このお花は、なんという花で?」
セバスティアヌスの問いに、カリサは黙した。怒らせたか?どうしたのだろう。とやきもきとしてると、カリサが少し俯き、口を開く。
「ごめんなさい、お花の名前を知らなくて」
「いえ、そんな。花の名前など、いいのです」
と慌てて言いながら、セバスティアヌスは花壇の向こうにあるいくつかの畝が気になった。前に来たときにもあったのだろうか。しかし、畝からはなにやら植物が伸びている。
「あちらの畝は、なんですか?」
セバスティアヌスの問いに、カリサがぱっと表情を明るくする。そして、ずんずんとその畝まで歩いていく。途端に早口になり、言う。
「奥様にお願いして、場所を借りたのです。野菜を作ろうと思って。こちらの畝がピエントです」
「ピエント。あの辛いやつですか」
「はい!南ダマスケナではよく使われるんです。そして、こちらの畝がブラックスディッシュ」
「ほう。黒色のスディッシュ。珍しいですね」
「ええ。市場で種を見つけて。お店の方が言うには、普通のスディッシュより荷崩れしにくくて、それに味も染みやすいらしくて。ピエントの方はどんどんと伸びてくるので、支え木がもう少し必要ですね」
とカリサは畝の奥に置いてあった緑色の棒を取ると、畝に差した。腕まくりし、土を小さく掘る。もう一本の棒を少し離れた場所に差すと、糸を両方の棒にピンと張らせる。片方の棒が倒れそうになるのを、セバスティアヌスが支える。
「ありがとうございます!」
とカリサは、溌剌と言った。はさみをどこからか取り出すと、慣れた手つきで茎や枝をちょきちょきと切っていく。先ほどまでの奥ゆかしさは微塵もなく、生き生きと植物に手を加えていく。そのギャップが、太陽のもとにいる彼女の清く純真な姿が、セバスティアヌスの心臓をさらに波打たせる。
どうしようもないほど、感情が、体中に満ち満ちていく。
ダメだ。落ち着け、と自問する。
「好きです」
「へ?」
とカリサはきょとんとセバスティアヌスを見た。
セバスティアヌスもまた、自分でもびっくりしていた。思いがけず、いや、どこかで思い切って、ということなのかもしれない。自分の知らない自分が、思い切って、言ったのかもしれない。とにかく、口からでてしまったものは仕方がない。もう、引っ込みはつかない。
「す、好きです。カリサさん」
カリサは、はさみをぽとりと落とし、頬を染め、小さく、こくりと頷く。
全身に満ちる幸福感に、セバスティアヌスは、頬が落ちるほど頬を緩めた。緩むものは仕方がない。止められない。気持ちの悪い顔をしているだろう、とセバスティアヌスは、カリサに顔を見られないようにと、テラスの方を振り返った。
にやりと笑う公爵夫妻がそこにいた。
「お茶にしましょう。二人ともこちらへ」
セリーナおばさんが言うと、二人はおずおずとテラスへと向かった。
それからというもの、セバスティアスヌがフェルナンド公の邸宅を訪ねることが増えた。
「最近、妙な占い師が時折中枢部に出入りしておってな」
テラスの柵に手をつきながら、フェルナンド公はいつになく真剣な表情で言った。
「占い師?」
とセバスティアヌスは聞き返した。
「ああ。流浪の女占い師らしい。頻繁に、というわけではないが、時折現れる。フードを目深く被っておって、あまり目元まではわからんが、それでも希代の美女であろうことは推察できるほどの気品に溢れておる。ただ」
「何か懸念がおありで?」
「なんとも、不気味でな。あと、王がかなり入れあげておるように見える。王ばかりか、その側近たちもな。俺はあの辺からしたら弾かれものだから、あまり深く関わっておらんが。お前の親父もかなり懸念しておる。まあ、今のところは時折城に出入りしておるぐらいで、不審な動きはないんだがな。おお、カリサが来たぞ」
ゆったりとした薄手の長いスカートに、薄ピンクのターバンをしたカリサが現れた。ターバンからは、カリサの鮮やかな赤い髪がちらりと覗いている。
「おいセバスティアヌス、早くエスコートしてやれ」
フェルナンド公に言われ、はっとセバスティアヌスは我に返る。
その美しい立ち姿に、見とれていたのだ。
「行きましょう、カリサさん」
「はい」
とカリサが言うと、二人は邸宅の扉へ向かった。
「未だにさん付けかい。近頃の若者はったく」
とフェルナンド公はため息をついた。
オレンジサファイアとも呼ばれる、ダマスケナ海岸を歩く。
沈黙があった。
「や、野菜のほうは、どうですか?」
「ええ、もうすぐ収穫です」
「お、俺も、手伝いにいきましょう」
「うん、うれしい」
とカリサがにこりと笑った。
どきりとセバスティアヌスの心音が高鳴る。
「セバスティアヌス、お仕事はどう?」
カリサが問うた。
告白してからというもの、カリサはフランクに話してくれるが、当のセバスティアヌスが緊張しっぱなしで、どうにもならない。
「え、ええ、まあまあです」
などと未だに他人行儀に、カリサと目を合わすこともできない。セバスティアヌスにとっては、カリサがそばにいるともう会話どころではない。しかし何か話さないと、と頭がこんがらがっていると、なんの前触れもなく、ふと、自然に、カリサとセバスティアヌスの手が触れた。
セバスティアヌスは、カリサの手を握った。告白したときと同じであった。勢いというか、セバスティアヌス自身も、自分の知らない大胆な自分に驚きながらも、一方で小心もあった。手に汗がこもっているかもしれない。カリサさんは、嫌ではなかろうか。しかしそんな懸念は一瞬で、そのカリサの温もりと、そしてセバスティアヌスの体中に充満する幸福感に、彼は酔いしれた。もう、沈黙など気にならなかった。カリサもまた、手を離さず、二人は歩いた。オレンジの海岸を。
薄く暗くなってきても、二人は歩いていた。もうすぐ夜だ。なぜこうも時間は過ぎる。セバスティアヌスは、この時間が終わるのが、立ち止まるのが怖かった。
そのとき、向こうから女が歩いてきた。身長の高い、マントを着た女。すれ違う。女がよろめく。
セバスティアヌスは、咄嗟にカリサの手を離し、そのマントの女を支えた。女の顔が近い。顔を隠していたフードがはだけると、目があった。黒めが大きい。吸込まれるような、蠱惑的な目だった。奇妙にも、その目が赤く光ったように感じた。なんだか不思議な感覚が、セバスティアヌスの体に走る。吸込まれる。しかし、セバスティアヌスの左手には未だにカリサのぬくもり残っており、その温もりが、セバスティアヌスを踏みとどまらせた。
冷静になり、言う。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとうございます」
と女は少し低い声で言うと、そのまま去っていった。
振り返ると、カリサはじとりとセバスティアヌスを見ていた。
「奇麗な人でしたね、セバスティアヌス」
「い、いや、カリサさん、綺麗は綺麗だけど、もっと、なんていうか」
「なんていうか?」
「その」
とことばを詰まらせながらも、セバスティアヌスは言う。
「カリサさんの方が、綺麗だな、と」
見つめ合う。
そのカリサのまっすぐな、純然たる瞳に、セバスティアヌスはいつまでも見とれる。いつもなら咄嗟に目を離すところだが、そのときばかりは、カリサの美しさに、それこそ吸込まれるように見とれていた。
「セバスティアヌス。私はカリサ。さんはいらない」
カリサが囁くようにいうと
「カリサ」
とセバスティアヌスは呼び、カリサを抱きしめた。
月の輝く海岸に、その永遠を、一瞬を、二人は刻むように、そこにいた。
俺は、この女性を守るために生まれたのだ。この小さな島国、ダマスケナで。それが、俺の最上の幸せなのだ。




