黒の魔法と白の魔法
あの耳の長い一族は言ったという。人間たちがこの力を持ってはいけなかった、と。彼らはそのエネルギーを、魔の力と名付けた。魔の力、つまり魔力を使って起こす事象を魔法と名付けた。あの赤い土地から発生する魔の力とは、欲望に共鳴するエネルギーである。
魔法には無限の種類がある。中でも、白い魔法、光の魔法、呼び名はどちらでも良いが、それらを純然たる愛の結晶の賜物だと世の人々は崇め奉った。そんなわけがない。無知な馬鹿どもの戯言だ。ただ、白のイメージを伴っているだけで、もしくは偶々魔法発生時に白く光っているだけで、他の魔法と同じ欲望の塊であることに変わりはない。人々は言う。他者の命を救うために自らを犠牲にし、白い魔法が起きた。だから、その魔法は純然たる愛が生んだ、欲望とかけ離れた奇跡である、と。違う。救った相手は、つまり白の魔法を使ったものは、その場で対象を見捨てることよりも、自らの生き様を選ぼうとしたのである。そのナルシズムの欲望に反応し、魔法が発生したのだ。そこで対象を見捨てて、その後の人生を生きていくことに耐えられなかった、自己犠牲という形を取ったとしても救おうとすることで、自らの人生を美化させた。自らの人生を考えた時、自死が最も良い選択肢であった、もしくは自己陶酔の結果である。
母子間で起こった白い魔法、それは母の子に対する同一化である。自らの半身のように子供をある種私物化し、一個の生き物として存在を認めきれていない。もしくは、その子供がいない後の人生が考えられなかった。または、子を守るのが母という、母親という役割の刷り込みである。父子間はどうか。ヒロイックな自己犠牲によった、これもまた自己陶酔だ。
たとえば対象が死んでしまって、悲しみが起きたとしよう。その喪失感は凄まじいかもしれない。だが、それはことが起きた後の話である。その場所その場面においては、二択しかない。結果、どちらの選択肢にしろ自分の欲望を優先している。一見身体的に負担がかかっていて利他的に見える行動も、実は精神的には楽な方を選んでいるのである。もしくは世間的な強迫観念が、選択を狭めているかのどちらかである。魔力というエネルギーは欲望に共鳴するエネルギーだとわかった今、白の魔法、光の魔法もそういうことなのである。
白、光とは真逆のイメージに、黒の魔法がある。これこそ奇跡であると、初めて豚野郎の魔法を見たときに思った。私は、魔力と永遠の命という欲求をつなげ、限りなく生きられるよう黒の魔法を進化させた。リスクはある。が、適合すれば、永遠の命もそれは夢ではなくなる。
人は、自分の欲望に基づいて生きている。語られるあらゆる愛など偽りの綺麗事である。全ての行動の根底に、自己の欲望がある。世界を否定するつもりはない。浅ましく植え付けられた善悪をもとに、虚構の世界は平和を掲げて回転している。それが、人々の出した一つの答えなのだから。だが、だからこそ言いたい。この世界は嘘偽りの充満したものなのだと。誰もお前のことなど心配などしていない。心配しているとすれば、お前がいなくなった後の自分のことだけだ。もしくはシチュエーションの中で自己陶酔に酔っているか。悲しんでいるのは誰だ?お前じゃない。結局自分だ。
正真正銘のアホがいる。理屈の外にいる。私は、他者への愛を否定した。それは理屈にかなっているはずだ。魔の力とは、そういうものなのだ。
白い魔法だって例外ではない。他の魔法と変わらないはずだ。
アホめ。理屈の外から、私の理屈を否定するような笑顔がある。だから、アホは嫌いだ。




