ルイ、腐敗す
奇跡的な邂逅だと思った。
「オルソンさん!」
懐かしい声に、はっとルイは顔をあげた。
元も高かったが、さらに幾らか身長が伸びている。少し太ったのか、女性らしくなったというのか、体全体が少し丸みを帯びている。屈託のないチャーミングな笑顔は相変わらずで、アリナのその笑顔にルイもまた、つられるように表情がほぐれた。
「あ、アリナさん、久しぶり」
と高鳴る心拍を隠すように、落ち着いて言った。それでも声は、うわずっていた。
「オルソンさん、キャトルに戻ってきたの?!」
目を輝かせながら、アリナはルイを見ている。
「え、ああ、ちょっと野暮用があってね」
と二人で往来の激しいストリートを避け、路地の隅へ。
「アリナさんは、今は」
「うん。学校卒業して、お店で働いてるよ。ここから結構近いんだけど」
「へえ、今度行ってみようかな」
「オルソンさんはダメだよ!女の子向けの可愛らしいのしか売っていなから」
とアリナは昔のようにチャーミングに笑った。
「今日は休みなんだ。友達と待ち合わせてて。あ、でも、大丈夫、まだ時間あるから」
とアリナも高揚があるようで、早口に言った。
「元気そうでよかった。えっと」
と一度ためながら、言葉をつむぐ。
「お母さんは、元気?」
「うん、元気だよ。オルソンさんがトワイトに帰ったぐらいから、家にいることが増えたと思う。なんて言うの?男遊びが減ったっていうか」
アリナの言葉に、ずしりと重くなる。当時、アリナとファロン夫人の時間を奪っていた一人が、自分でもあるのだ。
「それからよく私と出かけることも増えたんだ。ママはおしゃれだから、この服もママに選んでもらったんだ」
とニコニコと、アリナは着ている花柄のワンピースを撫でた。膝上ぐらいの丈だが、若い子は足を見せることに躊躇がないな、とルイは視線に困りながら思った。
「実は…」
珍しく、アリナが言葉を詰まらせた。言っていいのかわからないが、吐き出したいことがあるような様子である。ルイは、促すように「実は?」と訊ねた。
「うん。実は、ずっと誰にも言えなかったことがあって。オルソンさんなら」
とアリナはチラとルイを見た。3年以上前、彼女に勉強を教えながら、よく聞き役に徹していたことを思い出す。ちょうど良い話し相手なのだろう。
「いいよ。なんでも話して」
「うん。あの時、オルソンさんが帰っちゃうぐらいの時、ママ、妊娠してたんだ」
「え?」
突然の情報に、ルイは、頭が真っ白になる。
「妊娠?」
「うん。この歳になって妊娠の症状とか知って、やっぱりそうだったんだって。ママにつわりっぽい症状あったし」
「本人が言ってたの?」
「ううん。ばあばとママが話してるの、こっそり聞いちゃって。それからずっと誰にも言えなかったんだ。別に誰かに言う必要もないんだけどね」
とアリナは、どこか自嘲的に小さく笑った。ルイの見たことのない、アリナの表情であった。嘘をついている様子はないし、わざわざ久しぶりに会った自分に嘘をつく必要もない。ずっと喉元に、魚の小骨のようにつっかえていて、でも誰にも言えなかったんだろう。当時よく話していたルイと久しぶりに会って、その小骨のつっかえがぶり返したようだった。
「結局、産まなかったから、多分堕しちゃったんだと思う。ママが直接私に何か言ってきたわけじゃないけど、やっぱり私のせいかなって、悩んだんだ。学校に行くのにお金もかかるだろうし、よく喧嘩もしてたから二人目を育てるとか考えられなかったんだろうなって」
ルイの心音は激しく高鳴っている。冷静を装い、言う。
「い、いや、決してアリナさんのせいでは。俺が、トワイトに帰る前ぐらいのこと?帰った後?」
「どっちだったんだろう。ほんと帰るか帰らないかぐらい。オルソンさんが帰っちゃって、ママすっごい落ち込んでて。ほんとそのちょっと前ぐらいから吐いたりしてて体調悪そうだなって思ってて。その時にばあばと話してるの聞こえてきちゃったんだ。ママ、あの時会社の上司のおじさんと付き合ってたから」
ルイの気持ちが激しく沈んでいく。当時の、中年男性とファロン夫人の密会がフラッシュバックする。と同時に、自身とファロン夫人との情事も思い出された。
俺か?俺の子供だったかもしれない。だけど、いや、あのおっさんかもしれない。
アリナの話は続く。
「ママ、ちょっとの間荒れてた。だけど、それからちゃんと家にいること増えたんだ。その上司の人とも別れて。ごめんね、久しぶりにあったのにこんな話。なんかずっとモヤモヤしてて、誰かにしたかったんだけど、誰にも話せないし」
アリナは、決してルイがアリナの母、ファロン夫人と情事があったとは思っていない。ルイが、そういう雄ではなかったと信じていた。だが、ルイはそういう雄であったし、アリナをずっと悩ませていた原因が自分である可能性も高かった。
俺か。いや、あのおっさんかもしれない。
俺かーーーいや、でも。
俺が悪いのか。同時に遊んでいた夫人が悪いだろう。
いや、俺の意識の低さが招いたことか。
俺じゃない。あのおっさんだろう。
俺よりも、あのおっさんと会っていた回数の方が、多かっただろう。
何度否定しようとしても、自分である可能性を0にすることができなかった。今までの色んなことが頭からすっ飛び、そのことだけが堂々巡った。
結局、俺かもしれないし、あのおっさんかもしれない。いくら考えてもその答えになった。もう、確認するすべは、未来永劫ないのだ。だから、俺かもしれなかった。
世界がぐらついた。
色が消える。沼にとぷんと浸かっている。頭の先かさ、足先まで。
平和な時代の、一般的な家庭に生まれ育った中で観てきた倫理感、育まれた自己愛、築かれた自尊心は、今彼を鋭く突き刺していた。その一線は、絶対に超えてはいけなかった。多くの不幸な出来事も、自らの失態も、今の自分に至るまでのある種の経験と捉え、「あんなことがあったから、今の自分はこう考えられる」と、そこに何らかの言い訳が含まれていたとしても、決着をつけることができた。自分を本当の意味で嫌いになることはなかった。他者への強い劣等感の割にあった、心のうちにあった高い自尊心は、彼に社会での生きづらさと、人生を生きるためのしぶとさというふたつの引き算と足し算を持たせていた。だから、社会で生きることに辛くなり、悩んだ。だから、それでもまた人生に対して開き直ることができた。未来への希望を見出すことができた。幸せを感じることと、幸せを想像することができた。だが、唯一残っていた、唯一頼っていた内々の自尊心が、今、確実に壊れた。溶けた。腐った。田んぼに反射した朝陽に、緑々と深い森の緑に、頬を撫でるそよ風に、アルテやアルトの笑顔に、心のうちから感動すること、喜ぶことは、もうないのだろうと思った。今していることが、今後していくだろうことが、未来にしたいことが、その全てが、幸せにならないことを理解した。相手への罪悪感よりも、自己の否定が大きくあるのは、つまり自己への執着であった。激しい自己愛が、自尊心の崩壊により、彼を大きく傷つけた。大きく太った自己愛の中から、健全で前向きな自己への愛はなくなり、残ったのは、どれだけ擦っても、引っ掻いても消えないへばりつくような執着心だけであった。
頭に母親と、アルテとアルトがあった。彼らを愛している「自分」を愛せなくなった。「自分」にケチがついた。人を「愛している」と思っていたが、結局は、人を愛している「自分」に幸せを感じていた。それでも幸せを感じることができた。自分のことが、好きだったから。「自分」が幸せを感じることにケチがついた今、人を愛する資格がなくなったと思った。愛される資格も無くなったと思った。
両親の、母への罪悪感が募った。俺をどこまでも愛してくれた、愛してくれている母への。俺は、愛される資格のない人間なんだ。
「大丈夫?」
目の前には、可憐で真っ直ぐな、女性がいた。心配そうにルイを見ている。
彼女の目の前にいることが、しんどかった。それはやはり、他者への罪悪感からではない。もう自分は、彼女を愛することができないのだろう、という、ただただある後悔からだった。抽出されたのは、気持ちの悪い自分だけであった。
自分はもう、自分だと思っていた存在はもう自分ではなかった。沼の中に浸かっているのではなかった。ヘドロでできた、沼そのものになっていた。
もう、決して、戻ることはできないのだった。




