シュウ、焦燥す
ルイーズが、氷塊から流れ出た女の体の前で膝をついている。
シュウは、その背中をためらいなく斬った。
ルイーズはそのまま前に倒れる。黒い石の破片が、ルイーズの口から吐き出される。
ーーー間に合ったのか、いや
途端、目の前の、氷塊から流れ出た女の体からとてつもない魔力が発せられる。
何かが起こった。それが何なのか、考えるまもなくシュウはすぐに剣を持ち直し、女の身体を突き刺した。
手応えがあった。確かに突き刺した。だが次の瞬間、ばちりと身体が弾かれる。森の中へと吹き飛ばされる。
「クソっ」
言葉を吐き捨てながら、なんとか姿勢を整える。右太ももに痛みがあった。切り傷ができている。
ーーーこれぐらいなら
立ち上がろうとすると、激しい不快感に襲われる。傷痕からは奇妙にも出血はなかった。ただ皮膚が灰色に変色している。ただの痛みではなかった。切られた太モノの内部をぐりぐりと圧迫されているような、どうしようもない不快感だった。その不快感が、徐々に幅を広げるとともに皮膚の変色が広がっていく。シュウはすぐさま自分の太ももに魔法をかけた。変色している部分を封じ込め、それ以上範囲が広がるのを食い止めるように。
太ももに慣れない不快感を覚えながら、再び山道へと戻る。
ルイーズの死体はそこにあった。だが、もう一体の、氷塊から流れ出た女の身体はなくなっていた。
ーーー確かに突き刺した。突き刺したはずだ。
シュウは辺りを見た。風が吹いていた。森がざわつくほどの強い風だった。溶けた氷塊の水が、地面を濡らしていた。ルイーズの死体はピクリとも動かない。吐き出した黒い石もなくなっている。
そばに、穴があった。鉄の蓋は開いていた。穴からはうっすらと赤黒い瘴気が漂っている。
シュウは穴に近づいていく。すでに生臭さがあった。手で鼻を覆いながら、穴を覗き込む。暗い、底の見えない穴だった。すぐに甘ったるく絡みつく激しい刺激臭が、シュウの手を掻い潜り、鼻を、喉をしゅるりと通り、胃の中に落ちる。胃はそれを拒絶するように、胃液を逆流させる。シュウの鼻から、口から胃液が溢れ出す。井戸から顔を背け、嗚咽を漏らしながら嘔吐する。その臭いから察するに、数多の死体が生ゴミのように穴に捨てられ、何の処理もされていないようだった。
ーーーあの女は、この穴の底にいる。
シュウは、嗚咽しながらに穴のそこから魔力の蠢きを感じ取った。
そしてこの穴の意味を、正体を推測した。
数年に一度魔力量の多い子供を穴に放り込み、それを100年200年と続けた結果、魔力蓄積地にした。溜まった魔力を使い氷塊の封印魔法を解き、ルイーズの体から封印の解かれたもう一つの女の体へと精神、記憶を移した。
あくまで推測に過ぎなかったが、いくつかの事実を合わせるとこれでほとんど正解だろうとシュウは思った。封印されていたのが誰の体で、ルイーズの身体にあった精神はそもそも誰のものであったのか、そこに疑問符は残ったが、とにかく今自分がするべきことを考えた。今できることを考えた。女は死んでいない。ただ、元の調子には戻っていないはずだった。何百年かぶりかの復活、そしてシュウの一撃も喰らっている。穴の中に逃げ込んだのがその証拠だ。穴の中で、魔力を溜めているに違いない。
ーーー女に死はあるのか。
女は命を長らえる黒い石を持っている。それに、シュウの一撃でも死ななかった。そもそも氷の封印をされていたことも考えると、殺すに至るのは難しいのではないか。
ーーー穴を崩壊して埋める
今のシュウにはそれができなかった。そもそもシュウの魔法はシールドである。その応用でできることもあるが、穴を崩壊させるほどの攻撃魔法を持っていない。
ーーーならば今は
シュウは、刺激臭に耐えながら、残っている魔力を使い穴の中に魔法を放った。何重ものシールドが穴に張られる。これで何時間か、何日か、とにかく時間が稼げれば。その間に多くの魔法得手を集め、再度封印することができれば。要は時間稼ぎであった。
山道を城の方へと戻っていく。人を集めあの穴に封印の魔法をかけなければならないが、オロフの動向も気になった。誓約書の魔法はすでにないので、オロフは自由の身である。山道でオロフとルイーズはすれ違っているはずだが、何のやりとりもなかったのか。オロフはルイーズに恋をしている。それは揺るぎない事実で、オロフにとってその恋こそが何よりも優先するべき欲望になっている。対してルイーズは、オロフに一介の護衛兵以上の興味を示していなかった。オロフもそれに気づいていた。ならオロフがすることは。ルイーズに振り向いてもらうために。
ーーールイーズと対面する前に、彼女と同格になること
シュウは推測する。オロフは、ルイーズを山道で見かけても会わないよう避け、まずは黒い石の奪取を目論んだ。黒い石を持つ王族は、ジョージ王亡き今、イザベルのみである。黒い石を自身に取り込み、ルイーズと対等になって初めて会おうとするはずである。そこでやっと、ルイーズに見てもらえる。そう考えるはずだ。
シュウは駆けた。右太ももの違和感も少しづつ慣れてきていた。切り傷は灰色のままで、自身の魔法のおかげでそれ以上広がってはいない。駆けながらに、更に頭は働く。
ーーー灰色
護衛兵になる前に、ノエルと集めた数多の文献の記載を思い出す。
『灰色病』
この国の歴史に何度か登場する病の名前だ。その度に国が崩壊するほどの危機が訪れている。
全てはあの女が原因だったのかもしれない。
思考は回る。感情のままに。走りながら、ぐるぐると回る。
女の封印は最優先事項であるはずだが、シュウの頭には、マリーとピーターと、そしてイザベルの姿がどうしても現れた。
オロフに今まさに、襲われているかもしれない。
気持ち悪いもやが心にかかったままだった。だからこそ、
『イザベルが襲われる』
もっとシュウを傷つけること、それは
『マリーが襲われる』
『ピーターが襲われる』
これらの危機を避けたいという焦燥に駆られた。
ーーー誰のために
とにかく、走った。




